隋書卷八十 列女傳 蘭陵公主・南陽公主・襄城王恪妃・華陽王楷妃・譙國夫人・鄭善果母・孝女王舜・韓覬妻・陸讓母・劉昶女・鐘士雄母・孝婦覃氏・元務光母・裴倫妻・趙元楷妻

  • 婦人の徳は温柔を本としつつ、名節を立てるには貞烈によらねばならない。温柔のみで貞烈を欠けば節を守れず、貞烈のみで温柔を欠けば仁を成せない。文伯・王陵の母、白公・杞植の妻、魯の義姑、梁の高行など、古来の名婦は信を守り義を貫き、存亡や盛衰に節を変えなかった。その一方で淫楽にふけった貴婦人は名を残さない。この対比により列女伝を立てる。

蘭陵公主――柳述に殉じた節

  • 蘭陵公主、字は阿五、高祖の第五女。容姿優れ性格温順、読書を好み高祖に特に寵愛された。初め儀同王奉孝に嫁ぎ死別、18歳で河東の柳述に嫁いだ。姉たちが驕り高ぶる中、主だけは婦道を守り舅姑によく仕え、病があれば自ら湯薬を捧げた。高祖は大いに喜び、これにより柳述は寵遇を受けるようになった。
  • もとは晋王広(のちの煬帝)が妻の弟蕭瑒に主を娶らせようとし高祖も一度は許したが、結局柳述に嫁いだため晋王は不満を抱き、柳述が権を握るとさらに憎んだ。高祖崩御後、柳述は嶺表に流された。煬帝は主に離縁を命じ改嫁させようとしたが、主は死をもって拒み、朝謁を絶ち公主号の返上と柳述との同行流罪を上表した。帝は「天下に男が無いわけではないのに柳述と同流罪を望むのか」と激怒したが、主は「先帝が私を柳家に嫁がせた以上、夫が罪あれば妻も連座すべきで、法を曲げてまで恩情を賜る必要はない」と答えた。帝は聞き入れず、主は憂憤のうちに32歳で卒した。
  • 臨終の上表で「共姜(貞節の故事)・鄎媯(節婦の故事)に倣いたい。生きて夫に従えなかった以上、死んでは柳氏に葬られたい」と願ったが、帝はさらに怒り哭礼もせずに洪瀆川に薄く葬った。朝野はこれを悼んだ。

南陽公主――節を守り再婚を拒む

  • 南陽公主は煬帝の長女。容儀優れ志節があり、14歳で許国公宇文述の子士及に嫁ぎ謹厳と評された。宇文述の死に際しては自ら飲食の世話をし世に称された。
  • 宇文化及の弑逆に際し聊城まで随従したが、化及が竇建德に敗れると士及は済北から西の唐へ帰った。隋の旧臣が竇建德のもとに集められ皆恐れおののく中、主だけは平然としていた。建德との対話で国破家亡の恨みを涙とともに語り、聞く者すべてを感動させた。
  • 当時主には禅師という10歳ほどの子があった。建德は化及一族を誅する際、公主の子も連座すべきだが忍びなければ留めてもよいと使者を通じて伝えたが、主は「化及は隋の重臣でありながら弑逆した、法通り処すべき」と答え、建德は禅師を殺した。主は建德に願い出て出家した。
  • 建德の敗死後、士及と洛陽の下で再会したが主は会おうとせず、士及が復縁を求めると「私とあなたは仇同士、あなたが弑逆に関与していなかったのが唯一の救い」と拒絶し立ち去らせた。

襄城王恪妃――夫に殉じた柳氏

  • 襄城王楊恪の妃、河東柳氏の娘。父は柳旦、循州刺史。姿容端麗で良家の子として妃に選ばれたが、まもなく恪が廃され、妃はさらに敬い仕えた。煬帝即位後、恪は辺境へ流され使者に道中で殺された。訣別に際し妃は「王が死ねば妾も生きぬ」と誓い、慟哭。恪の死後、棺を運ばせ「楊氏と同じ墓に葬られたい」と使者に願い、棺にすがって号泣し自ら首を吊って死んだ。

華陽王楷妃――辱めを拒んだ元氏

  • 華陽王楊楷の妃、河南元氏の娘。父は元岩、仁寿中に黄門侍郎・龍涸県公。煬帝即位後、柳述の一件に連座し除名・南海に流され、赦免後に長安に戻ったが讒言を受け殺された。妃は姿色に優れ選ばれて妃となり、楷が幽廃されるといっそう仕えを厚くした。
  • 江都の変で楷が宇文化及に殺されると、妃は化及の党の元武達に与えられた。武達は初め礼をもって別室に置いたが、酔って犯そうとした。妃は拒み通し、怒った武達に百余回鞭打たれても言辞は激しく、瓦片で自ら顔を傷つけ血涙を流したため武達は諦めた。妃は「早く死ねなかったことが私の罪」と述べ、絶食して卒した。

譙國夫人――嶺南を鎮めた洗氏

  • 譙国夫人は高涼の洗氏の娘。南越諸族の首領の家系で幼くして賢明、部落を率い軍事にも通じた。族人の争いを鎮め信義を広めた。梁の大同初年、羅州刺史馮融が息子の高涼太守馮寶に娶らせた。夫婦で訴訟を裁き、法を厳正に適用し秩序を保った。
  • 侯景の乱の際、高州刺史李遷仕が偽って馮寶を招こうとしたのを夫人が見破り、逆に計略で遷仕の陣を急襲して大勝させ、長城侯陳霸先とも連合した。夫人は霸先の人望を見抜き「後に天下を平らげる人物」と評した。
  • 馮寶の死後、嶺南の混乱を鎮めた。子の馮僕は9歳で陽春郡守に任じられた。歐陽紇の反乱に際しては僕を諭して忠義を貫かせ、章昭達を援けて紇の一党を潰滅させた。夫人は中郎将・石龍太夫人に冊立され、鹵簿(儀仗)も刺史の格式を与えられた。陳滅亡後は嶺南の民に「聖母」と称され地方を安んじた。
  • 隋の総管韋洸の嶺南平定に際し、夫人は陳から得ていた犀杖を証拠に陳滅亡を確認し、孫の馮魂を遣わし洸を迎え入れさせ嶺南を平定させた。番禺の王仲宣の乱では孫の馮暄が反徒陳仏智と親しく進軍を遅らせたため夫人は暄を投獄、別の孫の馮盎に仏智を討たせ斬らせた。夫人は自ら甲冑をまとい介馬に乗り、裴矩の巡撫を警護し諸族の首領を参謁させ嶺南を鎮めた。
  • 高祖は馮盎を高州刺史に、暄を赦して羅州刺史に任じ、馮寶を広州総管・譙国公に追贈、夫人は譙国夫人に冊立された。幕府開設・印章・六州兵馬の発動権が許され、緊急時の専断も認められた。皇后から下賜された首飾を代々の宝物と共に保管し、毎年子孫に「三代の主に仕えたが心は一つ、忠孝を尽くせ」と諭した。
  • 番州総管趙訥の貪虐に対し夫人は長史張融を通じて上封事し罪状を告発、趙訥は法に処された。夫人は自ら詔書を奉じて十余州を巡り俚獠を招撫し、皆帰順させた。高祖は臨振県の湯沐邑千五百戸を賜い、馮僕(息子)には岩州総管・平原郡公を追贈。仁寿初年に卒し、諡は誠敬夫人。

鄭善果母――清廉を訓した崔氏

  • 鄭善果の母は清河崔氏の娘。13歳で鄭誠に嫁ぎ善果を生んだが、誠は尉迥討伐の戦で戦死。母は20歳で寡婦となり、父の彦穆が再婚させようとしたが「婦人に再婚の礼なし。子を捨てるのは不慈、亡夫に背くのは無礼」と拒んだ。善果は父の戦死により幼くして大将軍・開封県公(邑千戸)を授かり、のち武徳郡公に進み、14歳で沂州刺史、のち景州刺史、魯郡太守を歴任した。
  • 母は賢明で節操があり書史に通じ、善果の裁判を几帳の陰から聴き、道理に適えば喜んで対座して語り、不当であれば戻って被を被って泣き終日食べなかった。善果が謝ると母は「お前の家風を汚し忠臣の業を継げなくなることを恐れている」と諭した。
  • 母は自ら夜通し紡績をし、善果が「俸禄は十分あるのになぜそこまで勤めるのか」と問うと「俸禄は先君の忠義への報い、六親に分け与えるべきもの、妻子だけで独占してよいものではない」と答えた。寡婦になって以来化粧をせず質素な服を着、祭祀・賓客の事以外に酒肉を出さず、静室に籠り、姻戚の吉凶には贈物のみで訪問しなかった。
  • 善果は各地の任地で公費を受け取らず官舎修繕や部下への分配に充て、清廉な官吏と称された。煬帝は御史大夫張衡を遣わし労い、考課は天下一と評され光禄卿に召された。母の死後、善果は大理卿として次第に驕り、清廉さは以前ほどでなくなった。

孝女王舜――姉妹で父の仇を討つ

  • 孝女王舜は趙郡の王子春の娘。子春は従兄の長忻と不仲で、北斉滅亡の混乱に乗じ長忻夫妻に殺された。舜は7歳、妹の粲は5歳、璠は2歳で孤児となり親戚に身を寄せた。舜は妹たちを育て復讐を心に誓い、成長後の縁談も拒み続けた。
  • 舜は妹たちに「兄弟のいない我らが父の仇を討たねば」と告げ、妹たちも同意した。ある夜、姉妹はそれぞれ刀を持って塀を越え長忻夫妻を殺害、父の墓に報告した後、県に自首した。姉妹は互いに主犯を名乗り州県は判断できず、高祖はこれを聞き感嘆して罪を特赦した。

韓覬妻――貞節を貫いた於氏

  • 韓覬の妻、洛陽の於氏、字は茂徳。父の於実は北周の大左輔。14歳で嫁いだが、18歳で夫の覬が戦死。哀しみのあまり痩せ衰え、日々の祭祀を欠かさなかった。喪明け後、父が幼く子もないことを理由に再婚させようとしたが、髪を切って誓い涙を流し続け、父も遂に折れた。
  • 夫の庶子世隆を養子とし、実子同様に育て立派に成長させた。寡居後は実家への里帰り以外の親族との交際を絶ち、来訪者も屋外で応対、粗衣粗食で音楽も禁じ生涯を貫いた。高祖は褒賞の詔を下し、長安では「節婦闕」と呼ばれた。72歳で家で没した。

陸讓母――誠意で子の死罪を減じた馮氏

  • 陸讓の母、上党の馮氏。仁厚で母儀があり、讓は継子(庶子)。仁寿中、讓は番州刺史として不正蓄財を働き糾弾され、上が調査の上死罪を決定した。讓は冤罪を訴えたが治書侍御史の再調査でも同じ結論だった。公卿百官の合議も「死罪相当」とし詔で確定した。
  • 讓が刑に処されようとした時、馮氏は蓬髪垢面で朝堂に赴き讓を厳しく叱責し、粥を自ら持たせ食べさせた。その上で上表し哀願、上は心を動かされた。独孤皇后もその真心に感嘆し口添えした。治書侍御史柳彧が「馮氏の母徳は道行く人をも感動させる、殺せば教化に反する」と進言。上は京城の士庶を朱雀門に集め、詔で「馮氏の慈愛は世の模範、讓は死一等を減じ除名・庶人とする」と発表。さらに「馮氏の義に免死を許す、天下の婦人がみな馮氏のようなら風俗はどれほど和らぐか」と詔し、物五百段を賜い、命婦らに引き合わせて栄誉を与えた。

劉昶女――父の獄に殉じた孝

  • 劉昶の娘、河南の長孫氏の妻。昶は北周で公主を娶り柱国・彭国公に至り高祖と旧知の間柄、受禅後も重用され左武衛大将軍・慶州総管を歴任した。子の居士は太子千牛備身として任侠の徒を集め法を犯し続けたが、昶の縁で許され続け増長した。
  • 居士は党与300人を率い、公卿子弟を車輪で拘束し暴行するなど長安中で乱行を働いたが、公卿妃主すら手が出せなかった。娘(劉昶女)は涙ながらに諌めたが改まらず家産も傾いた。昶の老後の世話は薄かったが、娘は嘆きながら実家に帰るたび紡績で得た甘美な食を捧げた。
  • 居士が旧未央殿基で不遜な会合を開いたことや突厥を招き入れる企てが告発され、上が昶に問うと昶は「白黒は至尊のご判断次第」と傲慢に答えたため上は激怒し投獄。憲司は昶の不孝も告発した。娘は父の助命を絶望しつつ数日絶食し、自ら調理した食を大理寺に運び獄卒に跪いて渡し、涙にむせんだ。居士は斬に処され昶も家で賜死となった。娘はその場で幾度も気を失いながら「父に罪はない、子に連座しただけ」と嘆願し、見る者は涙した。以後、布衣粗食で生涯を終えた。上は「衰えた家に賢女あり、栄える家に不肖の男あり、というのは真実だ」と嘆じた。

鐘士雄母――子を諌めた蔣氏(附・尹州の寡婦胡氏)

  • 鐘士雄の母、臨賀の蔣氏。士雄は陳に伏波将軍として仕え、陳主は嶺南酋帥の反覆を恐れ蔣氏を人質に都に留めた。晋王広の江南平定後、蔣氏は臨賀に帰された。まもなく虞子茂・鐘文華らの叛乱で士雄も呼応しようとしたが、母は「揚都で辛苦を経て今聖化に逢い母子再会できた恩に背くな」と諭し止めさせた。蔣氏はさらに書を送り叛徒を諭したが従わず、叛徒は官軍に敗れた。高祖は蔣氏を安楽県君に封じた。
  • 尹州の寡婦胡氏(素性不詳)も志節高く、江南の乱に際し宗族に叛逆に従わぬよう説き、密陵郡君に封じられた。

孝婦覃氏――十年で八人を葬る

  • 孝婦覃氏、上郡の鍾氏の妻。夫と結婚して間もなく死別、18歳で寡婦となり姑によく仕えた。数年のうちに姑と伯叔が相次いで没したが家貧しく葬れず、節約と夜通しの紡績で十年かけて費用を蓄え、八人の喪を葬った。州里に敬われ、上は米百石を賜い門閭を表彰した。

元務光母――節を守り顔を傷つけた盧氏

  • 元務光の母、范陽の盧氏。読書を好み礼を重んじ、若くして寡婦となり子らを自ら教育した。仁寿末、漢王諒の乱で将の綦良が山東を略した際、務光は記室として仕えた。良の敗北後、慈州刺史上官政が務光の家を調べ盧氏に横恋慕し、盧氏は死を誓って拒んだ。政は怒り燭で身を焼いたが盧氏は屈しなかった。

裴倫妻――一家で井戸に身を投じる

  • 裴倫の妻、河東の柳氏。大業末、倫は渭源令であったが薛挙の乱で県城が陥落し殺された。40歳の柳氏には二人の娘と三人の子の嫁がおり、皆美貌であった。柳氏は「賊に辱められるより共に死のう」と告げ、娘たちも従い、柳氏がまず井戸に身を投げ、娘・嫁が次々に続いて全員死んだ。

趙元楷妻――賊に抗い殺された崔氏

  • 趙元楷の妻、清河の崔氏。父は崔儦(『文学伝』に伝あり)。家風正しく子女とも礼を守った。元楷の父が僕射であったことから重んじられ嫁いだ。元楷は崔氏を敬い、宴席でも軽々しく振る舞わなかった。
  • 宇文化及の乱に際し河北まで随従し長安への帰途、滏口で盗賊に襲われ元楷は辛くも逃れたが、崔氏は捕らえられ賊の妻にされかけた。崔氏は「破亡の今、死ぬのみ、賊の妻にはならぬ」と拒んだが、衣を裂かれ縛られて凌辱されかけ、機転で「従うので縄を解け」と偽り、解かれるや賊の刀を奪い「殺すなら刀を持ってくるがいい」と木に寄りかかって叫んだ。賊は激怒し射殺した。元楷は後に下手人を捕らえ八つ裂きにし崔氏の柩に供えた。

史論

  • 史臣曰く、婦人の徳は柔順を第一とするのが常であるが、それは中庸を挙げたに過ぎず極致ではない。明識・遠図・貞心・峻節を貫いた者は史書に数多い。蘭陵公主・南陽公主の志、洗夫人・孝女の忠壮、崔氏・馮氏二母の誠意は、義勇の士や名家の令嬢すら及ばないほどである。襄城・華陽の妃、裴倫・元楷の妻は艱難に遭い、共に穴に入る覚悟で節義を貫いた。その志は氷霜に勝り言葉は皎日に勝る。『詩経』の共姜の自誓や『左伝』の伯姫の守死といえども、これに加えるものはないだろう。