隋書卷七十九 外戚傳 呂永吉・獨孤羅・獨孤陀・蕭巋・蕭琮・蕭瓛

  • 歴代の外戚は母后の権に乗じて高位に上っても驕り高ぶって身を滅ぼす例が多く、呂氏・霍氏・上官氏・閻氏・梁氏・竇氏・鄧氏などが相次いで滅びた。
  • 隋の文帝の外戚・独孤氏、煬帝の外戚・蕭氏は、朝権に深く関与せず身の程を守ったため、王朝の交代を経ても滅びず身を全うできた。この対比をもって外戚伝を立てる。

呂氏(高祖外家)――呂永吉・呂道貴

  • 高祖(楊堅)の母方の一族呂氏は微賤な出で、北斉平定後は行方が知れなかった。開皇初年、済南郡の男子呂永吉が名乗り出て、姑の苦桃が楊忠(高祖の父)の妻であったと申告し、調査の結果、外祖父の甥にあたると確認された。
  • 亡き外祖父・呂雙周に上柱国・太尉・八州諸軍事・青州刺史、斉郡公の位を追贈し諡は敬、外祖母姚氏は斉敬公夫人とされ、斉州に廟を立て守塚十戸を置いた。呂永吉は爵位を継いで京師にとどまり、大業中に上党郡太守となったが職務怠慢で後に免官、行方不明となった。
  • 永吉の従父・呂道貴は粗野で言葉が下品だった。長安に召された際、高祖は涙したが道貴は悲しむ様子もなく高祖の名を連呼し不敬な発言を繰り返した。それでも高祖は情を寄せ、高熲に命じて厚遇させたが朝士との接触は禁じた。上儀同三司を授け済南太守として赴任させ入朝を絶たせた。道貴は任地で皇舅を自称し儀衛を連れて宴遊し、官民は苦しんだ。郡が廃されると家で没し、子孫は伝わらなかった。

獨孤羅――出自と生涯

  • 独孤羅、字は羅仁、雲中の人。父の独孤信は西魏の荊州刺史。北魏孝武帝の関中入りに際し信は長安に帰順したが、家族は北斉に残されたため羅は捕らわれの身となった。信は後に北周の大司馬となったが宇文護に誅殺され、羅は解放されて中山に寓居し貧窮した。北斉の独孤永業が同族のよしみで田宅を与え助けた。
  • 信は関中入り後、郭氏との間に善・穆・藏・順・陀・整の六子、崔氏との間に献皇后(独孤伽羅)をもうけた。北斉滅亡後、高祖(当時定州総管)は献皇后の指示で羅を捜し出させ再会し厚遇した。北周武帝は羅を功臣の子として楚安郡太守に抜擢したが、病のため辞め帰京した。
  • 羅は貧賤の時期が長かったため弟たちに軽んじられたが争わず、後に重んじられるようになった。高祖が丞相となると儀同を授け側近に置いた。受禅後、亡父信に太師・上柱国・冀定等十州刺史・趙国公(邑万戸)を追贈する詔を発した。
  • 羅の母は北斉で没しており夫人の号が無かったため、弟たちは羅の爵位継承に異論を唱えたが、独孤皇后が「羅は正統な嫡長子であり否定できない」と裁定し、羅が趙国公を継いだ。弟の善は河内郡公、穆は金泉県公、藏は武平県公、陀は武喜県公、整は千牛備身とされた。
  • 羅は左領左右将軍、のち左衛将軍に進み、涼州総管を経て上柱国に至った。仁寿中に左武衛大将軍。煬帝即位後、蜀国公に改封されたが間もなく卒し、諡は恭。
  • 子の纂は河陽郡尉に至った。纂の弟の武都も大業末に河陽郡尉。庶長子の開遠は千牛として仕え、宇文化及の変で裴虔通が成象殿に賊を率いて侵入した際、独孤盛と共に閤下で力戦し賊に捕らえられたが、その義に感じた賊に助命された。善は後に柱国まで昇り、子の覧は左候衛将軍まで至り大業末に卒した。

獨孤陀――貓鬼の呪術事件

  • 独孤陀、字は黎邪。北周に胥附上士として仕えたが、父の流罪に連座して十余年蜀郡にいた。宇文護誅殺後、長安に帰還。高祖受禅後、上開府・右領左右将軍を授かり、のち郢州刺史、上大将軍、延州刺史を歴任した。
  • 邪術(左道)を好んだ。妻の母がもと貓鬼(呪術で人を呪殺する邪神)を祀っており、それが陀の家に伝わった。高祖は噂を聞いたが信じなかった。あるとき献皇后と楊素の妻鄭氏が病にかかり、医師が「これは貓鬼の病である」と診断した。陀は皇后の異母弟、陀の妻は楊素の異母妹であったため、上は陀を疑い、兄の穆に諭させたが陀は否定した。上は不快に思い陀を遷州刺史に左遷し、陀は恨み言を口にした。
  • 上は高熲・蘇威・大理正皇甫孝緒・大理丞楊遠らに事件を糾問させた。陀の婢・徐阿尼が「貓鬼はもと陀の母の実家に伝わり、子の日ごとに祀っていた。貓鬼が人を殺すと、死んだ家の財が飼い主の家に移る」と証言した。陀が家で酒を求めた際、妻に金がないと断られ、陀は阿尼に「貓鬼を越公(楊素)の家に向かわせ、われに金を得させよ」と命じたところ、数日後に貓鬼が楊素家を襲ったという。開皇十一年、并州から帰った上のもとで陀は「貓鬼を皇后のもとへ向かわせ多くの品を賜らせよ」と命じ、貓鬼は宮中に入ったとされる。楊遠は門下省の外で阿尼に呪法を行わせ、貓鬼来訪の様子が確認された。
  • 事件は公卿に諮られ、奇章公牛弘は「妖は人が興すもの、その人を殺せば絶える」と述べた。上は陀夫妻を犢車に乗せ死を賜おうとしたが、陀の弟で司勲侍中の整が哀訴したため陀は死罪を免れて除名・庶人とされ、妻楊氏は尼とされた。以前、貓鬼による母の死を訴え出た者があった際、上は妖妄として怒って退けていたが、この事件を機に貓鬼を飼っていたと訴えられた家を誅する詔が出された。陀は間もなく病没した。
  • 煬帝は即位後、舅氏として陀を悼み、正議大夫を追贈し、さらに銀青光禄大夫を重ねて追贈した。二子、延福・延寿があった。
  • 弟の整は幽州刺史に至り、大業初めに卒し、金紫光禄大夫・平郷侯を追贈された。

蕭巋――梁の後主

  • 蕭巋、字は仁遠、梁の昭明太子蕭統の孫。父の蕭詧は岳陽王として襄陽を鎮めたが、侯景の乱で兄の河東王蕭誉が叔父の湘東王蕭繹に殺され、繹が即位すると詧は西魏に臣従し繹討伐を求めた。北周太祖は詧を梁主とし、柱国于謹らに騎兵五万を率いさせ繹を滅ぼした。詧は江陵に都し、荊郡・西平州の三百里の地を領し皇帝を称した。江陵総管が置かれ北周の兵が駐屯した。
  • 詧の死後、巋が即位し年号を天保とした。巋は弁舌に優れ学才があり仏典を好んだ。北周武帝の北斉平定後の朝賀の宴で、帝自ら琵琶を奏で巋に舞を求めると、巋は「陛下自ら五絃を演奏されるなら、臣もどうして百獣に倣わずにいられましょう」と応じた。
  • 高祖受禅後は厚遇され、金銀布帛馬を賜わり、王公の上位に置かれた。娘は晋王(後の煬帝)妃となり、息子の瑒は蘭陵公主への尚主も予定された。独孤皇后が上に「梁主は代々の縁ある腹心、猜疑の必要はない」と述べ、江陵総管は廃されて巋が自国を専制した。
  • 病没に際し上表し、破格の恩顧への感謝と後嗣の孤弱への配慮を乞い、佩用の金装剣を献じた。上はこれを見て嘆いた。在位23年、44歳で薨去。梁の臣下は孝明皇帝、廟号世宗と諡した。子の琮が継いだ。巋は『孝経』『周易義記』『大小乗幽微』十四巻を著し世に行われた。

蕭琮――梁国の廃絶

  • 琮、字は温文。寛仁で度量があり、弓馬にも優れた。東陽王から梁の太子となり、即位すると高祖から璽書で藩屏としての心構えを諭された。年号を広運としたところ、識者は「運の字は軍が走ると分解できる、我が君は逃走するのではないか」と評した。
  • 大将軍戚昕に陳の公安を襲わせたが失敗した。叔父の岑を入朝させ大将軍・懐義公として留め置き、江陵総管を再置して監視した。琮配下の大将軍許世武が陳へ内応を図ったが発覚し、琮が誅殺した。
  • のち上は琮を入朝させ、江陵の父老は「我が君は帰らないだろう」と嘆いた。上は武郷公崔弘度に軍を与え戍させたが、琮の叔父岩や弟瓛はその奇襲を恐れ陳軍を城下に招き入れ民を虜として叛いたため、梁国は廃された。左僕射高熲が安撫にあたり、江陵の死罪を赦し十年の賦役を免除し、梁の二主に守墓十戸を給した。琮は柱国・莒国公とされた。
  • 煬帝の代、皇后(蕭皇后)の縁で重用され内史令、のち梁公に改封された。一族は緦麻の親等まで登用され朝廷に並んだ。琮は職務に淡白で退朝後は飲酒にふけった。内史令楊約が帝命で誡めても私情でかわした。楊約の兄の楊素(尚書令)は、琮が妹を鉗耳氏に嫁がせたことを「帝室の望みある家柄が卑しい家に嫁がせるとは」と咎めたが、琮は「以前も侯莫陳氏(異民族系)に嫁がせた、何の疑いがあろう」と反論し楊素を黙らせた。
  • 賀若弼と親交があったため、弼誅殺後に流行した童謡「蕭蕭亦復起」により帝に忌避され、家に廃されて間もなく卒し、左光禄大夫を追贈された。子の鉉は襄城通守。琮の甥の钜(小字藏)は煬帝に寵愛され千牛となり、宇文皛と共に宮中の探索を行い、帝の遊宴に常に随行して宮中で淫らな行いをした。江都の変で宇文化及に殺された。

蕭瓛――呉人に推戴された滅亡

  • 瓛、字は欽文。聡敏で文章に通じた。梁の荊州刺史として名声があったが、崔弘度の進軍を恐れ叔父の岩と共に陳へ亡命。陳主は侍中・安東将軍・呉州刺史とし、三呉の父老に「瓛は我らの君子である」と慕われた。陳滅亡後、呉人が瓛を主として推戴した。
  • 瓛は梁の武帝・簡文帝・父詧・兄巋がいずれも三男で帝位に就いたことに倣い、自身も巋の三男として自負した。予言者の謝異が梁陳の興廃を的中させてきた人物で、瓛に付き従い民衆の信望を集めた。陳主が捕らえられると異は瓛のもとへ逃れ、瓛への支持がさらに高まった。
  • 褒国公宇文述が討伐に向かい、瓛は王褒(哀)に呉州を守らせ自ら述を防いだが、述は別動隊で呉州を奇襲し、守将は道士姿に変装して逃走した。これを聞いた瓛軍は闘志を失い、一戦で敗れた。瓛は数人と太湖に逃れ民家に匿われたが捕らえられ、長安で斬られた。時に21歳。
  • 弟の璟は朝請大夫・尚衣奉御。瑒は衛尉卿・秘書監・陶丘侯を歴任。瑀は内史侍郎・河池太守を歴任した。

史論

  • 史臣曰く、上古の聖王は外戚の権を深く警戒し、舅甥の国や母后の家が朝権を握ることはなかった。漢・晋以後は礼を欠いて権に近づいたため、その滅びも速やかであった。独孤氏が呂氏・霍氏に匹敵する権勢を持てば仁寿以前に敗れ、蕭氏が梁氏・竇氏に並ぶ勢いを持てば大業以後に滅んだはずである。両氏が旧業を保ち、あるいはさらに栄えたのは、権寵に近づかず道理をもって処したからにほかならない。