隋書卷八十一 東夷傳 高麗・百濟・新羅・靺鞨・流求國・倭國

高麗――建国伝説と歴代の朝貢

  • 高麗の祖は夫餘に出る。夫餘王が河伯の娘を得て閉じ込めたところ日光に感応して身ごもり大卵を産み、そこから朱蒙という男子が生まれた。夫餘の臣は朱蒙を殺すよう求めたが王は聞かず、成長した朱蒙が狩で功を上げると再び殺害を図られた。母の警告で朱蒙は東南へ逃れ、大河に阻まれた際「我は河伯の外孫、日の子なり」と叫ぶと魚鼈が橋となって渡ることができ、追手は渡れず退いた。
  • 朱蒙は建国し高句麗と号し高を氏とした。朱蒙死後、子の閭達が継ぎ、孫の莫来の代に夫餘を併合した。子孫の位宮は魏の正始年間に西安平へ侵入し毌丘倹に撃退された。位宮の玄孫の子・昭列帝は慕容氏に敗れ丸都に逃れたが宮室を焼かれ大掠され、のち百済に殺された。その曾孫璉は北魏に使者を送り、璉の六世孫湯は北周に朝貢し武帝から上開府・遼東郡公・遼東王を授かった。高祖受禅後も湯は使者を送り続け、大将軍・高麗王に改封され、歳ごとの朝貢を絶やさなかった。
  • 国は東西2000里、南北1000余里。都は平壌城(長安城とも)。国内城・漢城とあわせ「三京」と呼ばれた。新羅と常に争い戦が絶えなかった。官制は太大兄以下十二等、内評・外評・五部褥薩がある。皮冠に鳥羽を挿し、貴人は紫羅の冠を金銀で飾る。租税は布五匹・穀五石、遊民は三年に一度十人で細布一匹、租戸は上一石・次七斗・下五斗。反逆者は柱に縛って焼き斬り家財を没収、盗みは十倍の弁償を課すため犯罪は少ない。楽器は五絃・琴・箏・篳篥・横吹・簫・鼓など。毎年初め浿水で水を掛け合う祭を行う。父子は同じ川で水浴し同室で寝るなど風俗があり、婚姻は男女の合意のみで男家が猪酒を送るだけで財の授受はなく、財を受け取る者は恥とされた。死者は屋内に三年殯し吉日を選び葬る。喪は父母・夫は三年、兄弟は三月。葬送に鼓舞を用い、死者の生前の服玩車馬を墓に置き会葬者が奪い合って持ち去る。鬼神や淫祠を多く敬う。
  • 開皇初め頻繁に朝貢したが、陳平定後、王の湯は恐れて武備を整えた。開皇十七年、高祖は湯へ璽書を送り、靺鞨を脅し契丹を禁圧する行為や、弩の工匠を密かに引き抜いた不臣の行為、使者を軟禁し情報を遮断する態度、辺境で人を殺し謀を巡らす姦計を厳しく咎め、藩臣の節を守り改めるよう求めた。あわせて陳滅亡の経緯を引き、遼東の広さや高麗の人口は陳と比較にならず、軽々に兵を出すこともできる旨を諭して自省を促した。
  • 湯は書を見て恐懼し謝罪の上表を準備するも病没。子の元が継いだ。高祖は元を上開府・儀同三司、遼東郡公に任じ、元は謝恩の上表とともに王号を求め、高祖はこれを許した。
  • 翌年、元は靺鞨の兵一万余騎で遼西に侵入したが営州総管韋沖に撃退され、高祖は怒り漢王諒を元帥として討伐を命じ元の爵位を剥奪する詔を発した。しかし糧運が続かず疫病も流行し軍は振るわず、遼水に至った時点で元も恐れ謝罪、上表で「遼東糞土臣元」と自称した。上は兵を退き元は歳ごとの朝貢を続けた。
  • 煬帝即位後、天下が全盛の中、高昌王・突厥啓人可汗が親朝したのに対し高麗の元は入朝を渋った。大業七年、帝は遼水を渡り遼東城を包囲したが、諸将は帝の「降伏があれば必ず撫納せよ、独断で兵を出すな」との命に従い戦機を逸し続け、賊はその隙に守りを固め、遂に食糧不足と輸送難で撤兵、武厲邏を得て遼東郡・通定鎮を置くにとどまった。
  • 大業九年の再征では諸将に臨機の裁量を許し攻勢が進んだが、楊玄感の乱の報で帝は即日撤兵。降将斛斯政が高麗へ亡命し情報が漏れ、殿軍が大敗した。大業十年の三度目の徴発では盗賊の蜂起で軍の期日が乱れる中、高麗も疲弊し降伏を申し出て斛斯政を送り返した。帝は懐遠鎮でこれを受け、俘囚を伴い帰還したが、元の入朝は実現せず、以後は天下大乱により再征は行われなかった。

百濟――東明の伝説と隋との交渉

  • 百済の祖は高麗国の出。高麗王の侍婢が身ごもり、卵状のものに感応したと弁明して助命され東明を生んだ。廁に捨てられても死なず神とされ養われたが、成長すると高麗王に忌まれ淹水へ逃れ夫餘人に奉じられた。東明の後裔の仇台は仁信篤く帯方の故地に建国、後漢の遼東太守公孫度が娘を娶らせ国は栄え東夷の強国となった。百家で海を渡ったことから百済と号した。開皇初め王の余昌が朝貢し上開府・帯方郡公・百済王に封じられた。
  • 国は東西450里、南北900余里、南は新羅、北は高麗と接し、都は居抜城。官制は左平以下十六品、地方は五部・五方に分かれる。新羅・高麗・倭人や中国人も雑居し、衣服は高麗に似る。婦人は化粧をせず、辮髪の慣習がある。騎射を尊び読書史・医薬・占相に通じ、僧尼寺塔も多い。楽器や投壺・囲碁など遊戯があり、宋の元嘉暦を用い寅月を歳首とする。大姓は沙・燕・刕・解・貞・国・木・苩の八氏。婚礼は華夏に似、喪制は高麗と同じ。四仲月に天・五帝・始祖仇台の廟を祀る。
  • 陳平定の年、隋の漂着船を厚遇し送り返し、陳平定を祝う使者も送ったため、高祖は「毎年の朝貢は不要」と労いの詔を出した。開皇十八年、王昌は遼東の役に際し軍導を申し出たが、高祖は「すでに赦した以上討伐しない」として使者を厚遇して帰し、これを知った高麗は百済の境を侵した。
  • 昌の死後、子の余宣、その死後は子の余璋が継いだ。大業三年、璋は使者燕文進を、翌年は王孝隣を送り高麗討伐を要請したが、実際は高麗と内通し隋を窺っていた。大業七年の親征では璋は臣の国智牟を送り軍期を尋ねる一方、境で兵を整え援軍を装いつつ両端を持した。のち新羅と度々戦い、大業十年に再び朝貢したが、天下乱れて以後は使者が絶えた。

新羅――百済からの独立と発展

  • 新羅は高麗の東南、旧楽浪の地にあり斯羅とも称す。毌丘倹が高麗を破った際に沃沮へ逃れた人々が後に帰還し留まった者が新羅となり、華夏・高麗・百済の人が混在する。王はもと百済人で海を渡って新羅に入り王となった。開皇十四年、王金真平が朝貢し高祖は上開府・楽浪郡公・新羅王に封じた。もとは百済の附庸だったが、百済が高麗と戦う中で高麗人が投降し強盛となり、迦羅国への従属を経て自立した。
  • 官制は伊罰干以下十七等、文字・甲兵は中国と同じ。壮健者を軍に取り、烽戍邏に部伍を置く。風俗・刑政・衣服は高麗・百済に似る。正月には王が宴を開き群官を賞し、日月神を拝す。八月十五日には楽を設け弓の技を競わせ馬布を賞す。大事は群官の合議で決す。服色は素を尊ぶ。婚礼は酒食のみで軽重は貧富による。新婚の夜、女はまず舅姑を拝し次いで夫を拝す。喪は王・父母・妻子とも一年。田は良沃で五穀果菜は華夏に似る。大業以来歳ごとに朝貢し、山険により百済とも互角に渡り合った。

靺鞨――七部族と隋との交流

  • 靺鞨は高麗の北にあり邑落ごとに酋長がいて統一されない。七種あり、粟末部(高麗と接し勝兵数千)、伯咄部(勝兵七千)、安車骨部、拂涅部、号室部、黒水部(最も勁健)、白山部で、いずれも勝兵三千以下。拂涅以東は石鏃を用い古の粛慎氏にあたる。渠帥は大莫弗瞞咄と称し東夷の強国。徒太山を敬い熊羆豹狼も人を害さないとされる。土を築き穴居し梯で出入りする。粟麦の栽培や木皮からの製塩、猪の飼育、粟の醸造酒がある。婦人は布、男子は猪狗の皮を着け、溺で手や顔を洗う風習は東夷の中で最も不潔とされた。妻の姦通は夫が妻を殺し、密告者も殺すため発覚しにくい。狩猟を業とし毒矢を用いる。
  • 開皇初め相次いで朝貢し、高祖は「汝らを子のごとく見る、朕を父のごとく敬え」と諭し、使者は感激して恭順を誓った。契丹との抗争には高祖が仲裁を諭し謝罪を得た。使者の舞は戦闘の所作が多く、上は「天地の間にこのようなものがいるとは」と侍臣に語った。隋との地理は隔たるが粟末・白山部のみ比較的近かった。
  • 煬帝の高麗戦で靺鞨の渠帥突地稽が部を率い降り右光禄大夫として柳城に居し漢化を望んで冠帯を賜った。遼東の役に従軍し功を上げ、江都行幸にも従ったが、帰路に李密の乱に遭い辛くも逃れ、その後王須抜に一時没するも羅芸のもとに逃れた。

流求國――特異な風俗と隋の遠征

  • 流求国は海島の中にあり、王の由来は詳らかでない。王は「可老羊」、妻は「多拔荼」と呼ばれ、居城は波羅檀洞で三重の柵と流水に囲まれる。国内に四五の帥がいて諸洞を統べ、洞ごとに小王、村には鳥了帥が置かれる。男女とも白紵で髪を結い、男は鳥羽の冠、婦人は方形の白布帽を用いる。武具は刀・矟・弓・矢・剣・鈹など、鉄が少なく骨角で補う。王は木獣に乗り輿で運ばれる。
  • 国人は好戦的で洞ごとに戦い、敗れた側は和解を求め、討死者の遺体を食し髑髏を王に献じ隊帥として認められる風習がある。租税はなく事あるごとに均等に徴発、刑罰も臨機に決す。獄には枷がなく縄で縛り、死刑は錐で頂を穿つ。文字はなく月の満ち欠けや草木の枯死で時節を知る。
  • 人は深目長鼻で胡人に似、君臣・拝礼の観念がない。父子同床で寝る。婦人は墨で手に虫蛇の文様を彫る。婚姻は酒肴珠貝を娉とし相思相愛でも成立する。出産の風習や塩・酢・酒の製法があり、宴会では名を呼ばれてから飲む作法がある。歌舞の風習、葬送は水浴させ布帛で包み葦草で覆い土に接して殯し墳を作らない。
  • 大業年間、海師が春秋に東方の煙霧を望見したことをきっかけに、羽騎尉が入海して異俗を訪ね一人を捕らえて帰った。翌年再度慰撫を試みたが従わず布甲のみ持ち帰った。武賁郎将・朝請大夫が兵を率い海を渡り、抵抗する現地人を撃破して都を焼き男女数千人を虜として帰還、以後交流は絶えた。

倭國――邪馬台国以来の来歴

  • 俀国(倭国)は百済・新羅の東南、大海中の山島に依って居し、水陸三千里。魏の時、通じた三十余国はみな自ら王を称した。夷人は里数を知らず日数で計る。国境は東西五月行、南北三月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。都は邪靡堆、『魏志』にいう邪馬台である。古くは楽浪郡・帯方郡の境から一万二千里、会稽の東にあり儋耳に近いと伝える。
  • 後漢の光武帝の時、使者を送り自ら大夫と称した。安帝の時にも朝貢し、俀奴国と呼ばれた。桓帝・霊帝の間、国は大いに乱れ相攻伐し年を経て主が無かったが、卑弥呼という女子が鬼道で衆を惑わし、国人が共に立てて王とした。男弟が佐けて国を治めた。王は侍婢千人を有し、面を見る者は少なく、ただ男子二人のみが飲食を給し言葉を取り次いだ。王は宮室楼観を持ち城柵はみな兵で守衛し、法は甚だ厳しかった。魏から斉・梁に至るまで、代々中国と通じた。
  • 開皇二十年、俀王は姓を阿毎、字を多利思北孤、号を阿輩雞弥といい、使者を闕に遣わした。上は担当官に風俗を尋ねさせたところ、使者は「俀王は天を兄とし日を弟とする。天がまだ明けぬ時に出て政を聴き跏趺して坐す。日が出れば政務を止め弟に委ねるという」と答えた。高祖は「これは甚だ道理に合わない」として改めるよう訓令した。王の妻は雞弥と号し、後宮に女六七百人がいる。太子は利歌弥多弗利と名づける。城郭はない。内官は十二等――大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信で、定員はない。軍尼百二十人があり中国の牧宰に相当し、八十戸ごとに伊尼翼一人を置くのは今の里長にあたる。伊尼翼十人が軍尼一人に属す。
  • 服飾は男子が裙襦を着け袖はやや小さい。履は屨のような形で漆を塗り脚に結わえる。庶民の多くは跣足で金銀の飾りを用いることを許されない。昔は衣が横幅で結んで連ね縫い目がなく、頭には冠も無く両耳の上に髪を垂らしていたが、隋に至り王が初めて冠を制し錦綵で作り金銀の透かし彫りで飾った。婦人は髪を後ろで束ね同じく裙襦を着け、裳にはみな襈がある。竹で梳を作り草を編んで敷物とし、様々な皮を表とし文様のある皮で縁取る。弓・矢・刀・矟・弩・䂎・斧があり、漆皮の甲、骨の矢鏑を用いる。兵はあるが実際の征戦はない。王の朝会では必ず儀仗を並べ国楽を奏する。戸数はおよそ十万。
  • 風俗では殺人・強盗・姦通はみな死罪、盗みは贓の額に応じて弁償させ財のない者は身を没して奴とする。それ以外の軽重は流罪または杖罪とする。訴訟の審理では、認めない者には木で膝を圧するか強弓を張り弦で首を鋸で挽く。あるいは沸き立つ湯の中に小石を置いて争う者に探らせ、理の曲がった者は手が爛れるという。あるいは蛇を瓮に入れて取らせ、曲がった者は手を刺されるという。人は概して穏やかで争訟は少なく盗賊も少ない。楽器は五弦の琴・笛がある。男女とも臂に黥し面に点じ身に文身する者が多く、水に潜って漁をする。文字はなく、ただ木を刻み縄を結んで記録する。仏法を敬い、百済で仏経を得て初めて文字を持つに至った。卜筮を知り殊に巫覡を信ずる。毎年正月一日には必ず射戯と飲酒を行い、その他の節句はおおむね中華に似る。囲碁・握槊・樗蒲の遊戯を好む。気候は温暖で草木は冬も青く、土地は肥え水が多く陸は少ない。小さな輪を鸕鷀の首に掛け水に入れて漁をさせ、一日に百余頭を得る。膳には盤俎を用いず檞の葉を敷き、手で食する。性質は素直で雅趣がある。女が多く男が少なく、婚姻は同姓を取らず男女が互いに慕えば婚姻となる。嫁ぐ女は必ず先に犬を跨いでから夫と対面する。婦人は淫らでなく嫉妬もしない。死者は棺槨で殮し、親賓は屍のかたわらで歌舞し、妻子兄弟は白布で喪服を作る。貴人は三年外に殯し、庶人は日を占って埋葬する。葬送では屍を船上に置き陸を牽くか、小さな輿を用いる。
  • 阿蘇山があり、その石は理由なく火を噴き天に接する。俗はこれを異とし祈祷を行う。如意宝珠があり色は青く鶏卵ほどの大きさで夜には光り、魚の眼精だという。新羅・百済はともに俀を大国とし珍物が多いとして敬い仰ぎ、常に使者を通わせている。
  • 大業三年、王の多利思比孤が使者を送り朝貢した。使者は「海西の菩薩天子が仏法を重んじ興していると聞き、朝拝のため遣わされた。あわせて沙門数十人が仏法を学びに来た」と述べた。その国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」云々とあった。帝はこれを見て不快とし、鴻臚卿に「蛮夷の書に無礼な物があれば、二度と奏上するな」と告げた。
  • 翌年、上は文林郎裴清を俀国へ使者として遣わした。百済を渡り竹島に至り、南に𨈭羅国を望み都斯麻国を経て大海の中を遠く進んだ。さらに東へ一支国、竹斯国に至り、東へ秦王国に至った。その人は華夏に同じで夷洲かと疑われたが判然としなかった。さらに十余国を経て海岸に達した。竹斯国より東はみな俀に附庸する。俀王は小徳阿輩台を遣わし数百人を従え儀仗を設け鼓角を鳴らして出迎えた。十日後にはまた大礼哥多毗を遣わし二百余騎で郊外に労った。都に着くと王は裴清と会見し大いに喜び「海西に大隋、礼儀の国ありと聞き朝貢を遣わした。我は夷人にて海隅に僻在し礼儀を聞かぬゆえ境内に留め即座に会わなかった。今は道を清め館を飾り大使を待ち、大国の維新の化を聞かんことを願う」と述べた。裴清は「皇帝の徳は天地に並び恵みは四海に流れる、王が化を慕うゆえ行人を遣わし宣諭させた」と答え、館へ案内された。その後裴清は人を遣わし王に「朝命は既に達した、帰途につかれたい」と伝え、宴を設けて裴清を送り、あわせて使者を裴清に随行させ方物を貢がせた。この後は交流が絶えた。

史臣曰

  • 史臣曰く、広い地と大河は制度を異にし、人はその地で異なる風俗を持つが、聖人は時に応じて教えを設け志を通わせた。九夷の地は中華から遠く隔たるが天性柔順で乱暴さはなく、山海に阻まれても道をもって導きやすい。夏殷の代にも時折来朝し、箕子が朝鮮に逃れてより八条の禁が定まり、その化は千年途絶えなかった。今、遼東諸国は衣冠や俎豆の礼を慕い経術を好み、京師に遊学する者が絶えない。孔子の「言忠信、行篤敬なれば蛮貊の邦にも行われる」との言葉のとおりである。
  • 高祖以来、中国は周の遺風を撫育してきたが、開皇末の遼東出兵は天の時を得ず功なく終わった。煬帝は宇宙を包む志を抱き三韓に兵を進め強弩を発したが、小国は困窮しながらも必死に抵抗し、戦いは絶えず四海は騒然となり、ついに国が瓦解し身を滅ぼした。兵法に「徳を広めることに務める者は栄え、地を広げることに務める者は滅ぶ」とある。遼東の地は久しく郡県に列していなかったにもかかわらず、諸国の朝貢は歳時を欠かさなかった。煬帝はそれを驕り、文徳による懐柔をせず干戈を動かした。内は富強を恃み外は地の拡大を思い、驕りにより怨みを買い怒りにより師を興した。これで滅びぬ例は古来聞いたことがない。四夷への戒めは深く念じねばならない。

【例外】 - 0081|「倭國」節は取得スクリプト修正・再取得により人名・地名の欠落が解消されていた|通常どおり全文を翻訳した