隋書卷八十二 南蠻傳 林邑・赤土・眞臘・婆利

  • 南蛮諸族は蜒・獽・俚・獠・㐌などと呼ばれ華人と雑居し、統一した君長を持たず山洞に依って暮らす、いわゆる古の百越である。断髪文身の風があり互いに攻め合ううちに勢力を弱め中国に服属し郡県に列せられ、中国の民と同化したため詳述しない。大業年間、南方から朝貢した国は十余国あったが多くは事跡が失われ、ここに記すのは林邑・赤土・真臘・婆利の四国のみである。

林邑――区連の建国から劉方の遠征まで

  • 林邑の祖は後漢末、交阯の女性徴側の乱に乗じ、県の功曹の子区連が県令を殺し王を称したことに始まる。子がなく甥の范熊が代わって立ち、その子逸が継いだ。日南人の范文は乱に乗じ逸の僕隷となり宮室や器械の造り方を教え信任され、兵を率い人心を得た。文は逸の子弟を離間して追放し、逸の死後、後継が絶えると自ら王となった。その後の范仏は東晋の揚威将軍戴桓に破られ、宋の交州刺史檀和之も遠征して深く侵攻した。梁・陳の代にも通使が続いた。
  • 国は数千里、香木や金宝を産し物産は交阯に似る。城は塼と蜃灰で築き東向きの門を設ける。官制は西那婆帝・薩婆地歌の二尊官と倫多姓以下三等の属官、二百余部の地方官がある。王は金花冠を戴き朝霞布・珠璣瓔珞を身につけ金装刀を持つ護衛200人を従える。弓矢刀槊に毒を塗った矢を用い、琴・笛・琵琶・五絃など中国に似た楽器を持つ。
  • 人々は深目高鼻、拳髪で肌は黒く、裸足に布を巻く風俗。婚礼は媒酌が金銀の腕輪や酒魚を女家に贈り、婆羅門が女を男家に送る。王の葬は7日、有官者3日、庶人1日で行われ、遺体を函に収め輿で運び水辺で焼き、遺骨は身分により金甕・銅甕・瓦に納めて海や川に沈める。男女は髪を截り、七日ごと・百日・三年と哀悼を重ねる。仏教を奉じ文字は天竺(インド)に同じ。
  • 隋の陳平定後に方物を献じたが後に朝貢が絶えた。群臣が林邑の奇宝を語ったことから、仁寿末年、上は大将軍劉方を驩州道行軍総管とし、欽州刺史寧長真・驩州刺史李暈・開府秦雄らの歩騎一万余と罪人数千を率い討伐させた。王梵志は巨象に乗り抗戦、劉方軍は当初不利だったが小坑を掘り草で覆う計を用いて誘い込み、象軍が陥没して混乱したところを撃破した。梵志は連敗し都を放棄、劉方は都に入り金製の廟主18枚(18代の王統を示す)を得た。劉方は撤退し、梵志は旧地を回復して謝罪の使者を送り、以後朝貢が続いた。

赤土――煬帝の使節・常駿の往還

  • 赤土国は扶南の別種で南海の中にあり、土色が赤いため名付けられた。東は波羅刺国、西は婆羅娑国、南は訶羅旦国、北は大海に接し、方数千里。王は瞿曇氏、名は利富多塞。父の代に出家し王位を譲られた。三妻はいずれも隣国王女。僧祗城は三重の門を持ち、それぞれ飛仙・仙人・菩薩の壁画や金花鈴の飾りを施し、舞や献花の女性が並ぶ。王宮は重閣造りで北面に座し、朝霞布・金花冠・雑宝瓔珞を身に着け護衛百余人を従える。官制は薩陀迦羅・陀拏達乂・迦利蜜迦が政事を、俱羅末帝が刑法を掌る。
  • 風俗は穿耳剪髪で拝礼をせず香油を身に塗り、仏教と婆羅門を重んじる。婚姻は5日前から酒宴を開き父が娘の手を授け7日で成婚。娶ると分家するが末子のみ父と同居。父母兄弟の死には剃髪素服し竹木の棚で遺体を焼き、王のみ遺灰を金瓶に納め廟屋に蔵す。甘蔗酒や椰子酒を産する。
  • 煬帝は西域に通じる者を募り、大業三年、屯田主事常駿・虞部主事王君政らが赤土への使節を志願した。帝は喜び、常駿らに帛や衣、王への贈物五千段を持たせ派遣した。一行は南海郡から出航し焦石山・陵伽鉢抜多洲・師子石を経て狼牙須国、雞籠島を経て赤土に至った。王は婆羅門鳩摩羅を遣わし船30艘・鼓楽で出迎え、金鎖で船を繋いだ。都では王子那邪迦が礼を尽くして迎え、香花・鏡・香油・香水などを贈り、象や孔雀蓋を伴う盛大な儀式で王宮に案内した。詔書奉呈の後、天竺楽の饗応や豪華な宴が催され、金の多羅葉に刻んだ表と金函の贈物を託し那邪迦が同行帰国した。帰路、緑魚の群飛や林邑東南の異臭海域を経て交阯に至り、大業六年春に弘農で帝に謁見、常駿らは秉義尉に任じられ那邪迦らも褒賞された。

眞臘――扶南から独立した強国

  • 真臘国は林邑の西南、もと扶南の属国。日南郡から海路60日、南は車渠国、西は朱江国に接す。王は刹利氏、名は質多斯那。祖の代より強盛となり質多斯那の代に扶南を併合した。その死後、子の伊奢那先代が伊奢那城(郭下二万余家)で継いだ。都には王が政を聴く大堂があり、全国に三十の大城、各城に部帥を置く。王は三日に一度朝を聴き、五香七宝の牀に金香炉を置いた前で朝霞古貝の衣・金宝花冠・真珠瓔珞を身につける。大臣は孤落支ら五人。臣下は跪伏の礼で仕える。王の正妻の子でなければ後継になれず、即位時に兄弟は指を切る、鼻を削ぐなどの刑を受け官途を絶たれる。
  • 人は小柄で色黒、右手を浄、左手を穢とし朝の洗浄や楊枝での歯磨きを重んじる。飲食や婚姻(衣一具を送り媒人が迎える)、葬送(七日絶食、剃髪、五香木で焼き金銀瓶に納める、あるいは山中に放置し野獣に食わせる場合もある)の風習がある。
  • 地は北に山、南に沢が多く暑く瘴癘が多い。粱稲を産し、婆那娑・菴羅・毗野・婆田羅・歌畢他などの珍しい果樹がある。四足で象のような鼻を持つ建同という魚、八足の浮胡魚、山のような巨魚も棲む。
  • 五六月に毒気が流行すると白猪・白牛・白羊で城西の門外に祭祀を行い、行わないと凶作や疫病になるとされる。陵伽鉢婆山の神祠は五千人が守衛し、婆多利という神には人肉を供え、王は毎年人を殺して夜に祈祷し千人の守衛をつける。仏教と道士を篤く信じ、仏道の像を並べて祀る。
  • 大業十二年に朝貢したが以後絶えた。

婆利――投輪の武器を持つ島国

  • 婆利国は交阯から海を渡り赤土・丹丹を経て至る。国境は東西4か月、南北45日の行程。王は刹利邪伽氏、名は護濫那婆。官制は独訶邪挐・独訶氏挐。国人は投輪刀(鏡大の刃物で遠くから投げて命中させる)を得意とする。他の武器は中国とほぼ同じ。風俗は真臘に似、物産は林邑に似る。殺人・盗みには手を、姦通には足を切る刑を科し、期年で解く。月末の祭祀では酒肴を流水に浮かべ、11月には大祭を行う。海では珊瑚を産し、人語を解する舎利という鳥がいる。
  • 大業十二年に朝貢したが後に絶えた。同時期、南方の丹丹・盤盤の二国も朝貢し、風俗物産は概ね似通っていた。

史論

  • 史臣曰く、『礼記』は「南方を蛮といい、火食せぬ者もいる」と記し、『書経』は「蛮夷が中華を乱す」、『詩経』は「蠢爾たる蛮荊」と詠う。種族は多岐にわたり歴代紛擾の種であった。秦が二楚を併合し漢が百越を平定してより南方の地は郡県に組み込まれた。呉・蜀の分立や晋・宋の時代を経て服従と反乱を繰り返した。高祖は天下を平定し、煬帝は威を八方に及ぼした。遠夷の珍異を求める心から、流求へ兵を出し林邑を攻め、威は秦漢を凌いだ。しかし域外の功があっても国内の乱れを救うことはできなかった。伝に「聖人ならざれば、外が安ければ必ず内に憂いが生じる」とある。まことにその通りである。