隠逸篇の趣旨
- 書契が生まれて以来、時代の盛衰にかかわらず隠逸の士は絶えなかった。『易』の「世を遁れて悶えず」「王侯に事えず」、『詩経』の「皎皎たる白駒、彼の空谷に在り」、『礼記』の「儒者は上は天子に臣たらず下は王侯に事えず」、また「逸民を挙げれば天下の人心が帰する」という言葉の通り、出処は異なっても皆君子の道である。
- 洪崖・箕山に始まり、周の七人、漢の四皓を経て魏晋以後さらに広まった。大なる者は天下を軽んじ万物を細事とし、小なる者は苦節に安んじ貧賤を甘受する。世に随う者もあれば時流に逆らい独往する者もあるが、いずれも独善を旨とし兼済を求めない。
- しかし賢明な君主はこうした隠者を求め奔走した。彼らの道は天下を動かさずとも志は奪えず、賢貞の操が卑俗な世を戒め貪欲な風を鎮める効があったからである。ここに隠逸の人々の行いを記し本篇とする。
李士謙――孝行と学問
- 李士謙、字は子約、趙郡平棘の人。幼くして父を失い母に孝を尽くした。母が嘔吐した際に毒物ではないかと疑い自ら跪いて味見した逸話がある。伯父の魏岐州刺史李瑒は「この子は我が家の顔回だ」と称賛した。12歳で魏の広平王賛に開府参軍事として招かれた。母の喪では骨と皮になるまで痩せ、姉は悲しみのあまり死去した。喪が明けると自宅を仏寺に改め出家に近い生活を送り、以後は学問に専念し天文・術数にも通じた。
- 斉の吏部尚書辛術に員外郎として召され、趙郡王睿に徳行を推挙されたが病と称して辞退。和士開が国子祭酒への抜擢を図った際も固辞して免れた。隋の代には終生仕官しなかった。幼少から酒肉を断ち殺生の言を口にせず、賓客には料理でもてなしながら自身は端座して終日応対した。
李士謙――財を用いた徳行
- 李氏一族は豪盛で春秋の社日に宴会で乱酔するのが常であったが、李士謙は宴席で「孔子は黍を五穀の長という、荀子も黍稷を先に食べると言う」と諭し、皆謹んで乱れなくなった。
- 家は富裕で自らは倹約に努め、施しを常とした。喪を出せない家には自ら赴き援助し、遺産分割で争う兄弟には財を出して不足分を補い和解させた。田を荒らした牛を涼所で厚く飼い、稲や黍を盗む者を見ても黙って見逃し、粟を盗んだ僮僕には「貧困ゆえのこと、責める必要はない」と諭して放免した。
- 家僕が酔って郷人の董震と力比べをし董震を絞め殺した際も、震に「お前に殺意はなかった、謝る必要はない、ただ遠くへ逃げて役人に捕まらぬように」と告げた。
- 数千石の粟を郷人に貸し、不作の年に返済できない者たちが謝りに来ると、全員を招き酒食を振る舞い借用証文をその場で焼いて「借りは終わった、気にするな」と告げた。翌年豊作で返済に来た者にも一切受け取らなかった。さらに翌年の大飢饉には家財を尽くして粥を施し、万人単位の命を救い、遺骸を丁寧に埋葬し、春には種籾を貧民に配った。ある人が「あなたは陰徳を積んでいる」と言うと、李士謙は「陰徳とは人に知られぬものだ、私の行いは皆知っている、陰徳とは言えない」と答えた。
李士謙――仏教談義と刑罰論、晩年
- 玄理を論じるのを好み、仏教の因果応報を信じない客に対し、鯀が黄熊に、杜宇が鶗鴂に、その他さまざまな人物が動物に転生したという伝承を引き、仏教が伝わる前から中国にも輪廻の考えがあったことを説いた。三教の優劣を問われると「仏は日、道は月、儒は五星」と答えた。
- 詠懐詩を好んで作ったが自ら破棄し人に見せなかった。刑罰論では、当時の贓罪(贈収賄)の死刑が「酷なのに抑止効果がない」として肉刑(身体刑)への段階的な変更を提案し(初犯は足指切断、再犯は右腕切断など)、識者に治世の要諦を得たものと評価された。
- 開皇8年(588年)、66歳で家にて没した。趙郡の人々は「我らでなくなぜ李参軍が」と涙し、会葬者は万余人に及んだ。郷人の李景伯らが行状をまとめ諡号を求めたが実現せず、代わりに墓に碑を建てた。妻の范陽盧氏は夫の死後、贈られた弔問品を一切受け取らず、粟五百石を窮民に施した。
崔廓(子の崔賾を付す)
- 崔廓、字は士玄、博陵安平の人。父の崔子元は斉の燕州司馬。幼くして貧しく母の身分が低かったため一族に軽んじられた。里佐として屈辱を受け、感激して山に籠もり書を読み、博覧により山東の学者に宗とされるに至った。郷里に帰っても出仕せず、李士謙と「忘言の友」として交わり「崔・李」と並称された。士謙の死を悼んで慟哭し伝記を著し秘府に納めた。士謙の未亡人盧氏は家事の相談を崔廓に頼るほど信頼された。刑名の理を論じた著作もあった。大業中、80歳で家にて没した。子は崔賾。
崔賾――文才と詩文の応酬
- 崔賾、字は祖浚。7歳で文章をよくし、容貌は小柄だが弁が立った。開皇初年、秦孝王楊俊の推薦で射策高第となり礼楽の制定に参与、校書郎から協律郎。太常卿蘇威に重んじられた。母の喪では5日間水も喉を通さぬほどの孝行を示した。
- 河南王・豫章王の侍読を兼ね両王邸を行き来した。河南王が晋王に転じると記室参軍としてそちらに移り、豫章王は惜しんで文雅な書簡を送った(梁王・平台・東苑の故事を引き、賢者を招く志を綴った内容)。崔賾もまた美文で返礼の啓を送った。豫章王は米50石・衣服・銭帛を賜った。
- 晋王の文翰の多くは崔賾の手によるものであった。晋王の立太子に伴い太子斎帥、のち舎人。元德太子(皇太子昭)の薨去後は病により帰郷したが、のち起居舎人に召された。
崔賾――煬帝の代の学識と最期
- 大業4年(608年)、汾陽宮への行幸に従った際、藍田で発見された古い玉人像について、漢文帝以後の制作と考証し、魏の盧元明の『嵩高山廟記』の記述と結びつけて祥瑞と論じ、帝を喜ばせ縑200匹を賜った。太行山行幸では「羊腸阪」の所在について『漢書地理志』の記述をまず誤って挙げたが、皇甫謐『地書』の記述で正解を導き、牛弘に「問一知二」と評された。
- 大業5年(609年)、諸儒と『区宇図志』250巻を撰したが帝の意に沿わず、虞世基・許善心により600巻に拡張された。父の喪で一時離職。遼東の役では鷹揚長史として遼東の郡県名の制定に関与し、詔により『東征記』を著した。大業9年(613年)、越王長史。山東の盗賊撫慰にあたり800余人を投降させた。大業12年(616年)、江都行幸に従う。
- 宇文化及の弑逆後、著作郎に招かれたが病と称して応じず、道中で発病し彭城で没した。享年69。洛陽の元善、河東の柳抃、太原の王劭、呉興の姚察、琅邪の諸葛潁、信都の劉焯、河間の劉炫と親交があり、休暇のたびに終日清談した。詞賦碑誌十余万言、『洽聞志』7巻、『八代四科志』30巻を著したが未刊のまま江都の戦乱で焼失した。
徐則――修行と隠棲
- 徐則、東海郯の人。幼くして沈静で欲少なく、周弘正に学び三玄(老荘易)に精通し議論に優れ都で名を馳せたが「名は実の賓客に過ぎない、私は賓客であり続けるのか」と嘆じ、隠棲の志を抱いて杖を持ち縉雲山に入った。数百人の学徒が教えを乞うたが謝絶した。妻を娶らず巾褐(粗衣)を常とした。
- 陳の太建年間、召されて至真観に一時滞在したが1ヶ月余りで辞して天台山に入り、以後は穀物を断ち松と水のみで命を養い、厳冬でも綿入れを着なかった。太傅徐陵がその徳を頌える文を山に刻んだ。縉雲山にいた頃、太極真人徐君が「お前は80歳を超えて王者の師となり、その後に道を得るだろう」と告げたという。
徐則――晋王の招請と死
- 晋王楊広(煬帝)が揚州を鎮めた際、その名を聞き自筆の書で招請した(老荘思想を踏まえ、隠者を尊び請う内容の美文)。徐則は門人に「私は今年81歳、王が私を召したのは、かつての徐君の予言の通りだ」と語り揚州へ赴いた。
- 晋王が道法を受けようとしたが徐則は時期が良くないと辞退。その夜、香火を用意させ平常の朝礼の作法どおりに祈り、五更(明け方)に死去した。体は生きているように柔らかく、数十日経っても顔色が変わらなかった。
- 晋王は書を下し(徐則の五十余年の修行を称え、屍解地仙の奇瑞と評した内容)、遺骸を天台山に送り葬らせた。道中、徐則の姿を見たという者が多くいたが、実際には帰郷を許されたとの噂であった。旧居に着くと経書・道法を弟子たちに分け与え、一室を清めて「客が来たらここへ通せ」と告げて石橋を渡り姿を消したが、まもなく柩が到着し、その神異が明らかになった。享年82。晋王はこれを大いに異とし、物千段を贈り画工に姿を描かせ、柳抃に賛を作らせた。
- 当時、建安の宋玉泉、会稽の孔道茂、丹陽の王遠知らも辟穀の修行を行い松と水のみで命を養い、煬帝に重んじられた。
張文詡
- 張文詡、河東の人。父の張琚は開皇中に洹水令として清正で知られた。数千巻の蔵書で子弟を教え皆経学で身を立てさせた。文詡は博覧で特に『三礼』に精通し、『周易』『詩』『書』『春秋三伝』にも通じ、鄭玄注を博通として重んじつつ諸家異説も詳しく究めた。
- 高祖が招いた名儒房暉遠・張仲讓・孔籠らが博士に列せられる中、文詡は太学に遊学しながらも房暉遠らに推服され学内で宗とされた。門生は疑義を質しに来て、文詡は博く証拠を引いて弁説した。治書侍御史皇甫誕は師弟の礼を執り、右僕射蘇威も招いて出仕を勧めたが文詡は固辞した。
- 仁寿末年、学校が廃止されると杖をついて帰郷し、田畑を耕して生計を立てた。州郡から度々推挙されたが応じなかった。母への孝行で知られ、徳をもって人を教化し郷里の風俗を改めた。
- ある人が夜に麦を盗むのを見て黙って避け、盗人が感悟して麦を捨てて謝ったが、文詡は口外しないと誓い麦を持ち帰らせた。数年後に盗人自身がこの話を語り初めて世に知られた。隣家の垣根争いでは自ら古い垣を壊して譲った。腰痛の治療を頼んだ医者の失敗で刃物傷を負い寝込んだ際も、医者を責めず「風眩で落ちた」と偽り妻子にも隠した。州県が貧しさを見て施しを申し出ても辞退した。閑居しては「老いが迫るのに名を成せていない」と嘆じ、意のままに机を叩く仕草があり、当時の人々は閔子騫や原憲になぞらえた。享年40で家にて没す。郷人が碑を建て「張先生」と号した。
史論
- 史臣は言う。古の隠逸とは、身を隠して姿を見せない、言葉を閉ざして口を開かない、知恵を隠して発揮しないという意味ではない。恬淡を心とし明でも暗でもなく、時に安んじ物と私心なく接することをいう。
- 李士謙らは冠冕(栄達)を忘れ丘園に志を尽くしながら、親への孝を欠かさず俗と絶縁もせず、教えずして人を諭し、慕われることは父母や親戚のようであった。自然な純徳がなければこの境地には至れない。
- 李士謙は誉れを聞いても喜ばず、張文詡は傷つけられても怒らず、徐則は沈冥に志を置き親疎貴賤に関わらぬ態度を保った。皆、朴を抱く士というべきである。崔廓は屈辱に発奮して隠棲の誉れを得、崔賾はその文才で父の家業を大いに興した。父子で動静は異なれど名を成したことは同じであり、実に美しいことである。