隋書卷七十六 文學 劉臻・王頍・崔儦・諸葛潁・孫萬壽・王貞・虞綽・王胄・庾自直・潘徽・杜正玄・常得志・尹式・劉善經・祖君彥・孔德紹・劉斌
文学篇の趣旨
- 『易』に「天文を観て時変を察し、人文を観て天下を化成す」とあり、『伝』に「言葉は身の文(飾り)であり、文がなければ行いも遠く伝わらない」とある。文の働きは大きく、上は徳教を下に敷き、下は情志を上に伝える。時に讒言で放逐された臣や不遇の士が憤懣の中から文を飛ばし、一朝にして名を上げることもある。
- 漢魏から晋宋にかけて文体は変遷し、南朝の永明・天監、北朝の太和・天保の頃に洛陽・江左で文雅が特に盛んになった。江淹・沈約・任昉・温子昇・邢子才・魏収らが並び立った。南北の詞人の違いとして、江左は清綺(華麗)を貴び、河朔は気質(質実剛健)を重んじた。両者の長所を併せ持てば文質彬彬となる。
- 梁の大同以後、簡文帝・湘東王(元帝)が淫放の風を開き、徐陵・庾信がこれを助長し、詞は軽険で情は哀思に傾き亡国の音となった。北周がこの風を受け継いだが、高祖は華美を排し、煬帝も即位後は『与越公書』『建東都詔』『冬至受朝詩』『擬飲馬長城窟』のように雅体に立ち返り、意は驕淫でも詞は浮蕩でなく当時の文人の規範となった。
- 隋の統一により南北の才人が集まったが、大成した者は10数名に過ぎない。盧思道・李徳林・薛道衡・李元操・魏澹・虞世基・柳抃・許善心らは各々本伝があるため、潘徽・孫万寿ら学才ありながら不遇であった者を中心に本篇に総括して記す。
劉臻
- 劉臻、字は宣摯、沛国相の人。父の劉顕は梁の尋陽太守。18歳で秀才に挙げられ邵陵王東閣祭酒、元帝の代に中書舎人。江陵陥落後、蕭詧に仕え中書侍郎。周の塚宰宇文護に中外府記室として召され軍書の多くを起草した。露門学士、大都督、饒陽県子を経て藍田令・畿伯下大夫。
- 高祖受禅後、儀同三司。左僕射高熲の陳討伐に従軍し文翰を掌り伯爵に進む。皇太子楊勇に学士として親しく用いられた。吏務には不向きで放心がちであり、経史に耽って世事を忘れがちであった。友人の劉訥の家を訪ねようとして自宅に戻ってしまう逸話や、父の諱と同音の「蜆」を「扁螺」と呼ぶなど疎放な逸話が伝わる。『両漢書』に精通し「漢聖」と称された。開皇18年(598年)、72歳で没す。文集10巻が世に行われた。
王頍
- 王頍、字は景文、斉州刺史王頒の弟。幼くして江陵陥落に遭い関に入る。若くして遊侠を好み20歳まで書を知らなかったが、兄の王顒に叱責され感激して『孝経』『論語』を学び始め、以後『左伝』『礼』『易』『詩』『書』を読破し「読めぬ書はない」と嘆じた。五経に通じ儒者に称賛された。
- 22歳で周武帝の露門学士。博物に通じ諸子・異書に通暁し「博物」と称され、兵法にも通じ縦横の志を抱いた。開皇5年(585年)、著作佐郎、国子で講授。文帝親臨の釈奠で国子祭酒元善と論難し善をしばしば言い負かし、文帝に評価され国子博士に抜擢された。
- のち事件に連座し嶺南に配され、漢王楊諒の府諮議参軍となり重んじられた。楊諒が房陵王・秦王・蜀王の相次ぐ廃黜を見て異心を抱いた際、頍が密かに武具の整備を勧めた。文帝崩御後、楊諒が挙兵した反乱は頍の策謀による部分が大きかったが、楊素との蒿沢の戦いを前に「戦況は良くない、必ず敗れる」と子に語った通り敗北。突厥への逃亡を図るも道が絶え、「私の計略は楊素に劣らないが、意見が用いられなかったためこうなった。生きて捕らえられ小人の手柄にはさせぬ」と述べ自殺し石窟に葬られた。享年54。子は数日飢えたのち旧知を頼り捕らえられた。楊素が遺骸を求めて斬首し太原に梟首した。『五経大義』30巻、文集10巻を著したが兵乱で失われた。
崔儦
- 崔儦、字は岐叔、清河武城の人。祖父の崔休は魏の青州刺史、父の崔仲文は斉の高陽太守。代々の名門。16歳で太守に功曹に招かれるも応じず、范陽の盧思道・隴西の辛徳源と親交を結んだ。読書に専念し「五千巻を読まぬ者はこの室に入るべからず」と戸に大書したという。数年で博覧強記となった。
- 斉で秀才に挙げられ員外散騎侍郎、殿中侍御史。熊安生・馬敬德らと『五礼』を議し律令も修めた。陳への使者を務め、文林館に待詔。殿中・膳部・員外の三曹郎中を歴任。頓丘の李若と並び「京師灼灼、崔儦・李若」と称された。
- 斉滅亡後は郷里に帰り功曹・主簿。開皇4年(584年)、給事郎・内史舎人。陳への使者を再び務め員外散騎侍郎。越国公楊素が門地を重んじ子の楊玄縦の妻に儦の娘を娶らせた際、迎えの騎兵をわざとみすぼらしい姿で応対し、上座を勧められても楊素を軽んじる態度と不遜な発言をして楊素を怒らせたが、数日後に謝罪し関係は元に戻った。仁寿中、京師で没す。享年72。子は世済。
諸葛潁
- 諸葛潁、字は漢、丹陽建康の人。祖父の諸葛銓は梁の零陵太守、父の諸葛規は義陽太守。8歳で文章をよくし梁の邵陵王参軍事から記室。侯景の乱で斉に奔り文林館に待詔、太学博士・太子舎人を歴任。周武帝の斉平定後は任用されず十余年門を閉ざした。『周易』図緯・『倉』『雅』『荘』『老』を学び要諦を得た。
- 晋王楊広(煬帝)に招かれ参軍事、記室。楊広の立太子後は薬蔵監。煬帝即位後、著作郎として深く寵愛され、帝の私室に出入りし皇后・嬪御と同席するほどであった。人を讒言することが多く「冶葛(毒草)」と渾名された。朝散大夫を授かり、帝から詩を賜るなど厚遇された。吐谷渾遠征に従い正議大夫、北巡の途上で没す。享年77。
- 性格は狭量で柳抃としばしば争い、帝にたびたび叱責されたがやまず、次第に疎まれた。文集20巻、『鑾駕北巡記』3巻、『幸江都道里記』1巻、『洛陽古今記』1巻、『馬名録』2巻を著した。子は嘉会。
孫萬壽
- 孫万寿、字は仙期、信都武強の人。祖父の孫寶は魏の散騎常侍、父の孫霊暉は斉の国子博士。14歳で熊安生に五経を学び大義を修め、子史にも通じた。文才があり李徳林に見出された。斉で17歳で奉朝請。
- 高祖受禅後、滕穆王の文学に招かれたが衣冠不整の罪で江南に配され、行軍総管宇文述の軍書を掌った。書生の身から従軍することになり鬱々とした心情を五言詩に詠み京師の友人に贈った(詩は逐語引用せず、賈誼・屈原の不遇に自らをなぞらえ、羈旅の苦しみと望郷の情、かつて都で交わした友との歓びの回想、世網に囚われた身の嘆きを綴った長詩)。この詩は京師で広く吟誦され評判となった。
- 帰郷後10余年不遇であったが、仁寿初年(601年頃)豫章王長史に任じられるも本意ではなく、王が斉に転封されると斉王文学。当時諸王の属官の多くが誅滅される中で不安を覚え病と称して免官。のち大理司直となり官にて没す。享年52。文集10巻が世に行われた。
王貞
- 王貞、字は孝逸、梁郡東留の人。7歳で学を好み『毛詩』『礼記』『左氏伝』『周易』諸子百家に通じた。文章に長け産を治めず読書を楽しみとした。開皇初年、汴州刺史樊叔略に主簿として招かれ、のち秀才に挙げられ県尉となるも本意でなく病と称して家に籠もった。
- 煬帝即位後、江都を鎮める斉王楊暕がその名を聞き、儒雅な招聘の書を送った(毛遂・平原君の故事などを引き、隠棲する賢者を招く意を美文で綴った内容)。王貞は招きに応じ、文集の提出を求められ辞退の啓(自らの学才を謙遜し、乱世に育ち学が及ばぬことを述べた文)を奉った。斉王は文集を見て感嘆し良馬4匹を賜り、王貞はさらに『江都賦』を献じて銭10万貫・馬2匹を賜った。まもなく病により帰郷し家で没した。
虞綽(辛大德を付す)――出自と文才
- 虞綽、字は士裕、会稽余姚の人。父の虞孝曾は陳の始興王諮議。身長8尺、姿は堂々とし博学で才気に富み特に草隷に長けた。陳の左衛将軍傅縡に「虞郎の文に勝るものなし」と絶賛された。陳で太学博士から永陽王記室。陳滅亡後、晋王楊広に学士として招かれた。
- 大業初年、秘書学士として虞世南・庾自直らと『長洲玉鏡』等10余部を撰し、帝に常に賞賛されたが官位は上がらなかった。校書郎から宣恵尉、著作佐郎として虞世南・庾自直・蔡允恭とともに宮中で文翰を掌り厚遇された。
- 遼東遠征に従い、帝が臨海頓で大鳥を見て銘文を作らせた(内容: 遼東平定を寿ぐ吉祥の鳥の出現を頌える四六駢儷の銘)。帝はこれを喜び海上に刻ませ、渡遼の功で建節尉を授かった。
虞綽――楊玄感事件と最期
- 才気を恃んで人に屈さず、著作郎諸葛潁を軽んじたため恨みを買い、潁は帝に「虞綽は粗野な人物」と讒言した。礼部尚書楊玄感に厚遇され布衣の交わりを結んだが、族人の虞世南が「帝は猜疑心が強い、玄感との関係を絶たねば禍が及ぶ」と忠告するも従わなかった。
- 禁中の兵書を玄感に貸した嫌疑をかけられ、玄感敗死後の家宅捜索で妓妾の証言により関与が発覚。大理卿鄭善果の取り調べに「文酒の交わりのみで謀議はない」と弁明したが帝の怒りは解けず且末へ流罪となった。長安で逃亡し姓名を変えて「呉卓」と名乗り東陽に潜伏、信安令の辛大徳に匿われたが、田畑争いの訴訟が縁で身元が露見し捕らえられ、江都で斬られた。享年54。詞賦は世に行われた。
辛大德(付伝)
- 辛大徳は信安令として盗賊を討ち民の信望を得ていたが、綽を匿った罪で使者に捕らえられた。妻が「学士を匿うなと諫めたのに」と嘆くと、大徳は「長者を救おうとして密告された、これは我が罪だ、綽に詫びて死のう」と笑って答えた。折しも死罪の者は賊討伐で功を立てれば赦す詔が出され、信安の吏民が「辛君を失えば信安も終わりだ」と使者に訴え、大徳は討賊に留められた。帝は怒って使者を斬ったが、大徳は罪を免れた。
王胄
- 王胄、字は承基、琅邪臨沂の人。祖父の王筠は梁の太子詹事、父の王祥は陳の黄門侍郎。若くして才気があり陳で鄱陽王法曹参軍から太子舎人・東陽王文学。陳滅亡後、晋王楊広に学士として招かれた。仁寿末年、劉方の林邑遠征に従い帥都督。
- 大業初年、著作佐郎として詞才を煬帝に重んじられた。帝が東都から京師に戻った際の詩に和した五言詩(周・漢の旧都を偲び、皇帝の徳を讃える内容)が高く評価され、帝は「気高く致遠なのは胄、詞清く体潤なのは世基、意密理新なのは庾自直」と評した。
- 虞綽と並び称され後進の規範とされた。遼東遠征に従い朝散大夫。疎放な性格で才を恃み官位の低さに鬱屈し尊大に振る舞ったため諸葛潁に妬まれ讒言されたが、帝は才を愛し罪しなかった。楊玄感に厚遇され度々邸を訪れていたため、玄感敗死後は虞綽とともに辺境へ流され、逃亡し江左に潜伏したが捕らえられ誅殺された。享年56。詞賦は多く世に行われた。
- 兄の王眘、字は元恭は博学で江左で名を知られ、陳で太子洗馬・中舎人。陳滅亡後、弟とともに学士となり、煬帝即位後は秘書郎で官にて卒す。
庾自直
- 庾自直、潁川の人。父の庾持は陳の羽林監。若くして学を好み沈静寡欲。陳で豫章王府外兵参軍・宣恵記室。陳滅亡後、関に入るも任用されず、晋王楊広に学士として招かれた。大業初年、著作佐郎。文章、特に五言詩に長けた。
- 慎み深く濫りに交わらず帝に特に愛された。帝は自作の詩文を必ず先に庾自直に見せて批評させ、難点を指摘されると何度も改め、認められてから世に出したという厚遇を受けた。のち起居舎人事を兼ねた。宇文化及の反逆で北上する際、露車に乗せられ憤激のあまり発病して没した。文集10巻が世に行われた。
潘徽――弁論の才と隋唐の間の経歴
- 潘徽、字は伯彦、呉郡の人。聡敏で鄭灼に『礼』、施公に『毛詩』、張沖に『書』を学び、張譏に『荘』『老』を講じ、いずれも大義に通じた。特に三史に精通し文章・議論に優れた。陳の尚書令江総に招かれ厚遇され、新蔡王国侍郎から客館令に選ばれた。
- 隋の使者魏澹が陳へ聘問した際、潘徽が応対役を務めた。魏澹の啓文中の「敬奉」の語について「伏奉」より軽いと判じて突き返したところ、魏澹が『曲礼』『詩』『孝経』を引いて反論、潘徽は「敬」の語義は文脈によって軽重が変わると精緻に論じ、魏澹は反論できず改めた。
- 陳滅亡後は州博士となり、秦孝王楊俊に学士として招かれた。京師への旅の途上、馬上で即興に『述恩賦』を作り一駅程度で完成させ楊俊を感嘆させた。さらに『万字文』を作り、字書『韻篡』(30巻)を編纂し、序文で文字の起源から隋の文教興隆、秦王(楊俊)の学問への傾倒、『韻篡』編纂の経緯(従来の字書の音韻整理の不備を正した)を詳述した。
潘徽――『江都集礼』撰述と晩年
- 楊俊の薨去後、晋王楊広に揚州博士として招かれ、諸儒と『江都集礼』(12帙120巻)を撰した。序文では礼の本質と歴史的変遷、晋王の徳と学問への傾倒、編纂の経緯を述べた。
- 煬帝即位後、著作佐郎陸従典・太常博士褚亮・欧陽詢らと楊素の『魏書』編纂を助けたが楊素の薨去で中断。京兆郡博士となる。楊玄感兄弟に重んじられ交流があったため、玄感敗死後は連座を疑われ、意に反して西海郡威定県主簿に左遷された。不満のうちに隴西に至り発病して没した。
杜正玄(弟正藏を付す)
- 杜正玄、字は慎徽。先祖は京兆の人で8代前の杜曼が石趙の従事中郎となり鄴に居を移した。以来代々文学を家学とした。正玄は特に聡敏で博学多通。兄弟数人、いずれも二十歳前に文章才弁で三河の間に名を知られた。
- 開皇末、秀才に挙げられ尚書の試問に即答即成で応じた。僕射楊素の傲慢な態度にも屈せず対応し楊素の不興を買ったが、林邑からの白鸚鵡献上に際し急遽賦を作らせたところ即座に完成させ、さらに雑文十余条も次々に立成したため楊素に「これぞ真の秀才、私も及ばない」と称賛された。晋王行参軍、豫章王記室を経て官にて卒す。
杜正藏(付伝)
- 弟の杜正藏、字は為善は特に学を好み文章に優れた。20歳で秀才に挙げられ純州行参軍、下邑正を歴任。大業中、学業の該博さで秀才に応詔し兄弟3人揃って文章で朝廷に召され評判となった。碑・誄・銘・頌・詩賦百余篇を著したほか『文章体式』を著し後進の宝として重んじられ、海外の高麗・百済にも伝わり「杜家新書」と称された。
常得志
- 京兆の常得志、博学で文章に優れ官は秦王記室に至った。秦王薨去後、旧宮を過ぎる際に詠んだ五言詩は辞理悲壮で当時重んじられた。『兄弟論』も義理明快と評された。
尹式
- 河間の尹式、博学で文章に優れ若くして評判があった。仁寿中、漢王記室に至り漢王楊諒に重んじられたが、漢王の乱の敗北に伴い自殺した。族人の尹正卿・尹彦卿もともに才俊として名を知られた。
劉善經
- 河間の劉善経、博識で特に文章に優れた。著作佐郎・太子舎人を歴任し『酬徳伝』30巻、『諸劉譜』30巻、『四声指帰』1巻を著し世に行われた。
祖君彥
- 范陽の祖君彥、斉の尚書僕射祖孝徴の子。容貌は小柄で口下手だったが才学があった。大業末、東平郡書佐に至る。郡が翟譲に陥落した後、李密に得られ厚遇され記室として軍書を掌った。李密敗北後、王世充に殺された。
孔德紹
- 会稽の孔徳紹、清らかな才があり景城県丞に至った。竇建徳が王を称した際に中書令として文書を専掌したが、竇建徳の敗死とともに誅された。
劉斌
- 南陽の劉斌、詞藻に優れ信都郡司功書佐に至った。竇建徳に中書舎人として仕え、竇建徳敗死後は劉黒闥の中書侍郎となり、劉黒闥とともに突厥へ逃れその後の消息は不明である。
史論
- 史臣は言う。魏文帝(曹丕)が「古今の文人は概して細行を慎まず名節をもって自立する者は少ない」と述べたのはまことにその通りである。王胄・虞綽の輩、崔儦・王貞の類は、才気を恃んで世事を顧みず、あるいは学識に優れながら不遇で官位が低く、鬱々として世に嘯き公卿を軽んじた。
- こうした奔放さゆえに咎めを受けたのは漢の趙壹・禰衡だけではない。多くは咎悔を招き善終を得られなかったが、その学問は古を稽え文詞は優麗であり、鄧林の一枝、崑山の片玉というべきものであった。
- 隋が天下を統一し人材登用が盛んであった中でも、秀異とされた者は10数名に過ぎない。杜正玄兄弟3人がそこに名を連ねたことは、まことに得難い兄弟であったといえよう。