隋書卷七十五 儒林 元善・辛彥之・何妥・蕭該・包愷・房暉遠・馬光・劉焯・劉炫・褚輝・顧彪・魯世達・張沖・王孝籍

儒林篇の趣旨

  • 儒教は父子の情を篤くし君臣を正し、忠節・仁義・廉譲を尊び貪鄙を賤しめ、政化の本源を開く。仲尼・孟軻・荀卿・叔孫通の例のように、地位がなくとも尊ばれる。
  • 晋室崩壊後、経籍の道は一時廃れたが、北魏の太和以後に文教が盛んになった。南北で学風が異なり、江左(南朝)は『周易』は王輔嗣、『尚書』は孔安国、『左伝』は杜元凱を宗とし、河洛(北朝)は『左伝』は服子慎、『尚書』『周易』は鄭康成を宗とした。南人は簡約で華を得、北学は煩瑣で枝葉を窮めた。
  • 高祖(文帝)は天下統一後、儒者を厚遇し四海の学者を集め、天子自ら釈奠の礼を観るなど儒学を大いに興した。斉・魯・趙・魏で特に学者が多く、漢魏以来の盛況となった。しかし晩年は刑名を重んじ仁寿年間には国子学以外の学校を廃止した。
  • 煬帝即位後、学校は再興され開皇初年以上に盛んになったが、劉焯・劉炫(「二劉」)が抜きん出ていた。その後は四夷への外征が続き学問は衰退し、経籍は戦乱で失われた。ここに、身は没しても道が残る儒者たちの言論を採録して本篇とする。

元善

  • 元善、河南洛陽の人。祖父の元叉は魏の侍中。父の元羅は初め梁州刺史であったが、元叉が誅されると梁に奔り征北大将軍・青冀二州刺史となった。善は幼くして父とともに江南に至り、学を好み五経に通じ、特に『左氏伝』に通じた。
  • 侯景の乱後、周に帰順。武帝に礼遇され太子宮尹・江陽県公となり太子に経書を授けた。開皇初年、内史侍郎となり、文帝から「人倫の儀表」と称された。陳の使者袁雅が拝礼の作法を知らなかった際、善が旧例を説いて拝礼させた。
  • 国子祭酒に転じ、文帝臨席の釈奠で『孝経』を講じ、義理を敷衍しつつ諷諫を交え文帝を大いに喜ばせた。学識では何妥に及ばなかったが、風流醞藉で音韻清朗、聴く者を飽きさせなかったため後進に慕われ、何妥は不満を抱いた。善が『春秋』を講じた際、何妥が古今の難義を持ち出して論難し善は答えられず、両者は不和になった。
  • 高熲を「社稷を託せる唯一の人物」と文帝に推したが、高熲が罪を得ると文帝はこれを高熲への肩入れとみなし善を責めた。善は恐懼し、もとより患っていた消渇(糖尿病)が悪化して没した。享年60。

辛彥之

  • 辛彥之、隴西狄道の人。祖父の辛世敘は魏の涼州刺史、父の辛靈輔は周の滑州刺史。9歳で父を失い、博く経史を渉猟し天水の牛弘と学を志した仲であった。周太祖に器量を認められ中外府礼曹に任じられ、儀注制定を一人で担った。
  • 中書侍郎、周閔帝受禅後は儀制を専掌。太祝・楽部・御正の各大夫、開府儀同三司を歴任し、突厥皇后を迎える使者を務め馬二百匹・龍門県公(食邑千戸)を賜り、のち五原郡公に進んだ。宣帝の代に少宗伯、高祖受禅後は太常少卿・任城郡公・上開府、国子祭酒、礼部尚書として牛弘と『新礼』を撰した。
  • 碩学と称された呉興の沈重と文帝の前で論議させたところ、沈重が及ばず「辛君はまさに金城湯池、攻める隙がない」と称賛した。随州刺史として、他の州牧が珍宝を貢ぐ中で祭祀の供物のみを貢いだことを文帝に称賛された。潞州刺史でも善政を行い、仏道を篤く信じ城内に二基の十五層の浮図を建てた。開皇11年(591年)、州人張元が急死し数日後に蘇生し天上で彥之のための堂を見たと語る逸話があったが、彥之はこれを喜ばず、同年官にて没した。諡は宣。『墳典』『六官』『祝文』『新要』『新礼』『五経異義』を著し世に行われた。子の仲龕は猗氏令に至った。

何妥――出自と若年期の才気

  • 何妥、字は棲鳳、西域の人。父の何細胡は商いで蜀に入り郫県に住み、梁の武陵王妃に仕え巨富を築き「西州大賈」と呼ばれた。妥は8歳で国子学に遊学し、助教顧良の「荷葉の荷か河水の河か」との戯れに即座に切り返し、皆を驚かせた。17歳で湘東王に才芸で仕え、聡明さを見込まれ側近となった。蘭陵の蕭𢙠も才俊で並び称された。
  • 江陵陥落後、周武帝に重んじられ太学博士。宣帝が皇后を五人立てようとした際、辛彥之が「皇后は天子と一体で数を定めるべきでない」と反対したのに対し、妥は「帝嚳に四妃、舜に二妃と定数はない」と反駁し、襄城県伯に封じられた。高祖受禅後、国子博士・通直散騎常侍・爵は公に進む。

何妥――蘇威との対立と八事の諫言

  • 剛直で弁が立ち人物評を好んだ。納言蘇威が「『孝経』一巻で立身治国に足りる」と述べた際、妥は「蘇威が父の教えに従わないなら不孝、嘘をついているなら不誠、いずれにせよ君に仕えられぬ」と論駁し、蘇威が兼務する複数の職務での不適任を八事にまとめて諫めた。
  • 八事の要旨は次の通り。(一)人材登用は衆議によるべきで一人の推挙に頼るな。(二)阿党(朋党)を排し公平な評価を。(三)舜が十六族を用いたように才に応じて職を分担させ、一人に数職を兼ねさせるな。(四)漏刻・度量衡・医方・暦法などの制度改革を軽々しく行う者(範威・趙翊・公孫濟・徐道慶・常明・王渥・張山居・曹魏祖ら)を戒め、成果の伴わない改作には重罰を科すべき。
  • 蘇威は五職を兼任していたため妥の諫言に激怒し対立が深まった。開皇12年(592年)、蘇威が学問考査を主導した際にも互いに罵り合い、蘇威「妥がいなくとも博士に困らぬ」、妥「威がいなくとも執事には困らぬ」と応酬し、両者は決裂した。

何妥――音楽制度の建言と晩年

  • 文帝の命で鐘律を考定した際、上表して音楽の意義を説いた。要旨は、楽には奸声と正声があり、正声は人心を和らげ風俗を移し天下を安んじる。魏文侯と子夏の問答(古楽と鄭衛の音の違い)を引き、聖人の作楽は単に耳目を悦ばせるためでなく、宗廟・郷里・閨門で人を和敬・和順・和親にするためのものであると論じた。
  • 上古からの楽の変遷(黄帝の咸池、舜の大韶等)、漢の叔孫通による宗廟楽の制定、秦の韶楽が漢に伝わり文始と改名された経緯、魏晋以来南朝に楽が伝わり、侯景の乱で楽師が四散し北斉に楽曲だけ伝わり用いられなかった経緯を述べ、自らが記憶する三調・四舞(清調・平調・瑟調、八佾・鞞・鐸・巾・払)の曲名と歌辞を録上し、正しい古楽の伝承を進言した。
  • 上奏に基づき清・平・瑟の三調と八佾・鞞・鐸・巾・払の四舞が制定された。太常が数十年黄鐘を廃し大呂のみを用いていたのを妥が古意に反すると奏し黄鐘の使用が決まった。
  • 子の何蔚が秘書郎で罪を得た際、文帝が哀れんで減刑したが以後恩礼は薄れた。開皇6年(586年)、龍州刺史に出され、遊学者に講説し『刺史箴』を州門に掲げた。3年後病により帰京、学事に復帰。太常で鐘律を議した蘇夔と対立し、封事を上奏して時政の得失と朋党を指弾したため蘇威・盧愷・薛道衡らが連座して罪を得た。伊州刺史に任じられたが赴任せず国子祭酒として官にて卒す。諡は肅。『周易講疏』『孝経義疏』『荘子義疏』ほか、沈重らと『三十六科鬼神感応等大義』『封禅書』『楽要』文集を著した。

蕭該(何妥に付す)

  • 蘭陵の蕭該は梁鄱陽王蕭恢の孫で、幼くして攸侯に封じられた。梁の荊州陥落後、何妥とともに長安に至る。学を篤く好み『詩』『書』『春秋』『礼記』の大義に通じ、特に『漢書』に精通し貴顕に礼遇された。開皇初年、山陰県公・国子博士。何妥と経史の校訂を命じられたが互いに異見を主張し合い完成せず、文帝の譴責で罷免された。のち『漢書音義』『文選音義』を撰し当時重んじられた。

包愷(何妥に付す)

  • 東海の包愷、字は和楽。兄の包愉が五経に明るく、愷はその学をすべて受け継ぎ、さらに王仲通に『史記』『漢書』を学び精究で知られた。大業中、国子助教。当時『漢書』学は蕭該・包愷の二人が宗匠とされ、門人は数千人に及んだ。没後、門人が墓を築き碑を立てた。

房暉遠

  • 房暉遠、字は崇儒、恒山真定の人。世々儒学を伝える家柄。『三礼』『春秋三伝』『詩』『書』『周易』を治め図緯にも通じ、教授を務め遠方から千人単位の学生が集まった。斉の南陽王綽が定州刺史のとき博士に召され、周武帝の斉平定後には真っ先に招かれ小学下士。
  • 高祖受禅後、太常博士。太常卿牛弘は「五経の庫」と称え、吏部尚書韋世康の推薦で太学博士、鄭訳と楽章を修正。母の喪で一時離職後、殄寇将軍、太常博士、国子博士。国子生の経学試験で他の博士が判定に迷った際、南北の学統の違いを見抜き的確に採点し、四五百人を数日で決したため学者たちに敬服された。
  • 令式の編纂に参与。文帝が「古来天子に女楽はあったか」と問うた際、他の臣が答えられぬ中、暉遠は『詩経』の「窈窕淑女、鐘鼓これを楽しましむ」を引いて「王者の房中の楽であり、無いとは言えない」と答え文帝を喜ばせた。仁寿中、官にて卒す。享年72。朝廷は厚く弔い員外散騎常侍を追贈した。

馬光

  • 馬光、字は栄伯、武安の人。数十年師に学び、図書讖緯を渉猟し特に『三礼』に明るく儒者の宗とされた。開皇初年、文帝が山東の義学の士を召した際、張仲讓・孔籠・竇士栄・張黒奴・劉祖仁らとともに応じ「六儒」と称されたが、朝廷では鄙野で儀礼を欠くとして重んじられなかった。
  • 竇士栄は病死、張仲讓は帰郷後の著書で「これを奏上すれば宰相になれる」と自負し玄象について度々口にしたため誅殺され、孔籠・張黒奴・劉祖仁も間もなく譴責され去った。馬光のみ残り、文帝親臨の釈奠で『礼』を講じ、十余人の碩学の論難を弁論では劣るものの理義豊かに剖析し評価された。山東の『三礼』学では熊安生以後、馬光が唯一の宗とされ、瀛・博の間で千人の門徒を教えたが、母の喪で帰郷後は郷里に留まり病没した。享年73。

劉焯――劉炫との修学時代

  • 劉焯、字は士元、信都昌亭の人。父の劉洽は郡功曹。聡敏沈深で幼少より遊び好まず、河間の劉炫と学友となり、劉軌思に『詩』、郭懋常に『左伝』、熊安生に『礼』を学んだがいずれも卒業前に去った。武強の劉智海の家に多くの書があり、焯・炫は十年近くそこで貧しい暮らしの中書を読み続けた。
  • 州博士として知られ、刺史趙煚に従事として召され秀才に挙げられ射策甲科。著作郎王劭とともに国史を修め律暦にも参与、門下省に直し顧問に備えた。秘書省で群書を考定、楊素・牛弘・蘇威・元善・蕭該・何妥・房暉遠・崔宗徳・崔賾らと国子で古今の難義を論じ、いずれも屈服させ精博と称賛された。

劉焯――洛陽石経の考定と晩年

  • 開皇6年(586年)、洛陽の石経が京師に運ばれた際、磨滅した文字を劉炫らと考定。国子釈奠での論義で諸儒を大いに打ち負かしたため妬まれ、讒言により除名され庶民となった。以後は郷里で教授・著述に専念し、賈逵・馬融・王粛・鄭玄の説の是非を論じ、『九章算術』『周髀』『七曜暦書』等の暦算・地理の書を極め、『稽極』『暦書』『五経述議』を著した。
  • 劉炫と並び「二劉」と称され、遠方から学ぶ者が絶えなかった。数百年来並ぶ者のない博学とされたが、心が狭く財に吝嗇で束脩(謝礼)を出さない者には教えなかったため軽んじられもした。廃太子楊勇に召されたが謁見前に蜀王秀に仕えるよう命じられ望まず出仕が遅れたため、蜀王は激怒し枷をかけて蜀へ送り軍防に配した。のち書籍の校勘を担当。蜀王廃黜後は諸儒とともに礼律を修定し雲騎尉。煬帝即位後、太学博士となるが病で離職。数年後召還され自著『暦書』を上奏したが太史令張胄玄の説と食い違い斥けられた。大業6年(610年)、67歳で没す。劉炫が諡を請うたが朝廷は許さなかった。

劉炫――出自と博識

  • 劉炫、字は光伯、河間景城の人。幼くして聡敏で知られ、劉焯と十年間閉門読書。眸子が明るく日を見ても眩まず、記憶力は抜群で、左手で方を描き右手で円を描きながら口で誦し目で数え耳で聴くという離れ業を同時にこなした。
  • 周武帝の斉平定後、瀛州刺史宇文亢に戸曹従事として召され、のち刺史李繪に礼曹従事として吏能を認められた。著作郎王劭と国史を修め、諸術者と天文暦律を修め、内史令李徳林に重んじられたが、三省を歴任しながら官職を得られず県から賦役を課される始末であった。吏部尚書韋世康の問いに、炫は『周礼』『礼記』『毛詩』『尚書』『公羊』『左伝』『孝経』『論語』の諸注13家すべて講授できると自陳し、朝廷の名士十余人が保証したことで殿内将軍に任じられた。

劉炫――偽書事件と学説

  • 牛弘の遺書捜索の際、劉炫は『連山易』『魯史記』等百余巻を偽作して献上し褒賞を得たが、後に告発され死罪を赦されたものの除名され帰郷、教授に専念した。太子楊勇に召されたが蜀王秀に仕える命令に従わず遷延したため蜀王に枷をかけられ益州に送られ、帳内に配され門衛を務めさせられた。のち釈放され書史の校勘に従事し、屈原の『卜居』を模した『筮途』を著した。
  • 蜀王廃黜後、諸儒と『五礼』を修定し旅騎尉。吏部尚書牛弘が上柱国の傍系親族の服喪を大夫並みに一等下げるべきと提案した際、炫は「今の仕官は才による登用で嫡庶を問わず古と異なる、近親を軽んじれば民の徳が薄れる」と反駁しこの議は取りやめられた。開皇20年(600年)、国子・四門・州県の学が廃止され太学のみ博士2人・学生72人となった際、炫は学校存続を強く上表したが容れられなかった。
  • 開皇末、国家が盛んで朝野が遼東遠征に傾く中、炫は『撫夷論』を著し遼東出兵を諫めたが当時理解されず、大業末の三度の遠征失敗によりその予見が正しかったことが証明された。

劉炫――煬帝の代の献策と晩年

  • 煬帝即位後、牛弘に引かれ律令修定に参与。文帝の代の刀筆吏(下級役人)の弊風や婦人の再婚規制について論を著し、九品官の妻の再婚禁止案には反対したが牛弘は結局その案を採った。諸郡の学官設置、流外官への給廩の制は炫の献策による。
  • 牛弘の「『周礼』では士が多く府史が少ないのに今は令史が百倍に増えたのはなぜか」との問いに、炫は「古は成果で評価し文書は簡素だったが、今は事務が煩雑になり役人が増えた」と答え、「省官より省事、省事より清心が肝要」と説いたが牛弘はこれを用いなかった。
  • 納言楊達の推薦で射策高第となり太学博士。品階の低さで職を去り、行在所へ召還される途上「行いに問題あり」との讒言で罷免され河間へ帰った。群盗蜂起で穀物が高騰し学問の道も廃れ、妻子とも音信不通になる中、自ら賛(自伝的文章)を著し、生涯の「四つの幸い」(博覧の身を得たこと、罪咎を免れたこと、朝廷に重用されたこと、晩年を故郷で穏やかに過ごせたこと)と「一つの深い恨み」(学問の道が自分の代で廃れ後世に伝わらないこと)を記した。
  • 郡城で糧食が絶えた際、盗賊に加わっていた門人が炫を憐れんで迎えに来て官が炫を引き渡した。賊が官軍に破れると炫は飢えて県城に逃れたが、賊との関わりを疑われ入城を拒まれ、寒夜に凍餓死した。享年68。門人は「宣德先生」と諡した。性格は落ち着きなく諧謔を好み自慢が多く、当世を軽んじたため執政に嫌われ官途に恵まれなかった。『論語述議』『春秋攻昧』『五経正名』『孝経述議』『春秋述議』『尚書述議』『毛詩述議』『注詩序』『算術』を著し世に行われた。

褚輝

  • 呉郡の褚輝、字は高明、『三礼』学で江南に名を知られた。煬帝の代、天下の儒者が内史省に集められ講論した際、輝は博弁で誰も論破できず太学博士に抜擢された。『礼疏』百巻を撰した。

顧彪

  • 余杭の顧彪、字は仲文、『尚書』『春秋』に明るい。煬帝の代に秘書学士となり『古文尚書疏』二十巻を撰した。

魯世達

  • 余杭の魯世達、煬帝の代に国子助教となり『毛詩章句義疏』四十二巻を撰し世に行われた。

張沖

  • 呉郡の張沖、字は叔玄。陳に仕え左中郎将となったが本意ではなく経典に沈思し、杜氏の説と70余ヶ所異なる『春秋義略』を撰したほか『喪服義』三巻・『孝経義』三巻・『論語義』十巻・『前漢音義』十二巻を著した。官は漢王侍読に至った。

王孝籍

  • 平原の王孝籍、若くして学を好み博く群書を読み五経すべてに通じ文才もあった。河間の劉炫と親交があった。開皇中、秘書省に召され王劭の国史編纂を助けたが王劭に礼遇されず、長年在職しながら税役も免除されなかった。
  • 鬱屈して吏部尚書牛弘に上奏文を送り、貧窮と不遇の苦しみを訴え、荊玉の卞和が足を切られた故事や百里奚の逸話を引き、自らの学才が用いられないことへの深い恨みを切々と綴った。牛弘もその学識を認めたが結局登用されず、帰郷して教授を業とし家で没した。『尚書』『詩』の注を著したが戦乱で散逸した。

史論

  • 史臣は言う。古語に「容貌・勇力・家柄・先祖に頼らずとも四方に名を知られ後世に名を残せるのは、ただ学問によってのみだ」とあるが、まさにその通りである。房暉遠・馬光のような者たちは倦まず学に励み、多くの門人を集め、あるいは冠を戴き車に乗るほど重んじられたのは、まさに古を稽える力によるものである。
  • 元善は従容とした風格で高い評価を得た。辛彥之は経史を篤く好み身を修め制度に志した。何妥は俊敏で弁舌に優れたが、人を訐(あば)くことを直と誤解し儒者の風を欠いた。劉焯は縉紳の中でも冠絶し天文暦数を極め、数百年来この人のみと言えるほどだった。劉炫も通儒として実務にも堪えたが、探求の深さでは劉焯に及ばず、文章の華やかさでは勝った。
  • いずれも生知に近い才を持ちながら時流に恵まれず、あるいは下級の官にとどまり、あるいは溝壑に飢え倒れたのは惜しいことである。子夏の言う「死生は命あり、富貴は天にあり」の通り、天が聡明を与えても顕位を与えぬことは聖人ですら免れなかった。劉焯・劉炫もまた運命には抗えなかったのである。