隋書卷七十四 酷吏 厙狄士文・田式・燕榮・趙仲卿・崔弘度・元弘嗣・王文同

酷吏篇の趣旨

  • 国を治める要は仁義・礼制・法令・刑罰の四つ。仁義礼制は政の本、法令刑罰は末である。教化は遠く刑罰は身近だが、教化の助けにこそなるべきで、専ら用いたり乱用したりしてはならない。『老子』も「政治が細かすぎると民はかえって狡猾になる」「法令が増えるほど盗賊も増える」と説く。
  • 秦は獄吏に頼りすぎて赭衣(囚人服)の者が道に満ち、漢はその反動で寛大になりすぎ大悪を取り逃した。厳格な吏が奸邪を摘発する意義自体は否定しない。
  • 高祖の代、天下は統一され教化が行き渡り、公然と権力を濫用する者は少なかった。厙狄士文らは功績もなく才能もないのに時流に乗じて要職を得て、その偏った性格のまま横暴を働き、君子も小人も等しく害を被った。禁奸の志ではなく残虐な心のままに振る舞ったため、君子はこれを憎み『酷吏伝』として記す。

厙狄士文――出自と地方官としての苛政

  • 厙狄士文、代の人。祖父の厙狄幹は斉の左丞相、父の厙狄敬は武衛将軍・肆州刺史。孤高で厳格な性格で、隣人や近親者とすら馴れ合わなかった。斉で章武郡王を襲封し領軍将軍に至る。
  • 周武帝の斉平定の際、山東の士大夫が周軍を歓迎する中、士文だけは門を閉ざして自守した。武帝はこれを評価し開府儀同三司・隋州刺史とした。高祖受禅後、上開府・湖陂県子、貝州刺史。
  • 清廉で公の俸禄以外を受け取らず家に財産がなかった。息子が官の厨房の餅を食べたことに激怒し、獄に繋いで鞭打ち徒歩で京へ送り返すほど厳格。使用人は外出もままならず、塩や野菜は外の境まで買いに行かせた。門の出入りには封印をし、親戚との付き合いも慶弔もすべて断った。
  • 法令が厳格すぎて吏民は震え上がったが道に落し物を拾う者もいなかったという。細かい過失も深く咎めた。入朝時、公卿への下賜品を各自持てるだけ持てという場で、他の者は多くを取ったが士文は口に絹一匹をくわえ両手に一匹ずつ持つだけに留め、文帝がその理由を問うと「口と手が塞がっているのでこれ以上は要らない」と答え、異例として褒賞された。

厙狄士文――苛政の極みと免官

  • 貝州で属官の些細な不正まで摘発し千余人を告発、文帝は彼らを嶺南に配流したが、親族の哭泣が州境に満ちた。嶺南で瘴癘により多くが死んだため、遺族は皆士文を恨んで泣いたが、士文はそれを聞くと哭く者を捕らえ鞭打たせ、ますます哭声が増した。
  • 貝州司馬の韋焜、清河令の趙達も苛酷であったが、長史だけは恵政を行い、民の間で「刺史は羅刹の政、司馬は蝮蛇の瞋、長史は含笑の判、清河は人を生きたまま食う」と歌われた。文帝は「士文の暴虐は猛獣以上」と嘆き、罷免した。
  • のち雍州長史となり「私は法を厳しく執行し高官に取り入れないので必ずこの官で死ぬだろう」と語った。着任後も厳正な法執行を貴戚にも及ぼしたため賓客が寄り付かず恨みを買った。
  • 士文の従妹は斉の嬪であったが、斉滅亡後に薛国公長孫覽の妾となった。覽の妻鄭氏の妬みから文献皇后に讒言され離縁させられた。士文はこれを恥じて会わなくなったが、のちに応州刺史唐君明が母の喪中に彼女を娶ったため、士文・君明ともに御史の弾劾を受けた。士文は剛直な性格から獄中数日で憤死した。家に財産はなく子3人は日々の暮らしにも困り、親友も引き取らなかった。

田式――厳酷な統治

  • 田式、字は顯標、馮翊下邦の人。祖父の田安興、父の田長樂はともに魏で本郡太守を務めた。剛毅果断で武芸に優れ膂力抜群。周明帝の代、18歳で都督となり郷兵を率いた。
  • 渭南太守として厳猛な政を行い吏民は震え上がった。本郡太守に転じても親故の請託は一切通らなかった。武帝に評価され儀同三司・信都県公、延州刺史となる。斉討伐の功で上開府、建州刺史・梁泉県公。
  • 高祖が丞相の時、尉迥の乱で韋孝寛に従い功を立て大将軍・武山郡公。受禅後は襄州総管となり、威厳を専らとした。属官は皆震え上がり顔を上げられなかった。婿の杜寧が長安から訪ねた際、無断で楼に上ったことを知り五十回鞭打った。愛用の奴僕が虫を袖で払っただけで無礼とみなし棒打ちで殺した。属官の不正や盗賊は軽重を問わず地下牢に監禁し糞尿にまみれさせ、死ぬまで出さなかった。恩赦の書が届いても先に重罪人を処刑してから布告するほど酷薄であった。

田式――免官と晩年

  • こうした苛酷さが咎められ除名され庶民に落とされた。恥じて食事も取らず、妻子が来ても怒るばかりで侍童2人のみを側に置いた。椒(毒)を家人から取ろうとしたが与えられず、密かに侍童に毒薬を買いに行かせたが妻子に奪われ捨てられた。
  • 息子の田信(当時儀同)が「父上は朝廷の旧臣で大過もない。免職された公卿もまた復官することは多い、なぜここまで思い詰めるのか」と涙ながらに諫めると、田式は急に起き上がり刀で信を斬りつけようとし、信が逃げて刃は扉の敷居に当たった。
  • 文帝はこれを知り、田式が自らを罪深く感じていると見て官爵を復した。のち広州総管に任じられ官にて没した。

燕榮――刺史としての苛政と伐陳の功

  • 燕榮、字は貴公、華陰弘農の人。父の燕偘は周の大将軍。剛毅厳格で武芸に優れ、周で内侍上士に仕えた。武帝の斉討伐に従い功により開府儀同三司・高邑県公。
  • 高祖受禅後、大将軍・落叢郡公、晋州刺史。河間王楊弘の突厥討伐に従い功により上柱国、青州総管に。州では力の強い者を伍伯(下役)に選び、通行人を難詰しては杖打ち、傷が骨に達するほどであった。奸盗は影を潜め境内は粛然としたが、他州の民は畏れて足を踏み入れなかった。
  • 陳討伐では行軍総管として水軍を率い東萊から太湖へ入り呉郡を攻略。丹陽を破ったのち蕭瓛を捕らえ晋陵・会稽を平定した。突厥防備で幽州総管となる。

燕榮――幽州での暴虐と最期

  • 性格は厳酷で威容があり、長史も震え上がった。名門の范陽盧氏の子弟を吏卒として屈辱を与え、鞭打ちは千に及び流血の中で平然と食事をした。ある時、荊の枝を鞭に使えると見て民を試し打ちし、後で罪があれば免じると約束したにもかかわらず、後に些細な過失で改めて打たせた。
  • 管内巡視の折には美しい官人や百姓の妻女を見ると邸に留めて陵辱した。幽州長史に任じられた元弘嗣は燕榮の辱めを恐れて固辞したが許されず、文帝が「杖十以上の罰は必ず奏聞せよ」と命じると激怒し、弘嗣に倉の管理を命じて些細な過失のたびに罰し、長期にわたり弘嗣を虐待、獄に繋ぎ食料も絶った。弘嗣は衣の綿を水に混ぜて食べるほど飢えた。
  • 弘嗣の妻が宮門で冤罪を訴え、文帝は考功侍郎劉士龍を派遣して調査させ、燕榮の虐待と汚職が明らかになり京師に召還され死を賜った。以前、燕榮の寝室に理由なく蛆が数斛湧いたことがあり、まもなくその場所で燕榮は死んだ。子は詢。

趙仲卿――軍功と苛政

  • 趙仲卿、天水隴西の人。父の趙剛は周の大将軍。粗暴で膂力があり、周斉王宇文憲に重んじられた。斉討伐で臨秦・統戎・威遠・伏龍・張壁など5城を平定、段孝先を姚襄城で撃破し功により大都督、宿衛を典掌した。
  • 王謙の乱では利州で総管豆盧勣とともに拒守、十七度の戦いを経て乱平定後大将軍・長垣県公(食邑千戸)。高祖受禅後、河北郡公。開皇3年(583年)、突厥来寇に対し河間王楊弘に従軍。平涼鎮守を経て石州刺史となり、法令は厳猛で長史を二百回も鞭打った。

趙仲卿――突厥戦での功と免官

  • 兗州刺史を経ず朔州総管となり、塞北の屯田を統括した。管理不備があれば主管者を撻ち、荊棘の中を引きずり回すこともあり「猛獣」と呼ばれた。厳しさの反面、収穫は増え辺境の輸送負担は軽減された。
  • 突厥啓民可汗が国に婚姻を求めた際、仲卿はその内紛を煽って互いに攻撃させた。開皇17年(597年)、啓民が窮迫し隋の使者長孫晟とともに通漢鎮に逃れると、仲卿は騎兵千余で救援し達頭を退けた。密かに啓民の部族を誘致し二万余家が帰順。
  • 同年、高熲に従い白道で達頭を撃ち、前鋒として族蠡山で交戦7日で大破、乞伏泊まで追撃し虜千余口・家畜万を得た。突厥が総力で反撃した際は方陣で5日耐え、高熲の大軍と合流して撃破、追撃は秦山を越えて七百余里に及んだ。突厥降者一万余家を恒安に安置し、功により上柱国・物三千段。
  • 達頭の啓民襲撃を警戒し二万の兵で守備したが、代州総管韓洪らの軍が達頭騎兵十万に大敗、仲卿が楽寧鎮から迎撃し千余級を斬った。翌年、金河・定襄二城を築き啓民を住まわせた。仲卿の酷薄さを訴える上奏があり御史王偉が調査、事実と判明したが功があるため罪に問われず、文帝は「清正な者は下から憎まれるものだ」と労い物五百段を賜った。仲卿は増長し免官された。
  • 仁寿年間、司農卿検校。蜀王秀の罪を糾明する任に赴き、秀の賓客が経由した地の州県長吏を厳しく法で処断し半数が連座した。文帝はこれを能とし奴婢五十口・黄金二百両・米粟五千石等を賞した。煬帝即位後、兵部・工部二尚書の事務を判じ、同年、64歳で卒す。諡は肅。物五百段を追贈。子は弘嗣。

崔弘度――出自と周での武功

  • 崔弘度、字は摩訶衍、博陵安平の人。祖父の崔楷は魏の司空、父の崔說は周の敷州刺史。膂力抜群で儀貌魁偉、髭が立派であった。厳酷な性格。17歳で大塚宰宇文護の親信となり都督、大都督を歴任。
  • 護の子で蒲州刺史の宇文訓に従った際、高楼の上層から飛び降りても無傷であった逸話があり、その敏捷さに訓は驚嘆した。戦功により儀同を授かり、武帝の斉討伐に従い上開府・鄴県公、物三千段・粟麦三千石・奴婢百口等を賜った。范陽で盧昌期を討ち、宣帝の代には韋孝寛に従い淮南を経略、肥口で陳将潘琛を撃退、寿陽攻略で降将吳文立を得るなど功が最も多く上大将軍・安平県公を襲爵した。

崔弘度――尉迥討伐と諸官歴

  • 尉迥の乱では行軍総管として韋孝寛に従い、驍雄数百人の別隊を率いて連戦連勝。妹が尉迥の子に嫁いでいた縁で、鄴城陥落時に楼上に追い詰められた尉迥に「今日は国事のために私情を捨てねばならぬ、早く身の処し方を決めよ」と諭したが、尉迥は弓を投げ捨て自ら死んだ。弟の弘升に首を取らせた。功で上柱国となるはずが、迥を速やかに殺さず悪言を招いたとして一等降爵され武郷郡公となった。
  • 開皇初年、突厥来寇に対し行軍総管として原州から迎撃、退けたのち霊武に駐屯し華州刺史。妹を秦孝王妃に納れた。襄州総管では厳格な統治で吏民は畏怖した。梁王蕭琮来朝の際は江陵総管として荊州を鎮め、陳人も恐れて荊州を窺わなかった。
  • 陳平定の役では秦孝王に従い襄陽道から出征、功により物五千段。高智慧の乱では楊素に隷属し不満を抱きつつも功を上げた。のち原州検校事、弟弘升の娘を河南王妃に納れ一門から二妃を出した。仁寿年間には太府卿検校。厳格な家風で、鱉(すっぽん)を食べた際に侍者全員に味を尋ね、食べていないのに「美味しい」と答えた者を杖打ちにした逸話がある。

崔弘度――晩年

  • 当時武侯驃騎の屈突蓋も厳酷で「三升の酢を飲むほうがまし、崔弘度に会うより」「三升の艾を食うほうがまし、屈突蓋に会うより」と長安で謡われた。
  • 秦王妃(妹)が罪で誅殺され、河南王妃(姪)も廃されると、崔弘度は憂憤して病と称し家に籠もり、諸弟とも別居するようになった。煬帝即位後、河南王が太子となり崔妃を復位させようとしたが、使者が訪れた際弘度は病と称して応じず、事は立ち消えとなった。まもなく憂憤のうちに卒した。

崔弘升(弟)の付伝

  • 崔弘升、字は上客。周で右侍上士。尉迥の乱で兄弘度とともに討伐に加わり功により上儀同、のち上開府・黄台県侯(食邑八百戸)。高祖受禅後、爵を公に進め驃騎将軍。宿衛十余年ののち慈州刺史、鄭州刺史を歴任。姻戚関係により厚遇され襄州総管に転じたが、河南王妃の廃黜に伴い免官された。
  • 煬帝即位後、冀州刺史・信都太守を経て金紫光禄大夫、涿郡太守。遼東の役では検校左武衛大将軍事として平壌へ進軍したが宇文述らとともに大敗し、逃げ帰ったのち発病して卒す。享年60。

元弘嗣――厳酷な統治

  • 元弘嗣、河南洛陽の人。祖父の元剛は魏の漁陽王、父の元經は周の漁陽郡公。若くして爵を継ぎ18歳で左親衛。開皇9年(589年)、晋王(煬帝)の陳討伐に従い上儀同。開皇14年(594年)、観州総管長史として厳酷な統治を行い吏民の恨みを買った。開皇20年(600年)、幽州総管長史に転じ、総管の燕榮に虐げられ何度も鞭打たれた。心服せず燕榮に獄に繋がれ殺されかけたが、燕榮が誅されると弘嗣は政をとり燕榮以上に酷薄になった。
  • 囚人の尋問には酢を鼻に注ぐ、下腹部に何かを差し込むなどの拷問を行い、偽りを申す者がなくなるほど徹底した。仁寿末年、木工監として東都造営を監督。大業初年、煬帝が遼東遠征を計画し東萊海口で造船を監督させた際、諸州の徴発された労役者は捶楚に苦しみ、腰から下に蛆が湧くほど働かされ4割ほどが死んだ。

元弘嗣――晩年

  • 黄門侍郎、殿内少監を経て遼東の役で金紫光禄大夫。翌年、帝が再度遼東遠征を計画中、突厥の残党が隴右を侵すと弘嗣に討伐を命じた。楊玄感の乱で東都が脅かされた際、弘嗣は安定に駐屯していたが玄感に呼応する謀があると告げられ、代王楊侑が使者を送り捕縛。謀反の証拠がなく釈放されるべきところ、帝の疑いが解けず除名、日南に流される途中で没した。享年49。子は仁観。

王文同――苛烈な統治と最期

  • 王文同、京兆潁陽の人。弁が立ち才幹があった。開皇中、軍功で儀同、桂州司馬。煬帝即位後、光禄少卿に召されたが帝の意に逆らい恒山郡丞に左遷された。
  • 郡内の豪猾な者が代々長吏を脅かしていたのを、赴任後召し出して数え上げ、木の橛を庭に埋め、その者をうつ伏せに縛り付け棒で背を打ち、たちまち潰爛させた。郡中は震え上がった。
  • 遼東遠征に際し河北諸郡を巡察する任を得ると、菜食して斎戒する沙門を妖妄とみなし投獄。河間では官人の些かの遅参にも顔を地面に押し付けて棒打ちにし、沙門の集会や法会に集まった数百人を惑衆の罪で皆斬った。さらに僧尼を裸にして童貞かどうかを検分し、そうでない者数千人を殺そうとした。郡中の士女は路上で号泣し、諸郡は驚いて事の次第を上奏した。
  • 帝は激怒し、使者達奚善意を派遣して捕らえさせ河間で斬り、民衆に謝した。仇のある者たちが棺を暴いて肉を切り刻んで食い尽くしたという。

史論

  • 史臣は言う。良い統治者は煩雑な策に頼らず、良い政治は厳刑に頼らない。寛猛を併せ用い徳と刑を共に設けるのが本来だが、厳酷でなく感化するのが先賢の重んじたところである。
  • 厙狄士文らは明主の治世に生まれ乱世でもないのに、道徳を弁えず残忍さのみを抱き、人を草木同然に扱い人命を軽んじること芻狗のようであった。悪をやめず、自ら罪に落ちるか憂憤に倒れるかしたのは天道というべきである。
  • ああ、後世の為政者は、たとえ子高のように高門を築いて封を待つ器量がなくとも、せめて母に墓を掃かせて喪を待たせるようなことがあってはならない。