隋書卷七十三 循吏 梁彥光・樊叔略・趙軌・房恭懿・公孫景茂・辛公義・柳儉・劉曠・王伽・魏德深

循吏篇の趣旨

  • 古の善い牧民官は仁・義・礼をもって民を導き、民の欲するところに従って利し、恵みを与えても浪費しなかった。子産・子賤・賈琮・文翁のような例が挙げられる。
  • 高祖(文帝)は天下を治めるにあたり刑罰・法令を重んじすぎ、寛恕の政は少なかった。煬帝の代になると遠征が相次ぎ、綱紀が緩み、民から搾り取る官吏がかえって「奉公」として重用され、清廉な官吏は「附下(民に迎合する)」として排斥された。
  • そうした風潮の中でも梁彥光ら循吏は誠実に仁恕を行い、その遺風が後世に伝わったため、本篇にまとめて記す。

梁彥光――出自と若年期

  • 梁彥光、字は修芝、安定烏氏の人。祖父の梁茂は魏の秦・華二州刺史、父の梁顯は周の邢州刺史。
  • 幼くして人並み外れた資質があり、父に「この子は我が一族を興すだろう」と評された。7歳のとき父が重病になり、医者が紫石英を薬に処方したが手に入らず困っていたところ、庭で偶然紫石英を見つけたという逸話があり、至孝の感応とされた。
  • 魏の太学に入り経史を学び、礼儀にかなった振る舞いをした。17歳で秘書郎となり、以後周で舎人上士・小馭下大夫を歴任。母の喪に服し、過度に憔悴したため周武帝が慰めた。

梁彥光――周から隋にかけての昇進

  • 小内史下大夫、御正下大夫を経て、周武帝の斉平定に功を立て開府・陽城県公(食邑千戸)を授かる。
  • 宣帝の代に華州刺史・華陽郡公(食邑五百戸増、二千戸まで)となり、上大将軍・御正上大夫、柱国・青州刺史を歴任。
  • 高祖(隋文帝)受禅後は岐州刺史・岐州宮監を兼ね、食邑を増やされ二千戸に。善政により嘉禾連理が現れ、開皇2年(582年)に文帝が岐州に行幸し、詔で称賛して粟五百斛・物三百段・御傘一枚を賜り、後に銭五万も下賜された。

梁彥光――相州刺史での失敗と再起

  • 岐州の質朴な民には静的な統治が功を奏したが、その後赴任した相州(鄴都)は変詐に長けた気風で、同じやり方が通じず、風刺の歌まで作られて統治能力を疑われ、罷免された。
  • 趙州刺史に転じたのち、彥光自ら「かつて相州で失敗した無念を晴らしたい」と願い出て相州刺史に再任された。豪猾な者たちは嘲笑したが、赴任後は奸悪を的確に摘発し、境内を震撼させた。
  • 斉滅亡後、士人は関内に移り、技巧・商販・楽戸の家が州郭に残っていたため風俗が険しく訴訟が乱れていた。彥光は俸禄を投じて山東の大儒を招き、郷ごとに学校を建て、聖賢の書のみを教授させた。季節ごとに試験を行い、優秀者は堂上で饗応し、怠惰な者は庭で草の敷物に座らせるなど賞罰を明確にし、風俗を改めた。
  • 滏陽の焦通が酒に溺れ親孝行を欠いたとして従弟に訴えられた際、彥光は罰せず孔子廟に連れて行き、韓伯瑜が母に杖打たれても痛がらず母の衰えを悲しんだ像を見せて教化し、焦通は改心して善士となった。
  • 数年後に官にあって没した。享年60。冀・定・青・瀛の四州刺史を追贈され、諡は襄。子の文謙が跡を継いだ。

梁彥光の子・文謙とその弟文讓

  • 文謙は父の風格を受け継ぎ、開皇15年(595年)に上州刺史。煬帝即位後は饒州刺史、のち鄱陽太守として天下第一の評価を得て戸部侍郎に召された。
  • 遼東の役では武賁郎将として太府・衛尉少卿を兼務し、盧龍道軍副となった。楊玄感の乱の際、弟の武賁郎将楊玄縦がかつて文謙配下にいたため、玄感謀反の報が届く前に玄縦が逃走したことに連座し、桂林に配流されて没した。享年56。
  • 少子の文讓は初め陽城県公に封ぜられ、後に鷹揚郎将となり、衛玄に従い東都で楊玄感を撃ち戦死した。通議大夫を追贈された。

樊叔略――出自と周での経歴

  • 樊叔略、陳留の人。父の樊歓は魏の南兗州刺史・阿陽侯であったが、高氏(北斉)の専権に対する復興計画に関わり誅殺された。叔略は幼くして腐刑を受け、宮中に仕えることになった。
  • 身長九尺、志気非凡で高氏に忌避されたため関西へ逃れた。周太祖に見出され側近に置かれ、都督を授けられ侯爵を継いだ。大塚宰宇文護のもとで中尉となり、計数に長け時務に通じ、内外を統括するまでに信任された。
  • 護が誅されたのち斉王宇文憲に園苑監として仕え、東方併呑の策を進言し重んじられた。建德5年(576年)に武帝の斉討伐に従軍し功により上開府・清鄉県公(食邑千四百戸)となった。

樊叔略――刺史としての治績と最期

  • 汴州刺史として明決と称され、宣帝の代には洛陽での東京造営を任され、宮室の制度は叔略が定めたが、完成前に帝が崩じた。
  • 尉迥の乱では高祖の命で大梁を守り、宇文威の来寇を撃退。功により大将軍、再び汴州刺史となる。高祖受禅後は上大将軍・安定郡公に進む。
  • 治めにくいとされた鄴都(相州)を任され当時第一の政績を上げ、璽書で褒賞され物三百段・粟五百石を賜り天下に示された。民は「智無窮、清鄉公。上下正、樊安定」と称えた。
  • 司農卿に召された際、民は流涕して惜しみ、徳政を頌える碑を立てた。司農卿として種植の制度を独自に定め、朝廷の疑難も学識によらず的確に判断し理に適った。高熲・楊素にも礼遇された。
  • 性格は豪奢で食事は常に贅を尽くした。開皇14年(594年)、泰山への祭祀に従い洛陽で囚人の記録を命じられたが、獄門前で馬上のまま急死した。享年59。亳州刺史を追贈され、諡は襄。

趙軌――出自と地方官としての清廉

  • 趙軌、河南洛陽の人。父の趙肅は魏の廷尉卿。若くして学を好み品行方正であった。周の蔡王に記室として仕え清苦で知られた。衛州治中を経て、高祖受禅後は斉州別駕として能吏の名を得た。
  • 東隣の桑の実が自宅に落ちた際、すべて拾って主に返し、子らに「機織りに使う物でもないのに人のものを侵したくない」と戒めた逸話がある。
  • 州で4年間、考課は常に最高評価。持節使者郃陽公梁子恭の上奏により文帝から物三百段・米三百石を賜り入朝した。父老たちは「別駕は在官中、水も火も百姓と分け合わなかった。清いこと水のようだ」と一杯の水で餞別した。

趙軌――律令編纂と後半生

  • 京師で奇章公牛弘とともに律令格式を撰定。衛王楊爽が原州総管となった際、原州総管司馬に任じられた。夜行中に馬が逃げて田の稲を荒らした際、夜明けまで待って稲の持ち主に弁償し立ち去った逸話があり、原州の官吏民が皆心を改めたという。
  • のち硤州刺史として異民族を懐柔し恩恵を施した。壽州総管長史に転じ、芍陂の旧五門堰を修復し新たに三十六門を開いて田五千余頃を灌漑し民に利益をもたらした。
  • 任期満了後郷里に帰り家で没した。享年62。子の弘安・弘智とも知られた人物であった。

房恭懿――北斉から隋にかけての経歴

  • 房恭懿、字は慎言、河南洛陽の人。父の房謨は斉の吏部尚書。深く沈着な人柄で政務に通じていた。斉に仕え開府参軍事から平恩令・済陰守を歴任し能吏として知られた。
  • 斉滅亡後は任用されず、尉迥の乱に加担して敗れ免官となる。開皇初年、吏部尚書蘇威の推薦で新豊令となり、三輔で最高の政績を上げた。下賜された物四百段・米三百石をすべて貧民に分け与えた。
  • 文帝は毎朔の朝謁で恭懿を榻前に呼び、治民の術を尋ねた。蘇威の重ねての推薦で沢州司馬に抜擢され異例の功績を上げ、徳州司馬に転じ、盧愷が天下第一の政績と奏上した。文帝は諸州朝集使に「房恭懿のように国に尽くし民を愛する者こそ天が助けたもの」と述べ刺史に任じ、模範とすべしと諭した。海州刺史に任命する詔も出された。

房恭懿――失脚と最期

  • 国子博士何妥が「恭懿は尉迥の党であり任用すべきでない、蘇威・盧愷は朋党を組んで不当に推薦した」と上奏。文帝は激怒し、恭懿は罪を得て嶺南に配流された。
  • まもなく京師に召還されたが、洪州に至る途中で病没した。当時の論者は今もこれを冤罪と惜しんでいる。

公孫景茂――北斉・北周での経歴

  • 公孫景茂、字は元蔚、河間阜城の人。容貌は魁偉で学を好み経史に博通した。魏では孝廉に察挙され射策甲科に及第し、襄城王長史・行参軍を経て太常博士となり、多くの制度改革を行い「書庫」と称された。
  • 高唐令・大理正を歴任し能吏として知られ、斉滅亡後は周武帝に召見され済北太守を授けられた。母の喪により離職した。

公孫景茂――隋での治績と晩年

  • 開皇初年、召されて政務について諮問され、汝南太守となる。郡廃止後は曹州司馬に転じ、老病を理由に致仕を願うも許されず、息州刺史に。法令は清静で徳化が広く行われた。
  • 陳平定の役で従軍中の兵に病人が出た際、俸禄を割いて粥や薬を施し千人単位で救った。文帝はこれを称え天下に布告させた。開皇15年(595年)、洛陽行幸の際に77歳で謁見し「呂望は80歳で文王に遇い、臣は70を過ぎて陛下に逢った」と述べ、物三百段を賜り上儀同三司・伊州刺史に進んだ。
  • その後道州刺史に転じ、俸禄で牛馬鶏豚を買い孤独窮乏の者に施した。単騎で民情を巡視し、善行は褒め、過失は密かに諭して表に出さなかった。仁寿年間、淄州刺史となり、大業初年(605年頃)に官にて卒す。享年87。諡は康。死の際、諸州から数千人の吏民が弔問に訪れ、間に合わなかった者は墓に向かって慟哭した。

辛公義――出自と若年期

  • 辛公義、隴西狄道の人。祖父の辛徽は魏の徐州刺史、父の辛季慶は青州刺史。早くに父を失い母に育てられ、直接書伝を授けられた。
  • 周の天和年間、良家の子として太学生に選ばれ勤苦で知られた。武帝の代に露門学に召され、大儒と学び称賛された。建德初年、宣納中士を授けられ、斉討伐で功を立て掌治上士・掃寇将軍を歴任。高祖が丞相のとき内史上士として機要に参与した。

辛公義――地方官としての善政

  • 開皇元年(581年)、主客侍郎・内史舎人事を摂し安陽県男(食邑二百戸)を授かる。陳の使者接待を務め、駕部侍郎として江陵で辺境の安定にあたった。開皇7年(587年)、諸州の馬牧検査で十余万匹を得て文帝に賞賛された。
  • 陳平定の功で岷州刺史となる。当地では疫病を恐れ一人が病むと家族全員が避け、看病せず孝義の道が絶えていたため病死者が多かった。公義はこれを憂い、病人を役所の庁事に運ばせ自ら傍らに座して昼夜世話をし、俸禄を薬に充て治療させた。快癒者が出ると親族を呼び「伝染すると言うなら私はなぜ死なないのか」と諭し、この風習を改めさせた。以後、境内では「慈母」と呼ばれるようになった。
  • 牟州刺史に転じ、獄舎に自ら座って訊問し、十数日で滞留案件を処理した。訴訟は文案を立てず即座に側坐で審理し、決着まで役所に泊まり込んだ。「刺史に徳がなく民を獄に留めるようでは心が安まらない」と語り、これに感じた罪人は皆服罪し、郷里の父老も互いに訴訟を諭し止めさせるほどであった。
  • 山東で大水害が起きた際、岷州の管内だけは被害を免れ、山から黄銀が出土して献上された。詔により水部郎婁崱が公義に祈祷させたところ空中に楽の音が聞こえたという。

辛公義――晩年と免官

  • 仁寿元年(601年)、揚州道黜陟大使を兼任。豫章王楊暕は自身の部下の不正が露見するのを恐れ公義に取り計らいを頼んだが、公義は「詔を奉じ私情を挟まない」と断り、揚州で不正を摘発したため楊暕の恨みを買った。
  • 煬帝即位後、揚州長史王弘が公義を讒言し免官となった。吏民は宮門で冤罪を訴え続けたため数年後帝が悟り内史侍郎に召された。母の喪に服したのち司隸大夫・検校右禦衛武賁郎将に起用され、遼東遠征中に柳城郡で没した。享年62。子は融。

柳儉――出自と周での経歴

  • 柳儉、字は道約、河東解の人。祖父の柳元璋は魏の司州大中正・相華二州刺史、父の柳裕は周の聞喜令。度量があり清廉な行いで郷里に敬われ、親しい者にも侮られなかった。周代に宣納上士・畿伯大夫を歴任。

柳儉――隋での治績

  • 高祖受禅後、水部侍郎に抜擢され率道県伯に封じられ、広漢太守として能吏の名を得た。郡廃止後、蓬州刺史として文書を用いず訴訟を庭で口頭処理し、獄に囚人がいない状態を保った。蜀王楊秀がその治績を上奏し邛州刺史に転じ、十余年間で異民族も心服した。
  • 蜀王秀が罪を得た際、交流があったとして柳儉も連座し免職。郷里に帰った際は粗末な車と痩馬しかなく妻子の衣食も乏しく、見た者は皆感嘆した。
  • 煬帝即位後、功臣が牧守を占める中で柳儉は良吏出身のまま起用され、朝散大夫・弘化太守として物百段を賜った。大業5年(609年)の朝集で帝が「天下第一の清名は誰か」と問うと蘇威・牛弘が柳儉を挙げ、次点として涿郡丞郭絢・潁川郡丞敬肅の名も挙がった。帝は柳儉に帛二百匹、郭絢・敬肅に各百匹を賜り、天下の朝集使に披露させた。
  • 大業末、群盗が蜂起し攻撃を受けたが柳儉は民を撫し離反させず保全した。義兵が長安に至り恭帝を擁立すると、留守の李粲とともに喪服で南に向かい慟哭。のち京師に帰り相国から物三百段を賜り上大将軍を授けられ、まもなく家で没した。享年89。

郭絢・敬肅の付伝

  • 郭絢は河東安邑の人。家は寒微であったが尚書令史から軍功で儀同を得て諸州の司馬・長史を歴任し能吏として知られた。大業初年、刑部尚書宇文弼の副として河北を巡視し、涿郡丞に抜擢され吏民に慕われた。通守を兼ね留守も務めたが、竇建徳との河間での戦いで戦死し、吏民は数ヶ月哭泣した。
  • 敬肅、字は弘儉、河東蒲阪の人。若くして貞節で知られ州主簿から出仕。開皇初年、安陵令として能吏となり秦州司馬・豳州長史・衛州司馬を歴任し異績を上げた。煬帝の代に潁川郡丞となり、大業5年(609年)の朝謁で司隸大夫薛道衡が「心は鉄石のごとく、老いてなお篤い」と評した。左翊衛大将軍宇文述からの私的な書状を開封せず送り返し、宇文述の賓客の不正を法により罰したため恨まれ、老齢ながら太守昇進の話は宇文述に阻まれ続けた。大業末、致仕を願い許され、家に財を残さず数年後に没した。享年80。

劉曠――地方官としての善政

  • 劉曠は出自不詳。誠実温厚な人柄で開皇初年、平郷令として単騎で赴任した。訴訟人には道理を諭すだけで処罰せず、皆自ら過ちを認めて帰った。俸禄を貧民救済に充て、民は「このような君主がいて悪事をなせるものか」と互いに励まし合った。
  • 在職7年で獄に囚人がなく訴訟が絶え、獄舎には草が生い茂るほどであった。離任時は民が路上で号泣し数百里にわたり見送った。臨頴令に転じ、清廉な政績で天下第一と評され、尚書左僕射高熲が奏上、文帝に召され「独り優れている」と称賛され莒州刺史に抜擢された。

王伽――流刑囚を信じた逸話

  • 王伽、河間章武の人。開皇末年、斉州行参軍として、流刑囚李参ら70余人を京師へ護送する任にあたった。制度上、流人は枷鎖を付けて護送されるが、滎陽に至った際に囚人らの苦労を哀れみ「お前たちは国法を犯したがこの苦労は不憫だ、期日までに京師に集合できるか」と問い、承諾を得て枷を外し護衛も外して自由に行かせた。
  • 期日どおり全員が離反せず京師に到着し、文帝は驚嘆して召見し称賛した。流人とその妻子を宮中に招き宴を賜って赦免した。詔を下し「王伽のような官吏、李参のような民ばかりであれば刑罰など不要になろう」と述べ、王伽を雍令に抜擢し能吏として名を上げた。

魏德深――出自と貴郷長としての治績

  • 魏德深、本貫は巨鹿。祖父の魏沖は周の刑部大夫・建州刺史となり弘農に居を移した。父の魏毗は郁林令。文帝の挽郎から馮翊書佐・武陽司戸書佐を経て貴鄉長に抜擢された。
  • 清廉な政治で強制せずとも治まった。遼東の役で徴税が乱れ諸郡に負担が及ぶ中、貴郷県だけは民に無理を強いず有無を融通し合わせ、大治と称された。群盗蜂起の折も武陽の他の城が陥落する中、貴郷のみ無事であった。
  • 郡丞元寶蔵は盗賊討伐に失敗するたびに民から器械を強制徴発したが、隣県では吏民が昼夜督責されても間に合わなかったのに対し、魏德深は民の望む役目を割り振り、役所は静穏なままだった。

魏德深――館陶での治績と最期

  • のち館陶長に転じることになった際、貴郷の吏民は皆涙を流し、赴任時は傾城で見送られた。館陶でも父母のように慕われた。
  • 郡丞元寶蔵と結託していた猾吏員外郎趙君實は、德深赴任後は身を潜め、逃亡していた民も戻ってきた。貴郷の父老は危険を冒して都に德深の留任を願い出て許された。館陶の父老も郡に訴えたが、持節使者韋霽・杜整らの裁定で貴郷への異動が決まり、館陶は悲哭し数百家がそのまま貴郷に移り住んだ。
  • 元寶蔵はその才を妬んでいた。越王楊侗が郡に徴兵を命じた際、寶蔵は德深に千人を率いて東都へ赴かせ、その隙に寶蔵は武陽を李密に降した。德深配下は皆武陽の人であったため、故郷が賊に付いたことを嘆き都門を東に向いて慟哭した。「李密軍は近くにあるのになぜ帰らないのか」と問われても「魏明府と共に来た以上、道の険しさゆえに見捨てることはできない」と答えたほど人望が篤かった。のち賊との戦いで戦死し、貴郷・館陶の人々は今も彼を偲んでいる。

附伝――高世衡・劉高・劉熾

  • 当時、櫟陽令の渤海高世衡、蕭令の彭城劉高、城皋令の弘農劉熾も恩恵深い政治を行った。大業末、多くの長吏が汚職に走る中、この3人は清廉な節を保ち風教を広め、獄に囚人がないほどであったため吏民に称えられた。

史論

  • 史臣は言う。水を治める者は水を平らかに導き、人を教化する者は撫でて静める。水が平らかであれば堤防を損なわず、人が静かであれば法度を犯さない。風俗を移すには明察よりも循良な人物によるべきである。
  • 梁彥光らは内に正直な心を持ち至誠で人に接し、赴任地は教化され、離任後も慕われた。公孫景茂の悪を退け善を挙げる政、辛公義の病人への配慮、劉曠が管内を感化した治績、魏德深が人心を結びつけた様は、漢の信臣・杜詩・鄭渾・硃邑にも劣らない。
  • 『詩経』に「愷悌の君子は民の父母」とあるのはまさにこの通りである。房恭懿はとりわけ優れていたが、過去の些細な咎を追及されて配流の途上に落命したことは惜しまれる。柳儉は免官後妻子の暮らしも立たなかったが、趙軌は任期満了に一杯の水で送られた清廉さがあった。