隋書卷六十九 列傳第三十四 袁充
出自と陳における仕官
- 字は徳符、陳郡陽夏の出、丹陽に寓居。祖袁昂・父袁君正はともに梁の侍中。少年より聡明で機知に富み、陳に仕え秘書郎(17歳)、太子舎人・晋安王文学・吏部侍郎・散騎常侍を歴任した。
日影の讖と皇太子廃立
- 陳滅亡後、蒙州・鄜州司馬を経て太史令。占候を好み、皇太子(楊勇)廃立の機運に乗じ「玄象を見るに皇太子は廃されるべき」と帝に迎合した。さらに開皇以来の冬至・夏至の日影の変化(開皇元年から十七年にかけての測定値を詳述)を「日が長くなるのは隋の盛運の兆し」と上表し、帝は天下に布告させた。この測定の口実で作役に課程を加え、工匠を苦しめた。
- 仁寿初、皇帝の生年月日と陰陽律呂の符合を60余条挙げて上表し、賞賜を得た。
煬帝への迎合
- 仁寿四年、太史丞高智宝と共に、煬帝の即位年が唐堯の受命年と暦数上一致すると上表し、斉王暕に百官を率いて祝賀させた。熒惑(火星)が太微を数十日守った際にも「陛下の修徳により熒惑が退いた」と奏し百官が賀した。帝は前後で万を数える賞賜を与えた。以後、軍国の大事があるたび天文の瑞象を口実に取り繕った。
- 大業六年、内史舎人に遷り、遼東征討に従軍、朝請大夫・秘書少監。帝が雁門の危機や盗賊蜂起で不安を抱くと、去年以来の流星・熒惑等七件の天文異象を突厥討伐の吉兆として詳述する上表を行った(8月の流星2件、9月の流星、歳星の福徳、熒惑退舎、盧明月営への落星、通漢鎮の赤気の7事)。河南洛陽の地が乾元の卦に符合すると結んだ。帝は大いに悦び秘書令に抜擢し、以後帝の征討の意向を察して星象で正当化し続けた。宇文化及の乱で誅殺された。享年75。
史論
史臣曰く(要約)――王劭は幼少より白髪に至るまで学に倦まず博識で知られたが、怪異と巷説を好み文辞が卑俗で体裁が繁雑であり、南史・董狐の直筆にも司馬遷・班固の才にも及ばず、記述に値するものは乏しい。袁充は江左出身で機知により称されたが、玄象の術で取り入り、時流に阿った。王劭は符瑞を捏造し、袁充は星占を歪め日影を誇張して天道を欺いたのは、河朔の清流・江南の名族としての家声を辱めるものであり、慨嘆に値する。