出自と初期の経歴
- 司徒楊素の子。体貌雄偉、髯が美しく、幼少期は大成が遅く「癡」と評されたが父は「この子は癡ではない」と言った。成長後は読書と騎射を好んだ。父の軍功により柱国に至り父と同格で朝会に列したが、高祖の命で一等下げられ、玄感は「私的な敬意を公の場で示せるとは」と謝意を述べた。
- 郢州刺史として長吏の善政・貪汚を密偵で把握し、宋州刺史を経て父の喪で辞職、鴻臚卿・楚国公・礼部尚書。驕慢だが文学を重んじ天下の名士が集まった。
謀反の端緒
- 累世の権勢を頼み、朝綱の乱れと帝の猜忌を見て諸弟と帝廃立(秦王浩擁立)を密謀した。吐谷渾征討からの帰途、大斗抜谷で行宮を襲おうとしたが叔父楊慎に「人心がまだ一つで機は熟していない」と止められた。帝が征伐を好むのに乗じ、兵部尚書段文振に辺境での立功を願い出て信任を得た(「将門に必ず将あり」と帝が評した)。
黎陽での挙兵
- 遼東の役で黎陽の督運を任され、天下が乱を望むのを見て武賁郎将王仲伯・汲郡贊治趙懐義らと共謀、糧食輸送を故意に滞らせた。弟の玄縦・万碩を遼東から呼び戻すため、来護兒が軍期に遅れて反乱したとの偽情報を流し、黎陽県で兵を募った。開皇の旧制に倣い官属を置き、元務本を黎州刺史、趙懐義を衛州刺史、唐禕を懐州刺史に任じ、来護兒討伐を名目に各地に発兵を呼びかけ洛陽襲撃を図った。しかし唐禕が東都に密告し、越王侗・樊子蓋が防備を固めた。玄感は汲郡南で渡河、衆は市のごとく集まり十余万に達し洛陽を包囲、裴弘策の軍を破った。
- 樊子蓋への書簡(要約)――高祖の功業を讃え、煬帝の失政(頻年の大赦による盗賊の増加、労役による民力の疲弊、酒色・鷹犬への耽溺、佞臣の重用と直言の排斥、輸送・徭役の絶えない苦しみ)を糾弾し、先公の遺訓「良き子孫は輔弼し、悪しき子孫は排除せよ」を引いて義挙の正当性を訴え、子蓋に降伏を勧告するもの。
東都攻防と敗死
- 刑部尚書衛玄の援軍を偽って敗走させ伏兵で撃破、続く戦いでも偽情報で衛玄軍を混乱させ大勝した。玄感は勇猛で常に長矛を振るい先陣を切り、項羽に比された。北邙での決戦で弟玄挺が戦死、樊子蓋の反撃も受けた。
- 宇文述・屈突通・来護兒らの援軍が迫る中、李子雄の献策で屈突通の渡河を阻もうとしたが果たせず、東西から挟撃される劣勢となった。子雄の再度の献策(東都を離れ関中を制圧し覇業を図る策)を容れ、華陰の楊氏一族の道案内で西進、「東都を破り関西を取った」と宣言した。弘農宮で父老の勧めに従い攻城したが3日で落とせず追兵に追いつかれ、閿郷から董杜原にかけて連敗、最後は十余騎で山林に逃げ、弟楊積善に「敗れた、辱めを受ける前に殺せ」と命じ、積善が斬り自らも自刺したが死にきれず捕らえられ、玄感の首とともに帝の元へ送られた。屍は東都市で3日晒され焼かれた。弟玄奨・玄縦弟万碩・その弟民行も相次いで誅殺され、朝廷は玄感の姓を「梟」に改めさせた。梁郡の韓相国も呼応して挙兵し十余万に達したが玄感の敗北とともに潰れた。