出自と斉での経歴
- 字は君懋、太原晋陽の人。父王松年は斉の通直散騎侍郎。少年より沈黙で読書を好んだ。弱冠で斉の尚書僕射魏収に召され開府参軍事、太子舎人、文林館待詔を歴任。祖孝徴・魏収・陽休之らが古事を論じて忘れた事を劭に問うと出典を挙げて的中させ、博物の評判を得た。中書舎人。斉滅亡後、入周したが用いられなかった。
隋初の著述と讖緯への傾倒
- 高祖の受禅後、著作佐郎。母の喪で辞し家で『斉書』を著したが、私撰史の禁令に触れ李元操に奏劾されたものの、高祖は読んで悦び員外散騎侍郎・起居注に起用した。古の鑽燧改火の制の復活を上表し容れられた。高祖に「龍顔戴干の相あり」と告げ、著作郎に進んだ。
- 以後、符命・瑞祥に関する上表を重ねた。周の保定二年に黄河が澄んだ吉兆を隋の火徳と結びつけた上表、開皇初に邵州・永州・汝水・安邑・同州などで得られた石図・神亀・古鉄版の銘文を隋の受命の証とする上表、亳州・熒陽での「龍闘」の異象を至尊の亳州総管歴任や火徳の盛んさに結びつけ、『易緯』坤霊図の予言を隋の姓・武元皇帝の身長・生誕月日等に照らして逐一符合させる牽強付会の上表、稽覧図の記述を武元皇帝の陳留公・亳州総管歴任や陳留の老子祠の柏の伝承と結びつけた上表、陰陽の変化(葱が韮に変わる等の吉兆)の報告と、上表のたびに帛を賜った。
- さらに『易緯』乾鑿度・稽覧図の卦辞を隋の受命の年月・楽平公主の摂政・武元皇帝の亳州総管就任等に逐一附会する上表、『河図』帝通紀・皇参持の讖文も同様に隋の年号・開皇の由来等と結びつけて解釈した。上は大いに悦び、以後も黄鳳泉で得た瑞玉の図象(日月星辰・八卦五岳・二麟双鳳・「天門地戸人門鬼門閉」の九字等四十五官の図象と皇帝名・皇后・「隋」「吉」の字が並ぶという内容)を報告し、劭は詩二百八十篇を作って献じ、帛千匹を賜った。さらに民間の歌謡や図書讖緯・仏教経典を集めて『皇隋霊感誌』30巻を撰し、上は天下に頒布させ、朝集使に音読させるほど喜んだ。
文献皇后崩御と煬帝期
- 仁寿中、文献皇后の崩御に際し、劭は仏典の記述と崩御時の瑞祥(金銀の花の雨、大宝殿の神光、音楽、鍾の音など)を照合し符瑞とする上言をした。蜀王秀の廃嫡に際しては「聖帝明王も不肖の子は変えられない」と黄帝・堯・舜の例を挙げて慰め、高祖の夢占いでも吉兆を説いて喜ばれた。
- 煬帝即位後、漢王諒の乱で帝が誅殺をためらうと、劭は黄帝・周公・叔向・石碏の故事を引いて厳罰を促し、諒の楊姓剥奪まで求めたが、帝は従わなかった。祕書少監に遷り、数年後卒官した。
著述への評価
- 著作局に約二十年在任し国史を専掌、『隋書』80巻を撰したが、口勅を多く採録し怪異・巷説を交えたため辞義が繁雑で名臣良将の事績が埋没したと評された。編年体の『斉志』20巻、紀伝体の『斉書』100巻、『平賊記』3巻も撰したが文辞が卑俗との批判もあった。一方『読書記』30巻は経史の誤りを摘出したもので精博と評された。学問に没頭するあまり世事に疎く、食事の際も目を閉じて考え込み、肉を従者に食べられても気づかず厨人を罰することがあった。