隋書卷六十八 列傳第三十三 何稠
出自と技巧
- 字は桂林、国子祭酒何妥の兄の子。父何通は玉を彫るのに巧みだった。稠自身も精巧な技と智思を持ち、江陵陥落後、妥に従い長安に入った。周の御飾下士から高祖の丞相府参軍・細作署掌管を経て、開皇初、都督・御府監・太府丞を歴任。波斯からの金綿錦袍を模して上回る出来のものを製作し高祖を悦ばせた。当時中国で絶えていた琉璃の技法を緑瓷で再現した。員外散騎侍郎。
桂州平定と甯猛力の帰順
- 開皇末、桂州の俚人李光仕の乱を討伐する使命を受け、渠帥莫崇を偽って解放し油断させたのち急襲して制圧した。象州・羅州の逆帥も相次いで降し、渠帥を州県官に任じて帰還した。欽州刺史甯猛力の帰順にあたっては、猛力の病の重さを見て猜疑を解き帰らせたが、10月に死去した。稠は「猛力との約束通り子が入朝するはず」と予言し、実際その子長真が入朝、開府を授けられた。
仁寿から大業への活躍
- 仁寿初、文献皇后の陵墓制度を宇文愷とともに参画。無口だが帝の意を察するのに巧みで親昵を得た。高祖の臨終に際し「後事は何稠に委ねる」と太子に語られた。
- 大業初、煬帝の揚州行幸に際し儀仗・車輿輦輅・皇后鹵簿・百官儀服の造営を命じられ、工十万余人・巨億の金銀を用いて完成させ、誤差はなかった。皮弁に象牙簪導を加える等、古制を今に合わせて多くの改創を行った(五輅の箱を広げ君臣の座を分けたことなど)。守太府卿、兼領少府監。遼東の役では右屯衛将軍として弩手三万を統率し、宇文愷が失敗した遼水橋を2日で完成させ、六合城を一夜で築いて高麗を驚嘆させた。金紫光禄大夫、のち左屯衛将軍。
末路
- 大業十二年、右光禄大夫として江都に扈従。宇文化及の乱後は工部尚書、竇建德に降っても同官・舒国公。建德の敗北後、大唐に帰順し将作少匠となり卒した。
劉龍――附伝
- 開皇の頃の人。河間出身、明敏で巧思があり、北斉の後主の命で三爵台を修めて重用された。高祖の受禅後も重用され右衛将軍・将作大匠。遷都に際し高熲と共に制度を掌り「能」と称された。
黄亙・亙弟袞――附伝
- 大業の頃の人物で出自不詳。ともに巧思絶人。煬帝は兄弟に少府・将作の直務を命じ、何稠の指示のもとで模型(様)を立てる役を務め、工人たちもその技を称えた。黄亙は朝散大夫、黄袞は散騎侍郎に至った。
史論
史臣曰く(要約)――宇文愷は学芸を兼備し班固・爾朱榮に匹敵する巧思を持ち、当時の制度は皆その規範に拠った。仁寿宮の造営・洛邑の建設は帝の意に迎合し窮奢極侈を招き、文帝の失徳・煬帝の亡国の一因ともなった。一方『明堂図』の考証は見識に富む。閻毗・何稠も巧思人に過ぎ旧事に通じ、一代の文物を成したが、華美に流れた点もあり、それでも後世に伝えるべきものがある。