出自と東宮における寵遇
- 榆林盛楽の人。祖閻進は魏本郡太守、父閻慶は周上柱国・寧州総管。7歳で石保県公(食邑千戸)を襲封。儀貌厳粛で経史を好み蕭該に『漢書』を学んだ。篆書・草隷に巧みで画も当代随一と評された。周武帝に見出され清都公主を娶った。宣帝の代に儀同三司・千牛左右。高祖の受禅後、技芸で東宮に仕え皇太子の寵遇を受けた。太子服玩の多くを毗が製作。太子廃立に連座し杖百・官奴婢に落とされたが2年後赦免された。
煬帝下での輿服・工事の統括
- 煬帝即位後、軍器の整備を巧思により統括し朝請郎。輦輅車輿の増減を建議(詳細は『輿服志』)し起部郎に抜擢。帝が属車の数を秦・漢・宋の故実に照らして減らすことを相談した際、毗は漢制36乗・宋制12乗の典拠を示し、帝は大駕36・法駕12・小駕は廃止と決めた。
- 長城の役を統括、恒嶽祭祀の壇場造営を担当。殿内丞として張掖郡に扈従、高昌王入朝時の接待、洛口から涿郡への漕運路開削(遼東の役の準備)を督した。右翊衛長史として臨朔宮造営、遼東征討では武賁郎将として宿衛、遼東城下で帝の宣諭を伝える役を果たし、矢の飛来にも動じなかった。朝請大夫・殿内少監・将作少監を歴任。楊玄感の乱後、逃亡した斛斯政を追撃したが及ばず、高陽への従軍中に急死した(50歳)。帝は深く悼み殿内監を贈った。