隋書卷六十七 列傳第三十二 裴蘊

出自と入隋の経緯

  • 河東聞喜の人。祖裴之平は梁の衛将軍、父裴忌は陳の都官尚書で呉明徹とともに周に没し江夏郡公を賜り、隋で十余年生きて没した。裴蘊は明弁で吏才があり、陳で直閣将軍・興寧令を歴任。父が北にいることから密かに高祖に上表し内応を約した。
  • 陳平定後、高祖が江南の士人を閲する際、蘊を早くから帰順の志ありとして儀同を授けた。左僕射高熲の反対にも関わらず上儀同、さらに開府儀同三司まで進んだ。洋・直・隷三州刺史を歴任し能吏として名を得た。大業初、考績で連続最高評価を受け、太常少卿に召された。

楽戸の設置と戸口の括り出し

  • 高祖は音楽を好まず牛弘に整理させ、正声清商・九部四儛以外は民間に還していた。裴蘊は帝の意を察し、周・斉・梁・陳の楽家子弟を楽戸として括り出すよう奏し、六品以下から民庶に至る音楽芸能者を太常に直属させ、楽人は三万余に増えた。帝は大いに悦び、民部侍郎に遷った。
  • 当時、高祖の緩やかな治世の名残で戸籍に漏れが多く、成丁を偽って若く申告する者が多かった。蘊は刺史の経験からこれを知り、実地の容貌検査を各郡に命じ、実態と違えば官司を解任、郷正・里長を遠流に処す制度を奏請、告発による代納制度も設けた。大業五年、諸郡の計帳で二十四万三千の進丁、六十四万一千五百の新附口を得、帝は「裴蘊一人の心がけによる」と百官の前で称賛した。京兆賛治に抜擢され、吏民は畏懼した。

御史大夫としての権勢

  • まもなく御史大夫に抜擢され、裴矩・虞世基とともに機密を掌握した。帝の意を察して法を曲げ、罪を重くも軽くもし、大小の裁判を一手に握った。楊玄感の乱後、帝の意を汲んで峻法で処理し、数万人を誅殺、家産を没収した。司隷大夫薛道衡が帝の不興を買った際は「無君の心あり」と讒言し道衡を誅殺させた。
  • 蘇威が遼東再征に反対する際、皮肉交じりに「群盗を招募すれば数十万を得られる」と答えたのを、蘊は「不遜だ」と讒言し、蘇威とその子・孫の三代を除名に追い込んだ。さらに自らの権勢を強めるため、世基を通じて司隷刺史以下の官属を廃し御史百余人を増置させ、党与を結んで郡県を圧迫した。軍国の事、興師動衆・京都留守・諸蕃との互市にすべて御史を監督させ、賓客が郡国に遍在して百姓を侵擾したが帝は知らなかった。渡遼の功で銀青光禄大夫。
  • 司馬徳戡の反乱計画を知った江陽長張惠紹が夜駆けで告げると、蘊は詔を偽って郭下の兵民を発し来護兒の指揮権を奪い宇文化及らを捕縛する計画を立て、虞世基に報告した。しかし世基は反乱の情報を疑い抑えた。まもなく変が起こり、蘊は「謀りごとが播郎(虞世基)に及んで事を誤った」と嘆き殺害された。子の裴愔も同日に死んだ。