隋書卷六十七 列傳第三十二 裴矩
裴矩、字は弘大、河東聞喜の人。北斉・北周を経て隋に仕え、討陳の役や嶺南の乱平定で功を挙げた。西域交易の実務を掌り商胡から聞き取った知見をもとに『西域図記』を撰して煬帝に西域経略を委ねられ、東都での盛大な蕃夷饗応や高麗入朝策の進言で寵遇を得た。皇綱が乱れた世にあっても清廉を保ったと評されたが、突厥の始畢可汗を欺いた離間策は破綻し、煬帝の信望を損ねる一因ともなった。隋末は宇文化及・竇建德に相次いで仕えたのち、山東の地を挙げて唐に帰順した。
出自と陳平定後の功
- 字は弘大、河東聞喜の人。祖裴他は魏の都官尚書、父裴訥之は斉の太子舎人。幼くして孤児となったが学を好み、伯父裴讓之に世務への関心を勧められた。斉北平王貞の司州牧の下で兵曹従事、高平王文学を歴任。斉滅亡後、高祖の定州総管府記室に召され、母の喪を経て相府記室事、隋の受禅後は給事郎・奏舎人事となった。
- 伐陳の役で元帥記室として従軍、丹陽陥落後は高熲とともに陳の図籍を接収した。翌年、嶺南巡撫の詔を受けたが高智慧・汪文進の乱で道が閉ざされる中、矩は進軍を志願し、南康で兵数千を得た。俚帥王仲宣に囲まれた東衡州を大将軍鹿願と共に救援し、九柵を破って賊を退け、原長嶺でも賊を破って周師舉を斬り、広州を援けた。二十余州を綏撫し渠帥を刺史・県令に任じた。帰還後、高祖は大いに称え、開府・聞喜県公・物二千段を賜った。のち民部侍郎、内史侍郎。
突厥・西域経略と『西域図記』
- 突厥の都藍可汗の妻大義公主(宇文氏の女)が辺境を脅かした際、裴矩は都藍を説き公主を誅殺させた。都藍と突利可汗の抗争では史万歳の行軍長史として塞外で達頭可汗を破ったが、万歳が誅殺されたため功は記録されなかった。啓民可汗の撫慰を経て尚書左丞。文献皇后の喪の儀注を牛弘と参定し、吏部侍郎に転じ職務に称った。
- 煬帝即位後、東都造営の府省事務を九旬で完成させた。西域諸蕃が張掖で交易する事務を掌り、商胡から国情を聞き取って『西域図記』三巻を撰し奏上した。その序文(要約):西域四十四国の風俗・山川・道程を記し、敦煌から西海に至る北・中・南三道の経路を示し、隋の威徳による西域招撫の意義を述べたもの。帝は大いに悦び物五百段を賜り、日々西方の事情を尋ねた。矩は吐谷渾併呑を勧め、帝は西域経略を全て委ねた。
- 黄門侍郎に転じ、張掖で西蕃十余国を朝貢させ、大業三年恒嶽の祭祀に諸国を参列させた。帝の河右巡幸に際し高昌王麹伯雅・伊吾吐屯設らを入朝させ、燕支山で西蕃胡二十七国を謁見させる盛儀を演出した。吐谷渾を破って版図を広げ、蕃国の朝貢が続いたことから銀青光禄大夫に進んだ。
東都の饗宴演出と対突厥・高麗策
- 矩は蛮夷朝貢者の歓心を得るため、東都で大規模な芸能披露と市場の饗応を演出し、蕃夷は中国を「神仙」と称えた。帝は「裴矩は朕の意を深く理解する」と宇文述・牛弘に語った。将軍薛世雄の伊吾築城に同行し、反間策で処羅可汗を射匱可汗に討たせた(詳細は『突厥伝』)。処羅は後に入朝し、帝は貂裘・西域珍器を賜った。
- 帝の塞北巡幸で啓民可汗の帳を訪れた際、高麗の使者が先に突厥に通じていたことを知り、矩は「高麗の地は本来孤竹国で中国の郡県だった」と奏し、高麗王に入朝を促す策を進言、これが遼東征討の発端となった。武賁郎将として遼東の役に従軍、兵部侍郎斛斯政の高麗亡命後は兵事も兼掌した。渡遼の功で右光禄大夫。当時皇綱が乱れ賄賂が横行する中、矩は清廉を保ち世に称された。
突厥離間策と煬帝末期の混乱
- 楊玄感の乱後、隴右安撫にあたり吐谷渾を撃たせ部落を富ませた。始畢可汗の勢力拡大を恐れ、その弟叱吉設を南面可汗に立てようとしたが拒否され、始畢の怨みを招いた。矩はさらに始畢の側近史蜀胡悉を偽りの交易話でおびき出し馬邑で誘殺、始畢には「胡悉が背いたので誅殺した」と偽って報告したが、始畢はこれを見破り朝貢しなくなった。
- 大業十一年、始畢に雁門で包囲された際、矩は虞世基とともに宿直して帝を補佐した。江都行幸後、四方の盗賊蜂起の報告で帝の怒りを買い、京師への使者を病と称して辞退した。義兵が関中に入ると、矩は「太原の変事は遠隔操作では失機する、鑾輿の帰還こそ肝要」と進言した。屈突通敗北の報を伝えると帝は色を失った。矩は謙虚に人心を得ることに努め、驍果の脱走を憂う帝に「江都滞在が長く独身の兵士が多いため妻を娶らせるべき」と進言、江都の寡婦・未婚女性を集めて兵に配し、驍果は喜んで「裴公の恩」と称えた。
宇文化及・竇建德下での晩節
- 宇文化及の乱の朝、矩は逆党に馬を捕えられたが「裴黄門には関わるな」と害されず、化及に迎えられ儀注制定を担い、秦王浩の擁立に加わり侍内となった。化及の称帝後は尚書右僕射・光禄大夫・蔡国公・河北道安撫大使。
- 宇文氏敗北後、竇建德に捕らえられたが隋の旧臣として厚遇され、吏部尚書、のち尚書右僕射として選事を専掌した。朝儀を制定し憲章を整えた。建德が孟海公討伐に赴いた際、矩は洺州で曹旦らと留守。建德が武牢で敗れると、曹旦の長史李公淹・唐の使者魏徴らの勧めで曹旦・斉善行らとともに帰順を決し、矩は八璽を奉じて山東の地を大唐に帰した。左庶子、詹事・民部尚書に転じた。
史論
史臣曰く(要約)――虞世基は雅淡と文才で知られ亡国の身から重用されたが、国が危うくとも安泰を思わず、君が昏乱しても諫めず、官職を売り財貨を貪って身を滅ぼしたのは自業自得である。裴蘊は元来奸険で追従に巧みで、威福をほしいままにし利のみを図ったため滅亡は免れなかった。裴矩は経史に通じ有能で、勤勉さは古人にも稀なほどで、危乱の中でも廉謹の節を欠かなかったのは美点である。しかし帝の意向に迎合し、高昌の入朝・伊吾の献地・且末への糧食輸送・玉門関からの出師を招いたことは、関右の騒乱の一因ともなった。