出自と陳における仕官
- 字は茂世、会稽余姚の人。父虞荔は陳の太子中庶子。幼くして沈静、喜怒を色に出さず、博学高才で草書・隷書にも長じた。陳の中書令孔奐は「南金の貴、この人にあり」と評した。少傅徐陵もその名を聞いて召し、後に面会して感嘆し弟の娘を娶らせた。
- 陳に仕え建安王法曹参軍事から祠部・殿中の二曹郎、太子中舎人を歴任、のち中庶子・散騎常侍・尚書左丞。陳主の命で「講武賦」を作り披露した。内容は文武兼備の統治を讃え、狩猟を通じた武備の充実と太平の盛儀を賦したもので、陳主は喜び馬一匹を賜った。
陳滅亡後の不遇と文才
- 陳滅亡後、通直郎・直内史省となったが貧しく、代筆で親を養う日々を鬱々と過ごした。五言詩に思いを託し、その哀切な詩は世に工とされた。まもなく内史舎人。
煬帝下での栄達と専権
- 煬帝の即位後、寵遇はいよいよ厚くなった。礼部尚書柳顧言も「海内が推すべきはこの人のみ」と嘆じた。内史侍郎に進んだが母の喪で辞職、哀毀骨立の様子を見た帝は肉食を勧め、慰留を重ねた末に復職させた。
- 帝に重んじられ機密を専掌し、納言蘇威・左翊衛大将軍宇文述・黄門侍郎裴矩・御史大夫裴蘊らと朝政を分掌した。天下多事で日々百通の上奏があったが、世基は口授を受けて敕書を書き誤りがなかった。遼東の役で金紫光禄大夫。雁門で突厥に包囲された際は賞格を厚くするよう進言し、帝は遼東再征停止の詔を出したが、包囲が解けると論功行賞を行わず再度遠征の詔を出したため、帝が民を欺いたとの非難が広がり朝野の心が離れた。
保身と盗賊情報の隠蔽
- 江都行幸中、鞏県で盗賊の激化を理由に洛口倉への駐屯を進言したが帝に退けられ「書生だから臆病なのだ」と言われた。高熲・張衡の誅殺を見て禍を恐れ、以後は唯々諾々として帝の意に逆らわなくなった。
- 盗賊が激化し郡県の陥落が相次いだが、世基は帝が悪い報せを嫌うのを知り、敗報を抑えて実情を伝えなかった。太僕楊義臣が河北で数十万の賊を降した際も、義臣の兵権を危険視して兵を解散させるよう進言した。越王侗の使者元善達が、李密の勢力と洛口倉陥落・食糧危機を涙ながらに訴えた際も、世基は「越王はまだ幼くこの輩に欺かれている」と取りなし、帝は激怒して善達を東陽への使者に出し、善達は道中で盗賊に殺された。以後、誰も帝に実情を上奏しなくなった。
家族と最期
- 容貌沈着で言葉が帝の意にかない、朝臣で並ぶ者がなかった。継室孫氏は驕慢淫奢で、世基はこれに溺れ奢侈を極めた。孫氏の連れ子夏侯儼が邸に入り込み蓄財を担い、官職売買・賄賂が公然と行われ、金宝が門前に満ちた。弟の虞世南は清貧な国士だったが恩恵を受けられず、世人は世基を非難した。
- 宇文化及の反乱で殺害された。長子虞肅は才藝あったが弱冠で早世。子虞熙は大業末に符璽郎、次子虞柔・虞晦はともに宣義郎。化及の乱の夜、宗人虞伋が虞熙に南へ逃れるよう勧めたが「父君を捨て背いて生を求められようか」と拒絶し訣別した。変が起こると兄弟は先を争って死を望み、行刑者はまず世基を殺した。