隋書卷六十六 列傳第三十一 房彥謙

北斉での治績

房彥謙、字は孝沖。清河の名家の出。幼くして父を失い母兄に養われ、長兄彥詢に才を見出され、7歳で数万言を暗誦した。15歳で叔父の養子となり継母への孝、伯父樂陵太守豹への忠勤で知られた。博士尹琳に師事し五経に通じ、文章・草隷にも長けた。18歳で広寧王孝珩に斉州主簿として登用され清簡な統治で州境を粛然とさせた。北周の鄴侵攻後、齊州治中として忠義を糾合しようとしたが果たせず、斉滅亡後は帰家。北周刺史辛遵が賊帥輔帶劍に捕らわれた際、書簡で説得し帯剣を降伏させた。高祖受禅後は仕える意志がなかった。

隋朝での治績と考課論

開皇7年、刺史韋藝の推薦でやむなく出仕、承奉郎から監察御史。陳平定後、泉・括等十州の安撫使として功を挙げ賜物を得、秦州総管録事参軍として、高熲の考課制定に「褒貶の基準が曖昧で清介な者が評価されず佞巧な者が高評価を得る弊」を説く長論を展開し高熲を感嘆させたが、上(高祖)には用いられなかった。長葛令として惠政を敷き「慈父」と慕われ、仁壽中の巡察で天下第一の評価を受け鄀州司馬に抜擢、離任時は民が号泣し頌徳碑が立てられた。

張衡への諫書と晩年

薛道衡・張衡ら当代の名士と親交が深く、漢王諒の乱で連座者が多く出たことに対し、張衡が正すべき立場にありながら匡救しないことを憂い、賞罰は身分によらず公平であるべきこと、楊諒の反乱の実情を精査し情状酌量すべきこと、斉・陳滅亡の教訓(骨鯁の臣を用いず讒佞を近づけた)を説く長文の諫書を送った。衡は嘆息したが奏上しなかった。彥謙は王綱の乱れを見て隠棲を志したが司隷官設置の際に司隷刺史として召され、推挙・弾劾に私心なく、司隷別駕劉灼の横暴にも屈しなかった。大業9年、遼東遠征に扶餘道軍を監し従軍、隋政が乱れる中でも節を曲げず、忌まれて涇陽令に出され、まもなく69歳で卒去した。清貧を貫き俸禄は親友の救済に充て「子孫に遺すのは清白のみ」と語った逸話が伝わる。開皇年間、平陳後の太平を予見する世評に対し「主上は猜忌深く諫言を容れず、太子は弱く諸王は威を恣にしている、天下は表面上安定していても危乱を憂うべき」と趙郡の李少通に語り、その予言は仁壽・大業年間に的中した。子は房玄齡。唐代に徐州都督・臨淄県公を追贈され諡は定。

史論

史臣曰く、大廈の構築は一本の木では成らず、帝王の功業は一人の士の智略では成らない。長短それぞれに用があり大小それぞれに宜があり、小さな棟木も棟梁も共に捨て難い。李諤らは文をもって義を遵う者、才をもって時を幹す者と、それぞれの識見・才用は当代に顕れ、その事蹟は台閣に留められた。隋の多士に照らせば、彼らは物を開き務めを成す者たちであり、いずれも廟堂の垂木であり、また北辰を巡る衆星のような存在であった。