隋書卷六十三 列傳第二十八 衛玄
出自と北周での経歴
衛玄、字は文升。河南洛陽の人。祖の悅は魏の司農卿、父は侍中・左武衛大将軍。若くして器識あり、周武帝の藩邸時代から記室として登用され、益州総管長史を経て開府儀同三司・太府中大夫・京兆尹を兼ね強済と称された。宣帝時代、忤旨で免官。高祖作相の頃、熊州事を検校、和州蛮の乱を平定した。
地方官としての善政と隋朝末期の活躍
高祖受禅後、淮州総管・同軌郡公に進むも事あって免官、嵐州刺史・長城監督・朔州総管を歴任。仁壽初、山獠の乱で資州刺史として単騎で賊営に赴き安撫、10余万口の帰順を得て高祖に絹2千匹を賜り遂州総管・剣南安撫となった。煬帝即位後、衛尉卿に復し、夷獠が数百里にわたり慕って見送るほどの信頼を得た。工部尚書、魏郡太守を経て右候衛大将軍・検校左候衛事、刑部尚書、遼東の役では検校右禦衛大将軍として全軍を保って帰還、金紫光禄大夫。京兆内史として代王侑と共に京師留守を委ねられた。
楊玄感討伐
楊玄感が東都を包囲した際、玄は7万の兵で援軍に向かい、途中楊素の墓を暴いて骸骨を焼き決死の覚悟を示した。函谷関を越え北道から攻め、高祖の霊に必勝を誓う祭文を捧げて三軍を感涙させた。玄感の猛攻に苦戦し死傷者は半数に及んだが、宇文述・来護児らの援軍到着で玄感は西走、閿郷で追撃し合撃して破った。帝は「社稷の臣」と称え右光禄大夫、玉麟符を賜り千兵を特に付され京師守備を委ねられた。晩年、盗賊蜂起と饑饉に十分対処できず官紀は乱れ賄賂が横行、老齢を理由に辞去を願うも帝は封德彝を遣わして慰留した。義軍が関中に入ると城を守れぬと悟り病と称して政務を執らず、城陥落後は帰家、義寧中に77歳で卒去した。子の孝則は通事舍人・兵部承務郎で早世した。