隋書卷六十三 列傳第二十八 劉權
出自と隋朝への出仕
劉權、字は世略。彭城豐の人。祖の軌は斉の羅州刺史。俠気があり信義を重んじ、後に学問を修め法度を守った。斉に仕え奉朝請・行台郎中を経て、斉滅亡後は北周武帝の仮淮州刺史。高祖受禅後、車騎将軍として郷兵を領し、晋王広の平陳に従って開府儀同三司、賀若弼に厚遇された。開皇12年、蘇州刺史・宗城県公。江南平定直後の民情を恩信で治め民和を得た。
辺境経営と南海太守としての最期
煬帝嗣位後、衛尉卿・銀青光禄大夫。大業5年、吐谷渾討伐に伊吾道から従軍し青海まで追撃、伏俟城まで進んだ。帝は権に曼頭・赤水を経由させ河源郡・積石鎮を置かせ屯田を大興、5年間辺境に留まり諸羌を懐柔し貢賦を安定させた。司農卿・金紫光禄大夫を経て南海太守。赴任途中、鄱陽で群盗蜂起に遭い、単舸で賊営に赴き利害を説いて降伏させた。南海では善政を敷いたが再度の群盗蜂起の際は豪帥に推された誘いを固辞して守りを固め、子の世徹が謀反を勧める書を送ってきても使者を斬り応じなかった。任地で70歳で卒去した。世徹は倜儻な人物で大業末の群雄割拠で各地に忌まれ、兗州賊帥徐圓朗に殺された。權の従父弟の烈、字は子将は容儀に優れ器局あり鷹揚郎将に至った。子の德威は世に知られた。
史論
史臣曰く、樊子蓋は幹局に優れ厳敏な性格で義を見て勇み機に臨んで断じ都邑を保全した功は大きい。楊諒の反乱に史祥は独力克服の功を、群盗の侵擾に楊義臣は三度の勝利の功を挙げ、いずれも当代に名を轟かせ後世に伝わる者である。元壽は劉行本を弾劾し名教を存する志を持ったが、その功績は楊義臣に及ばぬのに端揆(尚書右僕射)の贈官は過分ではないか。衛文升は東都解囲に功があったが西京留守では賄賂が横行し、実に見劣りする。劉權は淮楚の旧族として早くに武名を挙げ、乱世に南海の地にありながら子の邪な誘いを拒み野心を持たなかった点は、勤王の謀には及ばぬまでも節を守った士と言えよう。