隋書卷六十一 列傳第二十六 郭衍
出自と北周での軍功
郭衍、字は彦文。太原介休の人と称する。父は舎人として魏武帝に従って関中に入り、後に侍中に至った。衍は若くして驍武で騎射に優れ、北周の陳王純に用いられ大都督に累進。斉がまだ平定されない頃、天水で募兵し東境鎮守に当たり千余家を陝城に屯させた。使持節・車騎大将軍・儀同三司を拝命し、たびたび寇を撃退して斉人に恐れられた。建徳年間、周武帝の斉討伐に前鋒を志願、河陰城攻めで儀同大将軍を授かり、晋州の攻囲では陳王を守り千里徑を固め、武帝の斉主との大戦にも従い高壁まで追撃、并州平定にも功があり開府・武強県公に叙され姓を叱羅氏と賜った。
尉迥の乱から隋朝への出仕
尉迥の乱では韋孝寬に従い武陟・相州で戦い、迥の甥の勤・子の惇と祐らが青州へ逃れようとするのを精騎千で追撃、祐を捕らえ、済州・済北でも残党を撃破して京師に送った。上柱国・武山郡公に進み物7千段を賜った。高祖に周室諸王の誅殺と禅代を密かに勧め深く信任された。開皇元年、旧姓の郭氏に復した。突厥防衛のため平涼に屯し、開漕渠大監として渭水を引く運河(富民渠)を開削、瀛州刺史では洪水の被害民を舟で救い、先に倉を開いて賑恤してから上奏したことを高祖に称賛され朔州総管に選ばれた。恆安鎮で屯田を興し民の転輸の労を免じ、桑乾鎮も築いて称賛された。開皇10年、晋王広に従い揚州に出鎮、江表反乱の際は総管として京口に先駐、貴洲南で敵を破り舟楫糧儲を得て東陽・永嘉・宣城・黟・歙の諸洞を平定、蔣州刺史に任じられた。
晋王擁立への加担と晩年
衍は目上には尊大で目上には諂う性格であったが晋王に寵愛され、洪州総管に転じた。晋王の奪宗の謀に加担し、衍は「事が成れば皇太子擁立の功、成らずとも淮海に拠って梁陳の旧を復せばよい」と喜んだ。晋王は妻の病を口実に衍夫妻を江都へ招き密議を重ね、桂州の反乱を偽って晋王に討伐の兵権を得させ甲仗を修め兵を養った。晋王立太子後、衍は左監門率・左宗衛率に転任。高祖崩御の際、太子と楊素は詔を矯め衍と宇文述に東宮兵で上台の宿衛を固めさせ門禁を握らせた。高祖崩御後、漢王諒の反乱で京師が手薄になると衍は急ぎ帰還し兵を統べて守った。大業元年、左武衛大将軍。帝の江都行幸で左軍を統べ光禄大夫に改任、吐谷渾討伐にも従い金山道から2万余戸を降した。衍は帝の意を巧みに察し阿諛順旨に努め、帝は「郭衍だけは朕と心を同じくする」と評した。また政務を5日に1度とし高祖のような勤勉を戒める進言をし帝の孝順を称された。大業6年、恩幸により真定侯。7年、江都に従い卒去。左衛大将軍を追贈され諡は襄。長子の臻は武牙郎将、次子の嗣本は孝昌県令。
史論
史臣曰く、正義を貫くのは臣下の高節、和して同ぜぬのは君に仕える常道である。宇文述・郭衍は水に水を注ぐがごとく、へつらいと追従で人の意を迎え、君の言うことに是非なく従い、可も不可も己の判断を持たなかった。默って高位に安住し禄を貪る者は、君子の為さぬところであり、左丘明もまた深く恥じたところである。