隋書卷六十一 列傳第二十六 宇文述
出自と北周での立身
宇文述、字は伯通。代郡武川の人。本姓は破野頭で、鮮卑の俟豆歸に隷属した後、その主に従って宇文氏を名乗った。父の盛は北周の上柱国。述は若くして驍勇で弓馬に長じ、11歳のとき人相見に「後年必ず人臣を極める」と評された。北周武帝の代、父の軍功により開府を授かる。恭謹沈密な性格で、大冢宰の宇文護に愛され本官のまま護の親信を領した。武帝親政後は左宮伯に召され、英果中大夫を経て博陵郡公、のち濮陽郡公に改封された。
北周末から平陳までの軍功
楊堅(高祖)が丞相のとき、尉迥が相州で反乱を起こすと、述は行軍総管として歩騎3千を率い韋孝寬に従って討伐に加わり、河陽で迥配下の李俊軍を破り、永橋で尉惇軍の先鋒として陥陣した。功により上柱国、褒国公に進み、絹3千匹を賜った。開皇初年、右衛大将軍。平陳の役では再び行軍総管として3万を率い六合から渡江、韓擒・賀若弼の両軍を後援するため石頭に進駐した。陳滅亡後、蕭瓛・蕭岩が東呉の地に拠って抵抗すると、述は元契・張默言らを率い水陸から討伐、落叢公燕榮の水軍も指揮下に置いた。高祖は詔を下し述の功を讃えた。蕭瓛は晋陵城東に柵を築き述を防いだが、述はこれを破り、瓛の司馬曹勒叉を斬った。前軍は呉州も陥落させ、瓛は包山に退いたところを燕榮に撃破された。奉公埭まで進むと蕭岩・陳君範らが会稽をもって降伏、呉会の地は平定された。功により子の一人が開府を授かり、物3千段を賜り、安州総管を拝命した。
晋王擁立の謀
晋王楊広が揚州鎮守のとき述を近づけようとし、壽州刺史総管に奏請した。晋王が密かに太子廃立を望み述に策を問うと、述は「太子は既に人望を失って久しく、大王は仁孝と才能で天下の望を集めているが、廃立を動かせるのは楊素のみ、その弟の楊約を通じて図るべき」と献策した。晋王は多くの金宝を述に持たせ入京させた。述は約と博打を装って毎回わざと負け、賜った金宝をことごとく約に渡した。約が受け取った礼として述に謝意を示すと、述は晋王の意を伝え、約はこれを是とし兄の楊素に取り次ぎ、楊素も同調した。以後、楊素と述は謀を共にした。晋王は述への信頼をいよいよ厚くし、述の子の士及に南陽公主を娶らせるなど賞賜は計り知れなかった。晋王が皇太子になると述は左衛率に任じられ、通例四品の官を高祖が特に三品に進めるほど重んじられた。
煬帝朝の寵遇と吐谷渾遠征
煬帝即位後、左衛大将軍・許国公に改封。大業3年、開府儀同三司を加えられ、朝会ごとに鼓吹一部を賜った。榆林行幸に従駕したとき、鉄勒の契弊歌棱が吐谷渾を破り、その部が離散して降伏を求めてきたため、述は西平の臨羌城に屯して撫納に当たった。吐谷渾は述の大軍を恐れて西へ逃げたため、述は鷹揚郎将梁元礼・張峻・崔師らを遣わして追撃、曼頭城・赤水城を陥落させ3千余級を斬り、丘尼川でも大破して王公・尚書・将軍200人と男女4千人を捕虜とした。渾主は雪山へ逃走し旧地は空となり、帝は大いに喜んだ。翌年の西幸にも従い、金山・燕支に至るまで斥候を務めた。江都宮に戻ると蘇威とともに選挙・朝政に参与するよう命じられ、蘇威以上に帝の親愛を受けた。帝から下賜される遠方の貢物や四時の珍味は絶えず、述は取り入りに巧みで巧思にも優れ、奇服異物を献じて帝をますます喜ばせた。権勢は朝廷に傾き、左衛将軍張瑾でさえ述に叱責されて逃げ去るほどであった。しかし貪欲な性格で、富商や隴右の胡人の子弟を「兒」と呼んで取り入り、金宝を蓄え、後庭には数百人、家僮千余人を抱えるほどの富貴を極めた。
高麗遠征の敗北と楊玄感討伐
高麗遠征では扶餘道軍将となった。鴨緑水に至り糧食が尽きたため班師を議したが、乙支文德が来営した際、述は于仲文とともに密かに文德を捕えるよう命じられていたが手緩め逃げられてしまい(詳細は于仲文伝)、述は不安から諸将と共に渡河して追撃した。文德は述の軍中に飢えの色が多いのを見て疲弊を誘い、毎戦わざと敗走した。述は一日に七戦して全勝したため驕り、また群議に押されて進軍、薩水を渡り平壌城まで30里に迫り布陣した。文德が偽って降伏を申し出ると、士卒の疲弊と平壌の堅固さを考え、述は退却を決めた。渡河の半ばで敵の後軍への攻撃を受け大潰走、九軍は敗れ一昼夜で400里以上を退いた。渡遼時30万5千だった兵は遼東城に帰り着いたとき2700人のみであった。帝は激怒し述らを収監、東都で除名され庶人となった。翌年帝が再度遼東に事を起こすと官爵を復し以前のように待遇、遼東で楊義臣とともに鴨緑水に迫った。楊玄感の乱が起こると帝は述を召還し河陽へ急行させ諸郡の兵を発して玄感討伐に当たらせた。玄感は述軍の接近を恐れ関中を目指して西走、述は衛玄・来護児・屈突通らと追撃し、閿郷の皇天原で玄感軍に追いつき、述と来護児が正面から、屈突通が奇兵で背後から挟撃して大破、玄感を斬り首を行在所に送った。物数千段を賜り、再び東征に従軍し懐遠まで進んで帰還した。
雁門の変から晩年の死まで
突厥が雁門を包囲したとき、帝は恐れ述は囲みを破って脱出することを進言したが樊子蓋の諫めで中止した。囲みが解けた後、群臣は帝に京師帰還を勧めたが帝は難色を示し、述は「東都経由で洛陽に入り、潼関から関中へ」と奏し帝はこれに従った。その後さらに述は帝の意を察して江都行幸を勧め、帝は大いに喜んだ。述は江都で病に倒れ、帝が見舞おうとするのを群臣が諫めて止めた。帝は司宮の魏氏を遣わし遺言を問わせたところ、述は罪を得ていた長子の化及の助命を願い、帝は涙して「忘れない」と答えた。述の死に帝は朝を廃して哀悼し、司徒・尚書令・十郡太守を追贈、班劔40人・轀輬車・鼓吹前後部を賜り、諡は恭。裴矩に太牢を供えさせ鴻臚に喪事を監護させた。子の化及には別伝がある。
雲定興――宇文述への取り入り
雲定興は述に取り入った人物。娘が皇太子勇の昭訓であったが勇の廃太子後に除名配流となり、定興は昭訓が得ていた明珠絡帳を密かに述に贈り交遊を深めた。以後も節目ごとに賄賂や音楽で述に取り入った。述が奇抜な服を好むのに乗じ、馬韉の後角に方3寸の切れ目を入れて白色を覗かせる意匠を考案、世の軽薄者が争って真似て「許公缺勢」と呼ばれた。また寒さ対策として耳を覆う裌頭巾を作り「許公袙勢」と呼ばれ、述は大いに喜んだ。後に帝が四夷討伐のため兵器を大増産した際、述の推薦で少府の工匠が定興の指図を受けるようになった。述は定興に官職を求められると「房陵(廃太子勇)の諸子がまだ生きているため長寧兄弟の除去が先だ」と述べ、定興が「殺害を勧めよ」と唆したことから、述は長寧兄弟の処置を奏上し、帝は長寧を鴆殺、以下七弟を嶺表に分配のうえ間使に道中で皆殺しにさせた。大業5年の閲兵で甲仗を帝に賞賛された際、述は「これは雲定興の功」と奏上し、定興は少府丞に抜擢され、以後少監・衛尉少卿・左禦衛将軍・左屯衛大将軍と昇進した。
述の推薦を受けた者は皆高官に至った。趙行樞は太常の楽戸出身で巨万の財を持ち、述を兄と呼んで多くの賄賂を贈り、驍勇を称されて折衝郎将に取り立てられた。