隋書卷六十 列傳第二十五 段文振
段文振、北海期原の人。若くして膂力・胆気に優れ、北周の斉平定戦で崔仲方らと共に晋州城壁を先登した功により重んじられた。尉迥の乱では高祖に帰順し、以後は突厥討伐や嘉州獠の乱平定などで武功を重ねた。剛直な性格で蜀王秀や蘇威との確執から一時除名されたが、煬帝の代に兵部尚書として重用され、突厥の啓民可汗を危険視する諫言を行った。遼東の役に従軍中、病篤くなり出師の急を説く上表を残して軍中で没した。
出自と北周での経歴
- 段文振、北海期原の人。祖父の段壽は魏の滄州刺史、父の段威は周の洮・河・甘・渭四州刺史。文振は若くして膂力があり胆気は人に勝り、剛直な性格で時務に明るかった。初め宇文護の親信となり、護はその実務能力を評価し中外府兵曹に抜擢した。
- のち武帝が斉の海昌王尉相貴を晋州で攻めた際、その亜将の侯子欽・崔景嵩が内応した。文振は槊を杖にして城壁に登り崔仲方らと数十人で先登した。文振は景嵩と共に相貴のもとへ至り佩刀を抜いて脅すと、相貴はあえて動けず、城はついに陥落した。帝は大いに喜び物千段を賜った。文侯・華谷・高壁の三城を進んで攻め落とすのにも力があった。并州を攻める際は東門を陥落させて入城し、斉の安徳王高延宗は恐れて降った。前後の功を記録され高位を授けられようとしたが讒言に遭い譴責され、上儀同を授かり襄国県公(食邑千戸)に封じられるにとどまった。鄴都平定にも功があり綺羅二千匹を賜った。のち滕王逌に従い稽胡を撃破した。相州別駕・揚州総管長史を歴任。天官都上士に召され韋孝寛に従い淮南を経略した。
尉迥の乱と高祖への出仕
- まもなく尉迥が反乱すると、当時文振の老母・妻子はすべて鄴城にいたが、迥が人を遣り誘っても文振は顧みず高祖のもとへ帰した。高祖は丞相掾に引き立て宿衛驃騎を領させた。司馬消難が陳へ奔った際、高祖は文振に淮南を安集させ、帰還して衛尉少卿を拝し内史侍郎を兼ねた。まもなく行軍長史として達奚震に従い叛蛮を討伐し平定、上開府を加えられた。一年余りで鴻臚卿に遷った。
- 衛王楊爽の突厥北征に文振は長史として従ったが、勲簿が実態と合わなかったことに坐して免官された。のち石州・河州の二州刺史となり大いに威恵があり、蘭州総管に遷り龍崗県公に改封された。突厥が塞を犯すと行軍総管としてこれを撃破し磧まで敗走を追撃して帰還した。開皇九年(589年)、大挙して陳を討つ際、文振は元帥秦王の司馬となり別に行軍総管を領した。江南平定後、揚州総管司馬を授かり、まもなく并州総管司馬に転じ母の喪により去職した。まもなく起用されたが固く辞して許されなかった。
突厥討伐と嘉州獠の乱
- 数年後、雲州総管を拝し、まもなく太僕卿となった。開皇十九年(599年)、突厥が塞を犯すと文振は行軍総管としてこれを拒み、達頭可汗と沃野で遭遇しこれを撃破した。文振はかねて王世積と旧交があり、北征の折に世積から駱駝と馬を贈られていたが、帰還後に世積が罪により誅されると文振もこれに連座し功は記録されなかった。
- 翌年、衆を率いて霊州道から出て胡に備えたが虜に遭わず帰還した。越巂の蛮が反乱すると文振がこれを撃平し奴婢二百口を賜った。仁壽初め、嘉州の獠が乱を起こすと文振は行軍総管として討伐に赴いた。軍を率いて谷間に出た折、賊に襲われ前後を険阻に阻まれ互いに救援できず、軍は大敗した。文振は散兵を再び集め、賊の不意を突いてついにこれを撃破した。
- 文振はもとより剛直な性格で誰にも屈しなかった。かつて軍が益州に進んだ際、蜀王秀に謁見した際の態度がかなり不遜であったため、秀はこれを深く恨みに思っており、この機に文振の軍の敗北を上奏した。右僕射蘇威は文振と確執があり、これに乗じて讒言したため、文振は除名された。秀が廃黜されると文振は上表して自ら弁明し、高祖はこれを慰め諭し大将軍を授けた。まもなく霊州総管を拝した。
煬帝への諫言
- 煬帝即位後、兵部尚書に召され厚く遇された。吐谷渾討伐に従い、文振は兵を督して雪山に屯し三百余里にわたって連営、東は楊義臣、西は張壽と接し吐谷渾の主を覆袁川に包囲した。功により右光禄大夫に進んだ。帝が江都に行幸した際は文振に江都郡事を行わせた。
- 文振は高祖の時に突厥の啓民(染幹)を塞内に迎え公主を娶らせ重ねて賞賜したこと、大業初めには恩沢がさらに厚くなったことを見て、狼子野心を恐れ国の禍となることを憂い上表した。上表では、古来「遠は近を間さず、夷は華を乱さず」の道理を説き、周の宣王が戎狄を外に攘い秦の始皇帝が万里の長城を築いたのは遠謀の良策であったと述べ、いま国家が啓民を受け入れ兵糧と地の利を与えているのは、夷狄の本性が親しみなく貪欲で、弱ければ帰服し強ければ噛みつくものであることを考えれば危険であるとし、晋の劉曜・梁の侯景の先例を引いて必ず国の患いとなるだろうと警告した。時機を見て塞外へ送り出し、烽候を明らかに設け辺境の防備を厳重にすることこそ万世の長策であると説いた。また当時兵曹郎の斛斯政が兵事を専掌していたが、文振はその軽薄さを知り機要を任せるべきでないとたびたび帝に進言したが、帝はいずれも聞き入れなかった。
遼東の役での最期
- 遼東の役では左候衛大将軍を授かり南蘇道から出た。道中で病が篤くなり上表した。上表では、自らの庸才が聖世に恵まれ厚遇されながら報いる智略もないままに終わろうとする無念を述べたのち、「遼東の小丑(高句麗)はまだ厳刑に服していないため遠く六師を降し親しく万乗(皇帝)が労を執っている。しかし夷狄は詐りが多く深く防ぐべきである、口では降を陳べても心では背反を懐いており、詭計は多端であるから安易に受け入れてはならない。梅雨の季節が近づいており遅滞は許されない、ただ願わくは諸軍を厳しく督励し星を追うように速やかに出発させ、水陸ともに進んで不意を突けば、平壤の孤城もきっと抜けるだろう。その本根を傾ければ他の城も自ずと下る。もし時を得ず秋の長雨に遭えば艱難は深まり兵糧も尽き、強敵が前にあり靺鞨が後ろから迫れば、遅疑して決せぬことは上策ではない」と説いた。
- 数日後、軍中で卒した。帝はこの表を見て長く悲嘆し、光禄大夫・尚書右僕射・北平侯を追贈し諡を襄とした。物千段・粟麦二千石を賜り威儀鼓吹をもって墓所まで送らせた。子は十人いた。
- 長子の段詮は官が武牙郎将に至った。次子の段綸は若くして俠気で知られた。文振の弟の段文操は大業中、武賁郎将となり性格は甚だ剛厳であった。帝は彼に秘書省の学士を監督させたが、当時の学士たちは儒雅な気風を保っていたにもかかわらず文操はしばしば彼らを鞭打ち、その数は前後で千に及んだこともあり、当時の議論はこれを卑しんだ。
史論
- 仲方(崔仲方)は文武の才を兼ね備え籌算に優れ、陳を討つ策は実に深遠なものであった。声績が挙がったのは決して虚言ではない。仲文(于仲文)は書記に広く通じ英略を自負し、尉迥の乱でついに功名を立てた。それより後もたびたび推轂(将帥)の任に当たったが、遼東の役では師を喪うこととなった。これは大樹が倒れかけたようなもので、必ずしも戦った者の罪ではない。文振(段文振)は若くして胆略で重んじられ終始壮士の志を懐き、常に正直な言を進めては直諫の評を得た。高位厚禄を得たのももっともなことである。