隋書卷五十七 列傳第二十二 李孝貞

出自と北斉での経歴

  • 李孝貞、字は元操、趙郡柏人の人。父の李希礼は斉の信州刺史、代々の著名な家柄。孝貞は若くして学を好み文を能くした。斉に司徒府参軍事として出仕。簡素静粛な性格でみだりに賓客と交わらず、従兄の儀曹郎中李騒、太子舎人李季節、博陵の崔子武、范陽の盧詢祖と断金の交わりを結んだ。のち射策甲科により給事中を拝した。
  • 当時、黄門侍郎の高乾和が親要の権勢を用い孝貞に婚姻を求めたが孝貞はこれを拒んだため確執が生じ、密かに讒言されて太尉府外兵参軍に出された。のち中書舎人・博陵太守・司州別駕を歴任し、さらに散騎常侍・聘周使副を兼ね、帰還して給事黄門侍郎を授かった。
  • 周の武帝の斉平定後、儀同三司・少典祀下大夫を授かった。宣帝即位後、吏部下大夫に転じた。高祖が丞相の時、尉遅迥が相州で反乱すると孝貞は韋孝寛に従い討伐し功により上儀同三司を授かった。

隋への出仕と晩年

  • 開皇初め、馮翊太守を拝したが、廟諱(避諱)に触れるため以後は字(元操)で呼ばれるようになった。数年後、蒙州刺史に遷り吏民はこれに安んじた。以後は文筆に心を留めなくなり、その理由を問われると慨然として「五十の年月はたちまち過ぎ去り、鬢には白髪が垂れ筋力はすでに衰えた、仕官の意欲も文の情熱も一時に尽きてしまった、悲しいことだ」と嘆いた。しかし暇な日には常に賓客を招いて弦歌し酒を酌み交わし終日楽しんだという。
  • 内史侍郎に召され内史の李徳林と共に文翰を参典した。しかし孝貞には煩雑な実務の才がなく治めるに不十分と評され、上に譴責され御史にその事を弾劾させられ、これにより金州刺史に出された。任地で卒した。著した文集二十巻が世に流布した。子に李允玉がいる。
  • 孝貞の弟の李孝威も雅望があり、大業中、大理少卿に至った。