隋書卷五十七 列傳第二十二 盧思道

盧思道、字は子行、范陽の人(生年不明-開皇年間、享年52)。北斉に文才で知られ「八米盧郎」と称された俊才で、周・隋を経て高祖に仕えた文人官僚。操行を保たず人を軽んじたため官途はしばしば停滞し、地方官任中に失意を『孤鴻賦』に、半生の労苦を『勞生論』に託した。

年表(5件)
  • 出自と北斉での文才文宣帝の崩御に際し挽歌十首のうち八首が採られ「八米盧郎」と称される
  • 『孤鴻賦』周の武帝の斉平定後、儀同三司を授けられ長安に召還される
  • 『孤鴻賦』高祖が丞相になると武陽太守に遷り、失意を『孤鴻賦』に寄せる
  • 開皇初め母の老齢を理由に解職を願い出て許され、半生の労苦を『勞生論』に著す
  • 晩年京師で卒す、時に52歳。子の盧赤松は大業中、河東長史に至る

出自と北斉での文才

  • 盧思道、字は子行、范陽の人。祖父の盧陽烏は魏の秘書監、父の盧道亮は隠居して仕えなかった。思道は聡明で機知に富み弁が立ち、洒脱で束縛を嫌う性格であった。
  • 十六歳の時、中山の劉松が人のために書いた碑銘を見せられたが多くを理解できず、これに発奮して門を閉ざして読書し、河間の邢子才に師事した。のち再び文章を作って劉松に見せると、松はやはりよく理解できなかった。思道は「学問の益とは、決して無駄なものではないな」と嘆じ、魏収から珍しい書物を借りて数年のうちに才学ともに著しくなった。ただ操行を保たず人を軽んじ侮ることを好んだ。
  • 斉の天保中、『魏史』がまだ公表されない前に思道はすでにこれを暗誦していたため大いに笞打たれ辱められた。前後たびたび罪を犯し、これにより官途に恵まれなかった。のち左僕射楊遵彦が朝廷に推薦し、司空行参軍・長兼員外散騎侍郎・直中書省として出仕した。
  • 文宣帝が崩じた際、当朝の文士は各々挽歌十首を作り、優れたものが選ばれることになった。魏収・陽休之・祖孝徴らはせいぜい一二首しか採られなかったが、思道だけは八首採られた。世人は彼を「八米盧郎」と称した。
  • のち省中の言葉を漏らして丞相西閤祭酒に出され、太子舎人・司徒録事参軍を歴任したが、任官のたびに譴責を受けることが多かった。のち庫銭を勝手に用いたことで免ぜられ家に帰った。薊北で悵然として感慨し五言詩を作って心情を表し、人々はその巧みさを評した。数年後、再び京畿主簿となり、主客郎・給事黄門侍郎を歴任し文林館で待詔となった。

『孤鴻賦』

  • 周の武帝の斉平定後、儀同三司を授けられ長安に召還され、同輩の陽休之らと『聴蝉鳴篇』を作った。思道の作は詞意が清切で当時の人々に重んじられ、新野の庾信も同作者の中で特にこれを称賛した。
  • まもなく母の病により帰郷したが、同郡の祖英伯や従兄の祖昌期・宋護らが挙兵し乱を起こした際、思道もこれに関与した。周は柱国宇文神挙を遣わし討平させ、思道は死罪に相当したが、神挙はかねてその名を聞いており引き出して露布を書かせた。思道は筆を執るとたちまち完成させ文に添削の要もなかったため、神挙はこれを嘉して赦した。のち掌教上士を授かった。
  • 高祖が丞相になると武陽太守に遷ったが、これは思道の望むところではなかった。その心情を『孤鴻賦』に寄せた。
  • 賦の序では、若くして京師に遊学し名士に知られ虚名を得たものの、才は駑鈍で疎懶な性格で勢利には淡白であったこと、三十年近く朝市に籠絆されながらも独往の心は失わなかったことを述べる。武陽太守として東原(山東)に赴任した折、羅にかかった離群の鴻(雁)を村人から贈られ、これを池庭で朝夕愛でて憂いを紛らわせたという経緯を記し、五十歳を迎えた身の上を重ねて賦に託したと結ぶ。
  • 賦の本文は、清高の気を稟けて遼碣の東に生まれた孤鴻が、霜露を凌ぎ羅網を恐れながら四季を通じ天地を巡る様を描く。彭蠡(鄱陽湖)・洞庭で群れと戯れ、江湖の菁藻や原野の菽粟を食んで悠々と飛翔していた鴻が、ある日羅人の網にかかり籠に囚われの身となる。当初は死を恐れ場を失ったことを恨むが、やがて庭園に馴れて稲粱を与えられるままに過ごすうち、江海への憧れも薄れていく。賦は「いつになったら翼を奮い天空高く舞い上がれるのか、悪禽や小鳥に侮られながら地に留まるのは恥ではないか」と問いかけつつ、図南の大鵬も睫の上に棲む虫も各々天地に性を全うすればよいとし、栄辱を等しく見て君子の余眄を受けて生きる意を述べて結ぶ。籠の鴻に、志を得ぬまま地方官を務める我が身を重ねた寓意の作である。

『勞生論』

  • 開皇初め、母の老齢を理由に解職を願い出て優詔で許された。思道は自らの才と家柄を恃み人を軽んじることが多く、これにより官途は停滞した。さらに時世を風刺する『労生論』を著した。
  • 『荘子』の「大塊は我を生をもって労す」の語を引き、自らの五十年の来し方を振り返り労苦の多い生涯であったとして著したものである。
  • 論は、客が思道の出自の高さ・才の豊かさ・進退の礼を羨む言葉から始まる。思道はこれに対し、自らの生涯が仕官によって本性を失い風波に沈んだ苦労の連続であったこと、家柄の高さゆえに嫌疑を受け、才識の豊かさゆえに凡庸な者に嫉まれ、篤学強記であるがゆえに疎まれ、清弁であるがゆえに訥弁の者に憎まれたことを述べる。斉末の乱世には志を得る場もなく、佞臣が跳梁跋扈する中で禍を招きかねぬ危うさを、羊腸・句注の険路を馬で越え武落・雞田の外で風雨に晒された辛苦になぞらえて語る。
  • 今は隋の泰運が開け賢臣が上下に補佐し合う世となったが、我が身はすでに知命の齢に迫り、退いて田を耕し晨に興き夕に息う野人の楽しみにこそ心を寄せていると述べ、これを羨むかと客に問いかける。
  • 客がさらに他者の心情を問うと、思道は世の乱れた時世に人材が正しく用いられぬ嘆きを述べ、朝には権勢に群がり夕には掌を返す薄情な世相、外面を装いながら内に百の心を抱く士大夫の偽善を痛烈に批判する。一方で、いま真人(高祖)が天下を治め質朴の風が戻り、栄辱をわきまえる時世となったこと、賢臣が内外で文武の教化を広げ、才による登用がなされ阿党比周の輩が一掃されたことを述べ、劣った石が美玉に、雑草が芝蘭に変わるように世が改まったと結ぶ。

晩年

  • 一年余りして召還され、陳の使者を郊労する詔を奉じた。まもなく母の喪に遭い、まもなく散騎侍郎として起用され内史侍郎事を奏した。当時六卿の設置と大理の廃止が議論されていたが、思道は「省に駕部があるのに寺に太僕を残し、省に刑部があるのに寺の大理を廃すれば、これは畜産を重んじ刑名を軽んじることになり、まことに不可です」と上奏した。また殿庭は杖罰の場ではないとし、朝臣の笞罪は贖罪とすべきと述べ、上はいずれもこれを嘉納した。
  • その年、京師で卒した。時に五十二歳。上は大いに惜しみ使者を遣わして弔祭させた。文集三十巻が当時流布した。子の盧赤松は大業中、河東長史に至った。

從父兄・盧昌衡

  • 昌衡、字は子均。父の盧道虔は魏の尚書僕射。昌衡の幼名は龍子、風格は淡雅で立ち居振る舞いは模範とされ、経史に広く通じ草書・行書を能くした。従弟の思道(幼名は釈奴)と共に一族で英才と称され、幽州では「盧家千里、釈奴・龍子」と言われた。
  • 十七歳で魏の済陰王元暉業に太尉参軍事兼外兵参軍として召された。斉の受禅後、平恩令・太子舎人を歴任。まもなく僕射祖孝徴に推薦され尚書金部郎に遷ると、孝徴は常に「私が盧子均を尚書郎に用いたのは、幽州に対して恥じることがない」と語った。のち散騎侍郎を兼ね周の使者を出迎え労った。
  • 武帝の斉平定後、司玉中士を授かり大宗伯斛斯徴と共に礼令を修めた。開皇初め、尚書祠部侍郎を拝した。高祖がかつて群臣を大いに集め各自の功績を陳べさせた際、人々が争って進み出る中、昌衡だけは何も言わなかった。左僕射高熲はこれに目を留め異とした。
  • 陳の使者賀徹・周濆が相次いで来聘した際、朝廷は常に昌衡に応対させた。まもなく徐州総管長史に出て能吏として評判となった。吏部尚書蘇威は彼を「徳は人の表となり、行いは士の則となる」と評し、論者はこれを美談とした。
  • あるとき浚儀に赴く途中、乗っていた馬が他人の牛に触れられて死んだ。牛の持ち主が謝罪し賠償を申し出ると、昌衡は「六畜が触れ合うのは常の理、これは人情の話ではない、なぜ謝る必要があろうか」と拒み受け取らなかった。寛厚で細事にこだわらない性格はこのようなものであった。
  • 壽州総管長史に転じると、総管の宇文述は大いに敬い州務を委ねた。一年余りで金州刺史に遷り、仁壽中、詔により持節して河南道巡省大使を務め、帰還すると使命が旨に適ったとして儀同三司を授かり物三百段を賜った。老齢を理由に骸骨を乞う上表をしたが優詔で許されなかった。大業初め、太子左庶子に召され、洛陽へ赴く途中、道中で卒した。時に七十二歳。子に盧宝素・盧宝胤がいる。