隋書卷五十四 列傳第十九 田仁恭

出自と北周での経歴

  • 田仁恭、字は長貴、平涼長城の人。父の田弘は周の大司空。仁恭は寛仁で度量があった。周に明経で掌式中士として仕え、のち父の軍功により鶉陰子に封じられた。大塚宰宇文護に中外兵曹として引き立てられた。
  • のち数年、父の功によりさらに開府儀同三司を拝し中外府掾に遷った。宇文護の征伐に従い戦功を重ね襄武県公(食邑五百戸)に改封。武帝の斉平定に従い上開府を加えられ淅陽郡公に進封、食邑二千戸を加えられ幽州総管を拝した。宣帝の時、鴈門郡公に進爵。

高祖への出仕と晩年

  • 高祖が丞相になると小司馬を拝し大将軍に進んだ。韋孝寛に従い尉遅迥を相州で破り柱国を拝した。高祖受禅後、上柱国に進み太子太師を拝され厚く重用され、上はその邸宅に行幸し宴飲を極めて禮賜も殊に厚かった。詔を奉じて廟社を営み観国公に進爵、食邑は通算五千戸となった。まもなく右武衛大将軍を拝し、一年余りで任地で卒した。時に四十七歳。司空を追贈され諡は敬。子の田世師が跡を継いだ。次子の田徳懋は「孝義伝」に伝がある。

王景・謝慶恩・辛遵・辛韶

  • 当時、任城郡公の王景、鮮虞県公の謝慶恩は共に官が上柱国に至った。大義公の辛遵とその弟の辛韶は共に官が柱国に至った。高祖は彼らが皆佐命の功臣であることから特に崇貴とし、仁恭らに準じた礼をもって遇した。彼らの事跡の詳細は失われている。