隋書卷五十四 列傳第十九 元亨

出自と苦難の脱出

  • 元亨、字は徳良、一名は孝才、河南洛陽の人。父の元季海は魏の司徒・馮翊王で、周と斉の分裂に際し長安に仕えた。亨はまだ数歳の時、母の李氏と共に洛陽にいた。斉の神武帝は亨の父が関西にいることを理由に彼を禁錮した。
  • 母の李氏は魏の司空李沖の娘で智謀に富み、飢えと寒さを詐って滎陽への移住を願い出た。斉人は関西から遠いことと老婦と幼子であることから疑わず許した。李氏は密かに大豪の李長寿に頼り、亨と孤児となった甥八人を連れて草むらを潜行し長安に至った。周の太祖はこれを見て大いに喜び、亨を功臣の子として厚く遇した。
  • 亨十二歳の時、魏の恭帝がまだ皇太子であった折、交友として招かれた。千牛備身として出仕。大統末、馮翊王を襲爵し食邑千戸を得た。授爵の日、悲しみに堪えられなかったという。まもなく通直散騎常侍に遷り、武衛将軍・勲州刺史を歴任し平涼王に改封された。

北周から隋への出仕

  • 周の閔帝の受禅後、慣例により公に降格された。明帝・武帝の時、隴州刺史・禦正大夫・小司馬を歴任。宣帝の時、洛州刺史となった。
  • 高祖が丞相の時、尉遅迥が反乱すると洛陽の梁康・邢流水らが挙兵して呼応し、十日の間に衆は一万余に及んだ。州の治中王文舒が密かに梁康と結び亨を陥れようとしたが、亨はこれを察知し関中の兵二千を選んで左右に置き、文舒を捕らえて斬り、その兵で梁康・邢流水を襲撃してこれを破った。
  • 高祖受禅後、太常卿を拝し食邑七百戸を加えられた。まもなく衛州刺史に出て大将軍を加えられた。衛の風俗は薄情であったが亨は威厳をもってこれを鎮め、在職八年で風化は大いに治まった。老病により骸骨を乞う上表をすると、吏民は闕に赴いて留任を請う上表をし、上も長く感嘆した。その年、亨は篤疾により重ねて帰京を請い、上は使者を遣わして医薬を送り安否を問うことを絶やさなかった。一年余りで家で卒した。時に六十九歳。諡は宣。