出自と若年
- 史万歳、京兆杜陵の人。父の史静は周の滄州刺史。万歳は若くして英武、騎射に優れ驍捷さは飛ぶが如くであった。兵書を好み占候(占い)にも精通した。十五歳の時、周・斉が芒山で戦った折、父に従って軍にいたが、両軍の旗鼓が向かい合うのを見て左右に急ぎ支度して退くよう勧め、まもなく周軍が大敗したため父はこれを異とした。武帝の時、侍伯上士として出仕。斉平定の役で父が戦死すると、忠臣の子として開府儀同三司を拝し太平県公を襲爵した。
尉迥の乱と敦煌への左遷
- 尉迥の乱に際し万歳は梁士彦に従い討伐した。軍が馮翊に進んだ折、雁が並んで飛んでくるのを見て万歳が「行列の三番目を射てみせよう」と言い射ると弦に応じて落ち、三軍は皆感服した。迥の軍と対峙すると戦うごとに先陣を切り、鄴城の陣で官軍がやや退いた時、万歳は左右に「事態は急だ、私が破ろう」と言い馬を馳せて奮撃し数十人を殺し、軍もこれに力を合わせ官軍は勢いを盛り返した。迥平定後、功により上大将軍を拝した。
- 尔朱勣の謀反に連座し除名され敦煌の戍卒に配せられた。その戍主は驍武で常に単騎で突厥に深入りし羊馬を掠め大きな戦果を挙げていた。突厥は兵の多寡に関わらず彼に敵う者がなく、自負が強く万歳をたびたび罵倒した。万歳はこれを憂い自らも武勇があると告げた。戍主が馳射を試させると巧みであったため「小人でもできるものだな」と笑い、万歳は弓馬を請うて再び突厥に入り家畜を多く得て帰った。戍主は初めて彼を認め、共に行動するたび数百里も突厥領へ入り込み、その名は北夷に轟いた。
- 竇栄定が突厥を撃つ際、万歳は陣門で自薦を願い出た。栄定はその名をしばしば聞いており見て大いに喜んだ。突厥に「士卒に何の罪があって殺すのか、それぞれ一人の壮士を出して勝負を決めよう」と伝えると突厥は承諾し一騎を出して挑戦した。栄定が万歳を出すと万歳は馳せてその首を斬って帰り、突厥は大いに驚き二度と戦わず軍を引いた。これにより上儀同を拝し車騎将軍を領した。平陳の役でも功により上開府を加えられた。
南方の平定
- 高智慧らが江南で乱を起こすと行軍総管として楊素に従い討伐した。万歳は兵二千を率いて東陽から別道を進み嶺を越え海を渡り、無数の渓洞を攻略した。前後七百余戦、千余里を転戦し十旬もの間音信が途絶え、遠近の者は万歳が戦死したと思ったほどであった。万歳は水陸が阻絶し使者が通じないため書を竹筒に入れ水に浮かべ、汲む者がこれを得て楊素に知らせた。楊素は大いに喜びこれを上奏し、高祖は感嘆してその家に銭十万を賜り、万歳は帰還して左領軍将軍を拝した。
- 先立って南寧夷の爨翫が降り昆州刺史を拝されたが、まもなく再び反した。万歳は行軍総管として討伐に赴き、蜻蛉川から入り弄棟を経て小勃弄・大勃弄に進み南中に至った。賊は前後に要害を占拠していたが万歳はことごとく撃破した。数百里を進んだ所で諸葛亮の紀功碑を見つけ、その背に「万歳の後、我に勝る者はここを過ぎよ」と刻まれていたため、万歳は左右に碑を倒させて進んだ。西二河を渡り渠濫川に入り千余里を進み三十余部を破り男女二万余口を捕虜にした。諸夷は大いに恐れ使者を送って降を請い一寸の明珠を献じたため、石に刻んで隋の徳を称えた。万歳は使者を馳せて爨翫を入朝させることを願い出て許された。
- しかし爨翫は密かに二心を抱き入朝を望まず、万歳に金宝を賂って許しを得たため、万歳は爨翫を赦して帰還した。蜀王(楊秀)は益州にいてこの収賄を知り使者を送って捜索させたが、万歳はこれを聞いて得た金宝をすべて江に沈めさせたため何も見つからなかった。功により柱国に進んだ。晋王楊広は謙虚に万歳を敬い交友の礼で遇し、上もその評判を知り万歳に晋府の軍事を督させた。
- 翌年、爨翫が再び反すると、蜀王秀は万歳が賄賂を受けて賊を放置し辺患を生んだと大臣の節に欠けると上奏した。上はこの件を徹底的に調べさせると事実が全て証明され死罪に相当した。上は万歳を責めて「金を受けて賊を放置し士馬を無駄に労した。朕は将士の野宿を思い寝食も安らかでなかった、卿は社稷の臣といえるか」と言うと、万歳は「臣が爨翫を留めたのは、その州に変が起こることを恐れ鎮撫のためです。臣が瀘水に戻った時に詔書が届いたので入朝させなかったのです、実際に賄賂は受けていません」と答えた。上は万歳が事実を隠していると考え大いに怒り「朕はそなたを善人と思っていたのに、官高く禄重くなってかえって国賊になろうとは」と述べ、有司に「明日斬首せよ」と命じた。万歳は恐れて服罪し頓首して命乞いをした。左僕射高熲・左紐大将軍元旻らが「史万歳の雄略は人に優れ、用兵の際は常に士卒の先頭に立ち撫御に優れ、将士は喜んで力を尽くす、古の名将にも劣らない」と進言すると上の怒りはやや解け、除名して庶民とした。一年余りで官爵を回復し、まもなく河州刺史を拝し再び行軍総管として胡に備えた。
突厥討伐と非業の死
- 開皇末、突厥の達頭可汗が塞を犯すと、上は晋王楊広・楊素を霊武道に、漢王楊諒と万歳を馬邑道に出させた。万歳は柱国張定和・大将軍李薬王・楊義臣らを率いて塞を出て大斤山に至り虜と遭遇した。達頭が使者に「隋の将は誰か」と問わせると斥候は「史万歳です」と答え、達頭がさらに「敦煌の戍卒だった者ではないか」と問うと「そうです」と答えたため、達頭は恐れて兵を引いた。万歳は百余里追撃して追いつき大破し数千級を斬り、磧の中まで数百里追撃したため虜は逃げ去った。
- 楊素はその功を妬み「突厥は元々降っており侵略する気はなく塞上で放牧していただけだ」と讒言し、万歳の功は握りつぶされた。万歳は何度も表を上げて事実を訴えたが上は悟らなかった。
- 上が仁壽宮から京師へ初めて帰った折、皇太子が廃され東宮の党与が徹底追及されていた。上が万歳の所在を問うと万歳は実際には朝堂にいたが、楊素は上が怒っているのを見て「万歳は東宮に謁見しています」と告げ上の怒りを煽った。上はこれを事実と信じ万歳を召した。当時従っていた士卒で朝廷に恩賞を待つ者が数百人いたため、万歳は彼らに「今日私はそなたたちのために上に力を尽くして陳情する、事は必ず決着するだろう」と言った。上に会うと将士の功が朝廷に抑えられていることを述べ、言葉に憤りが強く上の意に逆らった。上は大いに怒り左右に命じて撲殺させた。まもなく後悔し追わせたが間に合わず、詔を下して万歳の罪を「柱国・太平公万歳、抜擢して委任し常に軍機を総べさせた。南寧の逆乱に際し討伐させたが、昆州刺史爨翫が逆心を抱き民に禍をなした。朕は成算があり万歳に入朝させるよう命じたのに、万歳は多く金銀を受け軍令に違反して留まり、ついに爨翫が反逆し再び師旅を労した末に平定した。所司の検校により罪は極刑に相当したが、過ちを捨て功を思い性命を恕し官職を回復した。近年再び軍を総べ蕃裔を討伐させた。突厥の達頭可汗がその凶衆を率いて拒もうとしたが軍威を見て奔退し、刃を血に染めず賊徒は瓦解した。これほどの勝利は国家の盛事であり、朕はその勲庸を成そうと更なる褒賞を考えていた。しかるに万歳・定和は報告の日に姦詐を懐き、戦闘があったと偽って事実を陳べず、反覆常なき者であり国家の法を弄んだ。誠を尽くし節を立て虚偽なき者こそ良将であるが、万歳のように詐りを懐き功を要める者は国賊である、朝憲を欠くことはできず二度赦すことはできない」と非難した。万歳が死んだ日、天下の士庶で聞いた者は識ると識らざるとを問わず皆惜しんだ。
- 万歳は将として軍陣の整備にはこだわらず、士卒に思い思いにさせ夜警の備えもなかったが、虜もあえて犯さなかった。戦陣に臨んでは変化に応じて自在で良将と呼ばれた。子に史懐義がいる。