隋書卷五十三 列傳第十八 賀婁子幹
賀婁子幹、字は万寿、もと代の人(生年不明-594年、六十歳)。北周から隋にかけ涼州・雲州など辺境の防衛にあたり、吐谷渾・突厥の侵攻を度々撃退した功臣。隴西の防衛策を上書したことでも知られる。
年表(6件)
- 尉迥の乱と高祖への出仕尉迥の乱討伐で懐州を撃破し高祖に自筆で称賛される
- 涼州・蘭州での対外戦可洛峐山で突厥を大破し上大将軍に冊授される
- 涼州・蘭州での対外戦新都造営の副監、のち工部尚書を拝す
- 開皇元年581年行軍総管として吐谷渾の涼州侵攻を撃退する
- 隴西の防衛策隴西の防衛策を上書し高祖がこれに従う
- 開皇十四年594年病により任地で卒す、時に六十歳
出自と北周での経歴
- 賀婁子幹、字は万寿、もと代の人。魏氏の南遷に従い代々関右に住んだ。祖父の賀婁道成は魏の侍中・太子太傅、父の賀婁景賢は右紐(右親衛)大将軍。子幹は若くして驍武で知られた。
- 周の武帝の時、司水上士として出仕し能吏として称された。小司水に累遷、勤労により思安県子に封じられた。まもなく使持節・儀同大将軍を授かり、大象初め軍器監を領し、まもなく秦州刺史を授かり伯に進爵した。
尉迥の乱と高祖への出仕
- 尉迥が反乱すると子幹は宇文司録と共に韋孝寛に従い討伐した。賊が懷州を囲むと、子幹は宇文述らと共にこれを撃破した。高祖は大いに喜び自筆で「逆賊尉迥が蟻の如き衆を遣わし懷州を寇した。公は命を受けて討伐し機に応じて掃討した、聞いて称賛せずにはいられない。丈夫が富貴を得る秋はまさに今日にある、よく功名を建て朝廷の望みに応えよ」と書き送った。以後も戦うごとに先陣を切り、鄴城を破ると崔弘度と共に迥を楼上まで追った。上開府に進み武川県公(食邑三千戸)に封じられ、思安県伯を子に別封した。
涼州・蘭州での対外戦
- 開皇元年(581年)、鉅鹿郡公に進爵。その年、吐谷渾が涼州を侵すと、子幹は行軍総管として上柱国元諧に従い撃退し功が最も優れたため詔で褒美された。高祖は辺塞の不安を憂い子幹に涼州を鎮させた。
- 翌年、突厥が蘭州を侵すと子幹は軍を率いて拒み、可洛峐山で賊と遭遇した。賊軍は勢い盛んであったが、子幹は川を隔てて陣を張り、賊軍が数日水を得られず人馬が疲弊したところを突いて大破した。上は子幹を上大将軍に冊授し「ああ、朕の命を敬んで聞け。そなたの器量は明晰、志情は剛毅果断、経武の将として勤績が聞こえている。往年、凶醜が未だ安んぜず度々国境を驚かせたが、土を拓き乱を静めた功は殊に大きい、これに賞典を崇め車服を加える、慎んで受けよ」と述べた。
- 新都造営の副監に召され、まもなく工部尚書を拝した。その年、突厥が再び塞を犯すと行軍総管として竇栄定に従い、子幹は別路で賊を破り首級千余を斬った。高祖はこれを嘉し通事舎人曹威を遣わし優詔で労った。子幹が入朝を請うと駅馬での参内を許した。
- 吐谷渾が再び辺境を侵し西方の被害が大きかったため子幹に討伐を命じた。子幹は駅馬で河西に至り五州の兵を発して国内へ攻め入り男女一万余口を殺し二十日で帰還した。
隴西の防衛策
- 高祖は隴西がたびたび寇掠を受けることを大いに憂い、その地の風俗が村塢を設けないため子幹に民を組織させ堡を営ませ田を耕させ穀を積み不慮に備えさせようとした。子幹は上書して「近年、凶寇の侵擾は朝夕にでも起こりうる。しかし今臣がここにいる限り機を観て動くもので、詔に準じて行事することはできません。隴西・河右は土地が広く民が少なく辺境は未だ安定していない、広く田を種えることはできません。屯田の地を見るに、得るところは少なく費やすところは多く、無為に人力を役して忽ちに賊に踏み荒らされます。屯田が本拠から遠い所はすべて廃止すべきです。ただ隴右の民は牧畜を生業とし、彼らを屯め集めればかえって安んじません。ただ厳しく斥候を置くべきで、人畜を集める必要はありません。要路にこそ防守を加えるべきです。鎮戍を連携させ烽火を連ねれば、民は散居していても心配ないでしょう」と述べ、高祖はこれに従った。まもなく虜が岷州・洮州を侵したが子幹が兵を率いて赴くと賊は聞いて逃げ去った。
晩年
- 高祖は子幹が辺事に習熟していることから榆関総管十鎮諸軍事を授けた。数年後、雲州刺史を拝し虜に大いに恐れられた。数年後、突厥の雍虞閭が使者を送り降を請い羊馬を献じたため、詔により子幹は行軍総管として西北道からこれに応じた。帰還後、雲州総管を拝し突厥が献じた馬百匹・羊千口を賜られ、上は「公が北門を守ってから風塵は警戒を要さなくなった、突厥の献じた物を公に賜る」と書き送った。母の喪により去職したが、朝廷は榆関の重鎮には子幹しかいないと考えまもなく復職させた。
- 開皇十四年(594年)、病により任地で卒した。時に六十歳。高祖は長く傷み惜しみ、縑千匹・米麦千斛を贈り懷州・魏州など四州刺史を追贈し諡を懷とした。子の賀婁善柱が跡を継ぎ黔安太守に至った。
賀婁詮
- 子幹の兄・賀婁詮も才器があり銀青光禄大夫・鄯州・純州・深州の三州刺史・北地太守・東安郡公に至った。