隋書卷五十一 列傳第十六 熾
長孫熾、字は仲光、上党文宣王長孫稚の曾孫(生年不明-610年、享年62)。北周の通道館学士から地方官・京官を歴任し、高祖の信任厚く隋朝で要職を歴任した。
出自と若年の武才
- 長孫晟、字は季晟。通達で機敏な性格、書記にやや通じ、弾(弾弓)と射(弓術)に長け敏捷さは人に勝った。当時、周室は武を尊び貴族の子弟は互いに競い合っていたが、共に馳射すると同輩は皆晟に及ばなかった。
- 十八歳で司衛上士となる。当初は名を知られていなかったが、高祖だけがひと目見て深く感嘆し、その手を取って「長孫郎の武芸は群を抜き、話してみると多くの奇略を持つ。後の名将はこの者ではないか」と人に語った。
長孫晟――突厥への使者としての活躍
- 宣帝の時、突厥の攝圖(沙鉢略可汗)が周に婚を請い、趙王招の娘を娶らせることになった。周と攝圖はそれぞれ誇り合い、選りすぐりの勇者を使者に立てたため、晟は汝南公宇文神慶の副使として千金公主をその牙帳へ送った。前後多くの使者が来たが攝圖は多くを礼遇しなかった中、晟だけを愛し、共に狩猟に出ては一年もの間留めた。
- あるとき二羽の雕が肉を争って飛んでいたのを見て、攝圖が晟に矢を二本与え「射止めよ」と言うと、晟は弓を彎いて馳せ、雕が互いに掴み合った瞬間、一発で両方を貫いた。攝圖は喜び、諸子弟や貴人らに親しく交わらせ、弾射の技を学ばせようとした。
- 攝圖の弟・処羅侯(号は突利設)は特に人望があり、攝圖に忌まれていたため、密かに心腹を通じ晟と盟約した。晟は彼と狩りをしながら山川の形勢や部衆の強弱を探り知った。時に高祖が丞相であったため、晟はその実情を書き送り、高祖は大いに喜んで奉車都尉に昇進させた。
長孫晟――離間の策と開皇初年の対突厥戦略
- 開皇元年(581年)、攝圖は「われは周の親族なのに、いま隋公が自立してこれを制することができないとは、いかなる面目で可賀敦(千金公主)に会えようか」と言い、高宝寧と共に臨渝鎮を攻め落とし、諸部族と結んで南侵を謀った。高祖は即位したばかりで大いに恐れ、長城を修築し、北境に兵を屯し陰壽に幽州、虞慶則に并州を鎮守させ数万の兵を備えた。
- 晟はかねて攝圖・玷厥・阿波・突利ら叔父甥兄弟がそれぞれ強兵を統べ皆可汗を号し、四方に分居して内には猜忌を抱きながら外には和同を装っていることを知っていたため、武力で服させるより離間しやすいと考え、上書して「喪乱の極みには必ず升平が来る。陛下は百王の末に当たり千載の期に応じておられる。中国は安泰でも辺境は未だ乱れており、討伐すべき時ではない。むしろ密かに策を巡らして漸次これを弱めるべきである。玷厥は攝圖に対し兵は強いが地位は低く、表面は従うが内には隙がある。処羅侯は攝圖の弟で国人に愛されるがゆえに攝圖に忌まれ心中安からず、阿波は日和見でどちらつかずである。今は遠交近攻・離強合弱の策を取り、玷厥・阿波と通じ処羅侯を誘い奚・霫と結べば、攝圖は分兵して両面を防がねばならず、十数年の後には隙に乗じてこれを討ち、一挙にその国を空にできよう」と述べた。
- 上(高祖)は大いに喜び晟を召して語らせた。晟は口頭で形勢を陳べ、手で山川を描いて虚実をまるで手のひらを指すように示したため、上は深く感嘆しすべて採用した。太僕の元暉を伊吾道から玷厥のもとへ遣わし狼頭纛を賜って厚遇し、玷厥の使者を攝圖の使者より上座に置くなど反間の計を進めて両者を疑わせた。晟には車騎将軍を授け黄龍道から奚・霫・契丹などに幣を賜り嚮導させ、処羅侯のもとへ至って内応するよう誘った。
長孫晟――対突厥戦の推移
- 開皇二年(582年)、攝圖が四十万騎で蘭州から侵入し周盤に至り達奚長儒の軍を破ってさらに南進しようとしたが、玷厥は従わず兵を引いた。晟はまた染幹(後の啓民可汗)に「鉄勒などが反乱し攝圖の牙帳を襲おうとしている」と偽って告げさせ、攝圖は恐れて塞外に兵を引いた。
- 数か月後、突厥が大挙して侵入し、隋は八道の元帥を分出して防いだ。阿波は涼州に至り竇栄定と戦い連敗した。晟は偏将として阿波に「攝圖はいつも勝つのに、貴殿は入ってすぐ敗れた、突厥の恥ではないか。攝圖と阿波の兵力は元来互角だが、攝圖が勝ち続ければ尊崇され、阿波が不利なら国の恥となり、攝圖は必ず罪を阿波に帰し北牙を滅ぼすだろう。自ら量ってこれを防げるか」と説いた。さらに阿波の使者には「達頭(玷厥)はいま隋と和を結び攝圖もこれを制せない。可汗はなぜ天子に依り達頭と結んで強大にならぬのか。それこそ万全の策だ」と説いた。阿波はこれを受け入れ塞上に留まり、使者を晟に従わせて入朝させた。
- ちょうど攝圖は衛王(楊爽)の軍と白道で戦い敗走して磧に逃げた。阿波が二心を抱いたと聞くと攝圖は北牙を襲いその衆をことごとく奪い母を殺した。阿波は帰る所を失い西の玷厥のもとへ奔り、十余万の援兵を得て東の攝圖を攻め旧地を取り戻し、散兵数万を集めて攝圖と互いに攻め合った。阿波は連勝しその勢いを増した。攝圖はまた使者を送って朝貢し、公主(千金公主)は自ら改姓し帝の娘となることを願い出て許された。
長孫晟――対突厥外交の展開
- 開皇四年(584年)、晟は虞慶則の副使として攝圖のもとへ赴き、公主に楊の姓を賜り大義公主と改封することを伝えた。攝圖が詔を受けても起立礼拝しなかったため、晟は「突厥も隋も共に大国の天子である、可汗が起たぬのは意に反する。可賀敦は帝の娘であるから、可汗は大隋の女婿ではないか、なぜ婦の父に無礼を働くのか」と説き、攝圖は笑って達官らに「婦の父を拝礼せねばならぬなら従おう」と言い、詔書を拝した。使者としての務めが帝意に適い、儀同三司・左勲衛車騎将軍を授かった。
- 開皇七年(587年)、攝圖が死ぬと、晟は持節してその弟処羅侯を莫何可汗に、その子雍閭を葉護可汗に立てた。処羅侯は晟を通じて「阿波は天に滅ぼされ五六千騎で山谷に潜んでおり、詔旨を待って捕らえて献上したい」と奏上した。文武で協議し、樂安公の元諧は「かの地で梟首させ悪を懲らしめよ」と、武陽公李充は「生きたまま入朝させ百姓に見せしめとせよ」と言った。上が晟に問うと、晟は「今、突厥が服さぬなら刑をもって整えるべきだが、いま彼らは兄弟同士で互いに滅ぼし合っている。阿波の悪は我が国に背いたものではない、その困窮に乗じて誅すれば遠人を招く道に反する、両者とも生かしておくべきだ」と答え、上は「善し」と言った。
- 開皇八年(588年)、処羅侯が死ぬと晟は弔問に赴き、あわせて陳国から献上された宝器を雍閭に賜った。
長孫晟――流人楊欽事件と啓民可汗の擁立
- 開皇十三年(593年)、流人の楊欽が突厥に亡命し、彭公劉昶が宇文氏の女と共謀して隋に反乱を企てていると偽って告げ、雍閭がこれを信じて朝貢を怠った。晟が使いに出て探ると、公主(大義公主)は不遜な言辞を弄し、密通する胡人の安遂迦と欽が結んで雍閭を扇動していた。晟が帰朝して詳細を奏上、再び晟を遣わして欽の引き渡しを求めたが雍閭は与えず「調べたがそのような者はいない」と偽った。晟は達官に賄賂して欽の所在を知り、夜討ちで捕らえて雍閭に見せ、公主の私事を暴いたため国人は大いに恥じた。雍閭は安遂迦らを捕らえて晟に引き渡した。上は大いに喜び開府を加え、藩国に遣わして大義公主を処刑させた。
- 雍閭が婚姻を願い出、群議はこれを許そうとしたが、晟は「雍閭は信の置けぬ者で、玷厥との確執ゆえに我が国に頼っているに過ぎない。婚姻を許せば威霊を借りて玷厥・染幹を従わせ、強くなればまた反する。染幹(処羅侯の子)は父の代から誠意があり、私が会った際にも通婚を望んだ。彼を許して南へ移らせれば兵少なく力弱く懐柔しやすく、雍閭に対抗させ辺境の守りとできる」と奏上し、上は「善し」と言い染幹を慰撫して公主降嫁を許した。
- 開皇十七年(597年)、染幹は五百騎を晟に従わせて妃を迎えに来させ、宗女を安義公主として嫁がせた。晟は染幹に南へ移り度斤の旧鎮に住むよう説いた。雍閭はこれを憎み度々侵掠したが、染幹は動静を察して晟に報せ、隋軍は常に備えを整えることができた。
長孫晟――啓民可汗の危機と隋への内附
- 開皇十九年(599年)、晟の奏上により雍閭が攻具を作り大同城を攻めようとしていることが分かり、六総管を発して漢王(楊諒)の節度のもと分道して塞外を討たせた。雍閭は大いに恐れ達頭と再び同盟し合力して染幹を襲い、長城の下で大戦となった。染幹は敗れ兄弟子姪を殺され部落は離散した。染幹と晟はわずか五騎で夜通し南へ逃げ、朝には百余里を行き数百騎を収めた。二人は「敗兵で入朝すれば降人に過ぎぬ、大隋天子が我らを礼遇するだろうか。玷厥は元来怨みはないから彼のもとへ行けば助かるかもしれぬ」と相談したが、晟は染幹の二心を察し、密かに従者を伏遠鎮に走らせ急ぎ烽火を上げさせた。染幹が四つの烽火が一斉に上がるのを見て問うと、晟は「城が高く地が遠いから遠くの賊も見える。我が国の法では賊が少なければ二烽、多ければ三烽、大挙して迫れば四烽を挙げ、賊が多く近いことを知らせる」と偽った。染幹は大いに恐れ「追兵はすでに迫っている、城に投じよう」と衆に言い、鎮に入った。晟は達官を留めてその衆を統べさせ、自ら染幹を伴い駅を馳せて入朝した。
- 帝は大いに喜び、晟を左勲衛驃騎将軍に進め持節して突厥を護らせた。晟は降虜を遣って雍閭の様子を探らせると、その牙帳内で災異が相次ぎ、夜に赤虹が数百里を照らし、天狗が墜ち三日血の雨が降り、流星が営内に墜ちて雷のような音がしたという。雍閭は毎夜驚き「隋の軍が来る」と怯えていた。これを知った晟は突厥討伐の再開を奏請した。都速など染幹に帰服する男女は前後一万余口に及び、晟はこれを安置した。これにより突厥は隋に懐いた。
- まもなく染幹を意利珍豆啟人可汗(啓民可汗)とし、武安殿で射を賜った。善射者十二人を二組に分け、啓民は「私は長孫大使のおかげで天子に拝謁できた、今日の賜射は彼の組に入りたい」と言い許された。晟に矢六侯を与えると放つ矢はすべて鹿に中り、啓民の組が勝った。群鳥が飛ぶのを見て上が「公は弾がうまい、私のために取ってくれ」と言うと十発すべて命中し弾ごとに鳥が落ちた。この日百官が賜物を得たが晟が最も多かった。
- のち五万人を率いさせ朔州に大利城を築いて染幹(啓民)を住まわせた。安義公主が死ぬと持節して義成公主を送りまた妻とさせた。晟はさらに「染幹の部落で帰順する者が多いが、長城の内にいてもなお雍閭に略奪され安んじられない。五原に移し河を要害とし、夏州・勝州の間、東西河に至り南北四百里に横塹を掘ってその中に住まわせ、自由に放牧させれば略奪を免れ民は自ら安んじる」と奏上し、上はこれに従った。
長孫晟――突厥都藍の滅亡と晩年の功績
- 開皇二十年(600年)、都藍(雍閭)が大いに乱れ部下に殺された。晟は「いま王師が国境に臨み度々戦功を挙げ、賊は内部で離反しその主が殺された、この機に染幹の部下を分けて招撫させたい」と奏上し許され、果たしてことごとく来降した。達頭は恐れて大いに兵を集めたため、詔により晟は降人を率い秦川行軍総管となり晋王楊広の節度のもと出討した。達頭と対峙した晟は「突厥は泉水を飲む、毒を用いやすい」と策を進め、諸薬を上流に投じさせたところ達頭の人畜は多く死に、達頭は大いに驚き「天が悪水を降らせ我らを滅ぼすのか」と夜遁走した。晟が追撃し首級千余、俘虜百余口、家畜数千頭を得た。王は大いに喜び晟を宮中に入れ共に宴を極めた。降ってきた突厥の達官が「突厥内では長孫総管を大いに恐れ、その弓の音を雷、その馬の走りを稲光と呼んでいる」と語ると、王は「将軍の震怒は域外に威を行い雷霆に比される、なんと壮んなことか」と笑った。師が帰ると晟は上開府儀同三司を授かり、大利城へ戻され新附の民を安撫した。
長孫晟――仁壽年間と没後
- 仁壽元年(601年)、晟は「夜、城楼に登り磧北に赤気が百余里長く垂れ雨足のように地に及ぶのを見た。兵書によればこれを灑血といい、その下の国は必ず破亡する。匈奴を滅ぼすなら今日にある」と奏上した。詔により楊素が行軍元帥、晟は受降使者として染幹の北伐に同行した。
- 仁壽二年(602年)、軍が北河に進むと賊将思力俟斤らが兵を率いて拒戦したが、晟は大将軍梁默と共に撃退し六十余里を転戦、賊衆の多くが降った。晟はまた染幹に使者を分遣させ北方の鉄勒などの諸部を招携させた。
- 仁壽三年(603年)、鉄勒・思結・伏利具・渾・斛薩・阿拔・僕骨など十余部がことごとく達頭に背き来降を願い出た。達頭の衆は大潰し西の吐谷渾へ奔った。晟は染幹を磧口に安置した。
- 事が終わり入朝した頃、高祖が崩じたが喪を秘して発表しなかった。煬帝は晟を大行(先帝の柩の前)で内衙宿衛に委ね門禁を管理させ、即日左領軍将軍を拝させた。楊諒が反逆すると、勅により本官のまま相州刺史とし山東の兵馬を発して李雄らと共に討伐させた。晟は「息子の行布がいま逆地にいるため、この任は不安である」と辞退したが、帝は「相州の地は斉の旧都で人情は軽薄、変事が起きれば賊勢はすぐ張る、これを鎮められるのは公しかいない。公は国を思う心が深く、子のために大義を害するはずがない、辞退するな」と述べ相州を任せた。楊諒が敗れると召還され武衛将軍に転じた。
- 大業三年(607年)、煬帝が榆林に行幸し塞外へ出て兵を陳ね威を耀かせ突厥領内を経て涿郡へ向かおうとした。染幹(啓民)が驚くことを恐れ、先に晟を遣わして帝意を説かせた。染幹はこれを聞き、配下の諸国、奚・霫・室韋など数十の酋長を集めた。晟は牙帳内の草が荒れているのを見て、染幹自身に除草させ諸部落に威重を示そうと、帳前の草を指して「この根は大変香ばしい」と言った。染幹が急いで嗅いで「全く香らない」と言うと、晟は「天子行幸の地では諸侯が自ら灑掃し御路を清めて敬意を表す。いま牙帳内が荒れているのを見て、留めておく香草かと思った」と述べた。染幹は悟って「奴の罪です。奴の一族はみな天子の賜物、力を尽くすのは当然で、辞退などできましょうか。ただ辺境の者が法を知らぬだけです、将軍の恩沢で教え導いてくださった、将軍の恵みは奴の幸いです」と言い、佩刀を抜いて自ら草を刈り、貴人や諸部もこれに倣った。こうして榆林の北境からその牙帳、さらに東は薊まで、長さ三千里、広さ百歩の御道を挙国で開いた。帝はこの策を聞いて晟をますます褒めた。のち淮陽太守に任じられたが赴任前に再び右驍衛将軍となった。
- 大業五年(609年)、晟は卒した。時に五十八歳。帝は深く悼み厚く賻贈した。のち突厥が雁門を囲んだ際、帝は「もし長孫晟が生きていたら匈奴をここまで至らせなかったろうに」と嘆いた。晟は奇計を好み功名に努めた。至孝な性格で、喪に服す間は痩せ衰え、士大夫に称賛された。貞観年間、司空・上柱国・斉国公を追贈され、諡は献。末子の長孫無忌が跡を継いだ。
長孫行布・長孫恆安
- 晟の長子・行布も謀略に富み父の風があった。漢王楊諒の庫真として出仕し親しく用いられた。楊諒が并州で反乱を起こすと、行布を城守に留め、豆盧毓らと共に門を閉ざして楊諒を拒み、城が陥落した際に殺された。
- 次子の恆安は、兄の功により鷹揚郎将を授かった。
史論
- 長孫氏は代の陰から来て京洛に仕え、鐘鼎の家柄・山河の誓いを伝えた。漢の八王もその功績には及ばず、張氏七代の栄華もこの輝きには比べられない。長孫覽は雄弁を独り占めにし、熾は早くから爽やかで俊敏と称され、共に礼閣を司り軍旅を統べ、公・侯を兼ねて文武に欠けることがなかった。晟は英武の資質に奇略を兼ね備え、機に応じて策を変じ戎夷を懐柔した。突厥は巣を傾けことごとく落ち、膝を屈し頭を垂れ、辺塞に矢音が絶え渭橋で単于が拝礼する栄誉を得た。恩恵は辺境に流れ、功は王府に輝いた、爵禄を保ったのも当然のことである。