隋書卷五十一 列傳第十六 長孫覽
長孫覽、字は休因、河南洛陽の人(生没年不明)。北周の武帝に厚遇され「覽」の名を賜るなど文武に通じた。隋の開皇年間、東南道行軍元帥として対陳作戦に従軍し、高祖から柱石の臣として厚く信任された。從子(甥)の長孫熾も北周から隋にかけて地方官・京官を歴任した。
年表(11件)
- 北周での立身北周の武帝に厚遇され「覽」の名を賜る
- 北周での立身宇文護誅殺の功により薛国公に進封される
- 北周での立身斉平定に従軍し柱国に進む
- 開皇の対陳作戦と晩年蜀王楊秀に娘を妃として娶らせる
- 開皇の対陳作戦と晩年母の喪ののち涇州刺史に転じ、任地で卒す
- 開皇二年582年東南道行軍元帥として八総管を統べ対陳作戦に従うが、陳の宣帝崩御により高熲の説得で撤兵する
- 建德二年從子(甥)の長孫熾、雍州倉城令に任じられる
- 從子熾――地方官から隋朝への出仕長孫熾、王謙の反乱鎮圧に功を立て儀同三司を拝す
- 從子熾――地方官から隋朝への出仕長孫熾、高祖の受禅に際し官属を率いて宮中を清め内史舎人となる
- 大業元年605年長孫熾、大理卿に遷り、のち戸部尚書に抜擢される
- 大業六年610年長孫熾、東都留守を務め、その年任地で62歳で卒す、諡は靜
出自と生い立ち
- 長孫覽、字は休因、河南洛陽の人。祖父の長孫稚は魏の太師・假黃鉞・上党文宣王、父の長孫紹遠は周の小宗伯・上党郡公。
- 覽は性格おおらかで器量があり、書記に通じ、とりわけ鐘律(音律)に明るかった。
北周での立身
- 魏の大統年間、東宮の親信として出仕。周の明帝の時、大都督となる。
- 武帝は藩王の時から覽と親しく、即位後はいっそう厚遇し、車騎大将軍に抜擢した。
- 公卿の上奏があると必ず覽に読ませた。覽は弁舌に優れ声が雄壮で、宣読するたび百官が注目し、帝はいつも褒めた。覽は初め名を善といったが、帝が「朕は万機を卿に先に覽(み)せよう」と言い、覽という名を賜った。
- 宇文護誅殺の功により薛国公に進封。のち小司空を歴任。斉平定に従軍し柱国に進み、次子の長孫寛を管国公に封じた。
- 宣帝の時、上柱国・大司徒に進み、同州・涇州の二州刺史を歴任。高祖が丞相になると宜州刺史に転じた。
開皇の対陳作戦と晩年
- 開皇二年(582年)、江南への出兵にあたり東南道行軍元帥に任じられ、八総管を統べて寿陽から水陸並進した。師が長江に臨むと陳側は大いに動揺したが、陳の宣帝が亡くなったため、覽は隙に乗じて滅ぼそうとしたものの、監軍の高熲が「喪に服す国を討たぬ礼」を説いて撤兵させた。
- 上(高祖)は覽・安徳王雄・上柱国元諧・李充・左僕射高熲・右衛大将軍虞慶則・呉州総管賀若弼らを同席させて宴を催し、「朕は昔周朝にあって誠節を尽くしたが、猜忌に苦しみ心を寒からしめられることが多かった。臣たる者これでは何を頼みとしようか。朕と公との間は、義は君臣、恩は父子のようなものだ。共に終始めでたく過ごしたい。謀反でない限り一切問わぬ。朕は公の至誠を知っているから太子に付き添わせている、しばしば会って親愛を深めてほしい。柱石の臣としての重望はまさに公にある、朕の心を知ってくれ」と述べ、厚く遇した。
- 蜀王楊秀に覽の娘を妃として娶らせた。のち母の喪により去職、一年余りで復職を命じられ涇州刺史に転じ、任地でいずれも善政を挙げた。任地で卒した。子の長孫洪が跡を継ぎ、宋・順・臨の三州刺史、司農少卿、北平太守を歴任した。
從子熾(長孫熾)――出自と初期の経歴
- 長孫熾、字は仲光、上党文宣王長孫稚の曾孫。祖父の長孫裕は魏の太常卿・冀州刺史、父の長孫兕は周の開府儀同三司・熊州および絳州刺史・平原侯。
- 熾は聡明で容姿美しく、多くの書に通じ武芸にも優れた。建德初め、武帝が道法を尊び玄言を好んだため、経史に通じ談論に長じた者を求めて通道館学士とし、熾もこれに選ばれ英俊の士と交わり見識を広めた。
從子熾――地方官から隋朝への出仕
- 建德二年、雍州倉城令に任じられ、盩厔令に転じた。二邑の政績はいずれも最上位、崤郡守に昇進。入朝して禦正上士となる。
- 高祖が丞相となると丞相府功曹参軍に抜擢され大都督を加えられ、陽平県子(食邑二百戸)に封じられた。稍伯下大夫に遷る。その年、王謙が反乱すると、熾は信州総管王長述に従い長江を遡り、前軍として謙の一鎮を破り、楚・合など五州を平定し、偽総管の荊山西元振を捕らえた功で儀同三司を拝した。
- 高祖の受禅に際し、熾は官属を率いて先に宮中を清め、その日のうちに内史舎人・上儀同三司を授かった。まもなく本官のまま東宮右庶子を摂し両宮を出入りして重用され、処事が周到なため高祖は常にこれを称美した。
- 左領軍長史に任じられ持節して東南道三十六州に赴き、州郡の廃置と風俗の巡察を行った。帰還して太子僕・諫議大夫を加え長安令を摂した。大興令の梁毗と共に称職とされたが、毗は厳正で聞こえ、熾は寛平で顕れ、政の性格は異なるがそれぞれの管内はよく治まった。
- のち右常平監を領し、雍州贊治に遷り饒良県子に改封、鴻臚少卿に遷った。数年後、太常少卿に転じ開府儀同三司に進んだ。さらに持節して河南道二十八州の巡省大使となり、途上で吏部侍郎を授かった。
從子熾――大業年間
- 大業元年(605年)、大理卿に遷り、また西南道大使として風俗を巡省した。戸部尚書に抜擢。
- 吐谷渾が張掖を侵すと、熾に精騎五千を率いさせて撃退させ、青海まで追撃して帰還、功により銀青光禄大夫を授かった。
- 大業六年(610年)、煬帝が江都宮に行幸した際、熾を東都に留めて留守とし、左候衛将軍事を摂させた。その年、任地で卒した。時に六十二歳。諡は靜。子の長孫安世は通事謁者となった。