隋書卷五十二 列傳第十七 韓擒虎
韓擒虎、字は子通、河南東垣の人(生没年不明、五十五歳で没)。北周から隋にかけて武将として活躍し、開皇九年(589年)の伐陳の役では先鋒として長江を渡り、精騎五百で金陵に直入して陳主叔宝を捕らえる功を立てた。賀若弼と功を争ったことでも知られる。子の世諤、弟の僧壽・洪も武将として名を残した。
年表(13件)
- 出自と北周での武功北周の武帝の斉討伐で斉将独孤永業を説き金墉城を降す
- 出自と北周での武功行軍総管として陳の光州への侵攻を撃退する
- 平陳の先鋒として平陳の役で先鋒となり夜に長江を渡り採石を襲い姑熟を陥落させる
- 平陳の先鋒として精騎五百で朱雀門に直入し金陵を平定、陳主叔宝を捕らえる
- 賀若弼との功名争いと最期賀若弼と功を争うが上柱国に進む、士卒の放縦を咎められ爵邑は加えられず
- 賀若弼との功名争いと最期壽光県公に別封され涼州総管を拝す
- 賀若弼との功名争いと最期病を得て卒す、時に五十五歳
- 韓擒虎の子・世諤楊玄感の乱に将として加わるが敗れて捕らわれ、看守を欺いて逃亡し消息を絶つ
- 開皇十七年597年蘭州に屯して胡に備える
- 大業八年612年京師で卒す、時に六十五歳
- 弟 僧壽・洪――韓洪朱崖の反乱を討平するが軍の帰還前に病没、時に六十三歳
- 開皇九年589年平陳の役で行軍総管を授かる
- 仁壽元年601年突厥の達頭可汗と恒安で激戦、重傷を負いながら包囲を突破する
出自と北周での武功
- 韓擒虎、字は子通、河南東垣の人、のち新安に家を構えた。父の韓雄は武勇で知られ、周に仕えて大将軍・洛州など八州の刺史に至った。
- 擒虎は若くして慷慨、胆略で称され、容貌は堂々として英雄の風があった。書を好み経史百家の大旨をおおよそ知っていた。周の太祖はこれを見て異とし、諸子と交遊させた。
- 軍功により都督・新安太守を拝し、儀同三司に昇り新義郡公を襲爵した。武帝の斉討伐で、斉将の独孤永業が金墉城を守ったが、擒虎はこれを説いて降した。范陽平定に進み上儀同を加え永州刺史を拝した。陳が光州に迫ると行軍総管として撃破、また宇文忻に従い合州を平定した。
- 高祖が丞相になると和州刺史に転じ、陳の甄慶・任蛮奴・蕭摩訶らが江北をたびたび侵したが、擒虎はその都度撃退し陳人は気勢を失った。
平陳の先鋒として
- 開皇初め、高祖は密かに江南併合の志を抱き、擒虎の文武の才を用い廬州総管に任じて平陳の任を委ねた。陳人は大いにこれを恐れた。
- 大挙して陳を討つに際し擒虎は先鋒となり、五百人を率いて夜に長江を渡り採石を襲うと、守備兵は皆酔っていたため容易に奪った。姑熟を攻め半日で抜き、新林に陣を進めた。江南の父老はかねてその威信を聞き、日夜絶えず軍門に謁見に来た。陳人は大いに動揺し、将の樊巡・魯世真・田瑞らが相次いで降った。晋王楊広の上奏を聞き高祖は大いに喜び群臣に宴を賜った。
- 晋王が遣わした行軍総管杜彦と擒虎の軍が合流し歩騎二万、陳叔宝が遣わした領軍蔡徴が朱雀航を守っていたが、擒虎が迫ると聞いて軍は潰えた。任蛮奴は賀若弼に敗れ軍を捨てて擒虎に降った。擒虎は精騎五百で朱雀門に直入、陳兵が戦おうとすると蛮奴が「この老いぼれさえ降った、諸君に何ができる」と諭したため皆逃げ散った。ついに金陵を平定し陳主叔宝を捕らえた。
賀若弼との功名争いと最期
- 賀若弼にも功があり、高祖は晋王への詔で「この二公は深謀大略、東南の逋寇を朕が委ねた通り静地恤民をなした、九州の分裂数百年を名臣の功により太平の業に成した、天下の盛事これに過ぎるものはない」と述べ、平定は二人の功と称え物万段を賜った。さらに擒虎・弼への優詔で「国威を万里に伸ばし朝化を一隅に宣べ、東南の民を戦火から救い数百年の寇を旬日で一掃したのは全て公の功だ」と称えた。
- 京師に至ると弼と擒虎は上(高祖)の前で功を争った。弼は「臣は蒋山で死戦し敵の精鋭を破り驍将を捕らえ威武を震わせて陳を平定した、韓擒虎はほとんど戦わなかった、臣に比べられようか」と言い、擒虎は「本来の詔旨は臣と弼が力を合わせて偽都を取ることだった。弼は勝手に先んじて戦い将士の死傷を招いた。臣は軽騎五百で刃を血に染めず金陵を直取し、任蛮奴を降し陳叔宝を捕らえ府庫を占め巣穴を傾けた。弼は夕方になってようやく北掖門を叩き、臣が門を開いて入れてやったのだ、罪を免れるのに精一杯のはず、臣に比べられようか」と反論した。上は「二将ともに上勲に値する」とし、擒虎は上柱国に進み物八千段を賜った。ただし有司が擒虎の士卒の放縦・陳宮での淫汚を弾劾したため、これにより爵邑は加えられなかった。
- 先だって江東に「黄斑青驄馬、発自寿陽涘。来時冬気末、去日春風始」との謡があり、誰も意味が分からなかった。擒虎はもと名を豹といい、平陳の際に青驄馬に乗っており、往来の時節が謡と一致していたことに、この時初めて気づいた。
- のち突厥が朝貢に来た際、上が「そなたは江南に陳国の天子がいたことを聞いているか」と問い「聞いている」と答えると、突厥の使者を擒虎の前に連れて行き「これが陳国の天子を捕らえた者だ」と告げた。擒虎が厳しく見返すと突厥は恐れをなし仰ぎ見ることもできなかったという。壽光県公(食邑千戸)に別封され、行軍総管として金城に屯し胡寇に備え、まもなく涼州総管を拝した。まもなく京師に召還され上は内殿で宴を賜り厚遇した。
- ある時、隣家の母がその門下の儀衛が王者のように盛んなのを見て怪しんで問うと、中の者が「王を迎えに来た」と言って忽然と消えた。また重病人が突然擒虎の家に走り込み「王に謁見したい」と言い、「何の王か」と問われ「閻羅王だ」と答えた。擒虎の子弟がこれを打とうとすると擒虎は止めて「生きて上柱国、死して閻羅王となる、それで十分だ」と言った。まもなく病に伏し数日で卒した。時に五十五歳。子の世諤が跡を継いだ。
韓擒虎の子・世諤
- 世諤は快活で勇敢、父の風があった。楊玄感の乱に際し将として引き入れられ、戦うごとに先陣を切った。玄感が敗れると官吏に捕らわれ、帝が高陽にいた時、そこへ送られることになった。世諤は看守に酒肴を買わせて酣暢し「私はいずれ死ぬ身だ、酔わずにいられようか」と言い、看守にも酒を勧めて泥酔させ、その隙に逃亡して山賊のもとへ奔り、以後の消息は知れない。
弟 僧壽・洪――韓僧壽
- 僧壽、字は玄慶、擒虎の同母弟。勇烈で知られた。周の武帝の時、侍伯中旅下大夫。高祖が政を得ると韋孝寛に従い尉迥を平定し、戦うごとに功があり大将軍を授かり昌楽公(食邑千戸)に封じられた。開皇初め安州刺史を拝したが、擒虎が廬州総管であったため朝廷は淮南に同時に置くことを望まず熊州刺史に転じさせた。のち蔚州刺史、広陵郡公に進爵。行軍総管として突厥を鶏頭山で撃破。のち事に坐して免ぜられたが、数年後に再び蔚州刺史を拝し突厥に大いに恐れられた。
- 開皇十七年(597年)、蘭州に屯して胡に備え、翌年の遼東の役では行軍総管を領し、帰還後は霊州総管事を検校した。楊素に従い突厥を撃破し上柱国に進み江都郡公に改封。煬帝即位後さらに新蔡郡公に改封されたが、以後重用されなかった。大業五年(609年)、太原行幸に従った。京兆の達奚通の妾王氏が清歌に長け朝臣が多く集まって観たが、僧壽もこれに加わったため除名され、まもなく復位を命じられた。大業八年(612年)、京師で卒した。時に六十五歳。子の孝基がいた。
弟 僧壽・洪――韓洪
- 洪、字は叔明、擒虎の末弟。若くして驍勇、弓に長け膂力は人に勝った。周に侍伯上士として仕え、のち軍功で大都督を拝した。高祖が丞相の時、韋孝寛に従い尉迥を相州で破り上開府・甘棠県侯(食邑八百戸)を加えられた。高祖受禅後、公に進爵し驃騎将軍を授かった。
- 開皇九年(589年)、平陳の役で行軍総管を授かった。陳平定後、晋王楊広が蒋山で大猟を催した際、囲みの中に猛獣がいて皆が恐れる中、洪は馬を馳せこれを射て弦に応じて倒した。陳の諸将は側で観ておりみな感嘆した。王は大いに喜び縑百匹を賜った。まもなく功により柱国を加え蒋州刺史を拝した。数年後、廉州刺史に転じた。
- 突厥がたびたび辺患となったため朝廷は洪の驍勇を用い朔州総管事を検校させ、まもなく代州総管を拝した。
- 仁壽元年(601年)、突厥の達頭可汗が塞を犯すと、洪は蔚州刺史劉隆・大将軍李薬王を率いてこれを拒んだ。恒安で虜と遭遇し衆寡敵せず、洪は四面から搏戦し身に重傷を負い将士は気力を失った。虜は全軍で包囲し矢が雨のごとく降った。洪は偽って虜と和を結び包囲を緩め、率いる軍で包囲を突破したが死者は半数を超え、殺した虜も倍に上った。洪と薬王は除名され庶民となり、劉隆はついに死罪となった。
- 煬帝が北巡し恒安に至った際、白骨が野に散らばるのを見て侍臣に問うと「かつて韓洪が虜と戦った場所です」と答えた。帝は憐れみ骨を収めて葬り、五郡の沙門に仏供を設けさせ、洪を隴西太守に拝した。まもなく朱崖の民王万昌が反乱を起こすと洪に討平させ、功により金紫光禄大夫を加え郡はそのまま領した。まもなく万昌の弟仲通が再び反乱すると再び洪に討平させたが、軍がまだ帰らぬうちに病を得て卒した。時に六十三歳。