生涯
- 李礼成、字は孝諧、隴西狄道の人、涼王李暠の六世孫。祖の延実は魏の司徒、父の彧は侍中。礼成は七歳のとき姑の子である蘭陵太守滎陽鄭顥と共に魏武帝に従い関に入った。顥の母は「この子は生来決して振り返らない、将来重器となるだろう」と語ったという。長じて沈深で行いを慎み妄りに賓客と交わらなかった。魏の大統中、著作郎から出発し太子洗馬・員外散騎常侍に遷った。周の受禅で平東将軍・散騎常侍を拝した。
- 当時貴公子は皆競って弓馬を習い服装も軍容を模していたが、礼成は騎射に優れながら儒服のまま平生の望みを失わなかった。軍功で車騎大将軍・儀同三司、修陽県侯に封ぜられ遷州刺史を拝した。朝廷の徴発に対し蛮夷を騒がせれば必ず乱になると固く諫め、周武帝はこれに従った。伐斉の役では帝の晋陽包囲に従い南門を攻め、斉将席毗羅の精鋭数千を力戦して撃退した。開府を加えられ冠軍県公に進み北徐州刺史を拝し、まもなく民部中大夫に召された。
隋朝での経歴
- 礼成の妻竇氏は早く没し、高祖に非凡の相があることを知って高祖の妹を継室に迎え、情契はすこぶる睦まじかった。高祖の丞相就任で上大将軍に進み司武上大夫に遷り心腹として委ねられた。受禅後は陝州刺史・絳郡公に進み恩賞も厚く、左衛将軍、右武衛大将軍に遷り、一年余りで襄州総管に出て恵政と称された。数年後再び左衛大将軍。突厥の寇患が続く辺境の要地に重臣を任じる方針で甯州刺史を拝した。一年余り病により帰京し家で卒した。子の世師は度支侍郎に至った。