隋書卷五十 列傳第十五 元孝矩
元孝矩、河南洛陽の人(生年不明-没年不明、享年59)。西魏の宗室に連なり、周太祖の専横に対し宗室復興を志したが果たせなかった。隋の高祖の外戚として、娘が皇太子勇(のち房陵王)の妃となる縁により重用され、洛陽鎮守・寿州総管などを歴任した。
西魏・北周での経歴
- 元孝矩、河南洛陽の人。祖の修義、父の子均は共に魏の尚書僕射。孝矩は西魏時に始平県公を襲爵し南豐州刺史を拝した。周太祖の専政が元氏(魏の皇室)を危うくするのを見て慨然と社稷復興の志を抱き、密かに兄弟に「漢の諸呂の変を硃虚侯・東牟侯が鎮めて劉氏を安んじた故事のように、今の宇文氏の心は誰の目にも明らかだ、宗子として傍観すべきではない、図るべきではないか」と語ったが兄の則に止められ思いとどまった。
- のち周太祖は兄の子の晋公宇文護に孝矩の妹を娶らせ情好は密であった。閔帝受禅で護が百揆を総べると孝矩の寵はますます隆盛したが、護誅殺に連座して蜀に徙された。数戦の後召還され益州総管司馬を拝し司憲大夫に転じた。
隋朝での経歴
- 高祖はその門地を重んじ、女を房陵王(皇太子勇)の妃として娶らせた。高祖の丞相就任で少塚宰を拝し柱国・洵陽郡公に進んだ。房陵王の洛陽鎮守後、高祖受禅で王が皇太子に立てられると孝矩がこれに代わって洛陽を鎮め、その女が皇太子妃に立てられ親礼はますます厚くなった。まもなく夀州総管を拝し、高祖から璽書で「揚・越が辺境を侵し桑を争って役を興し大猷を弁えぬ、公は志遠略にあり辺服を鎮め礼をもって懐柔することが朕の意に適う」と激励された。
- 陳将任蠻奴らの江北侵犯に対し行軍総管を兼ね江上に屯兵した。数年後、老年で筋力衰えたことを理由に骸骨を乞う上表をし涇州刺史に転じた。高祖は「謙譲を守り初服に帰りたいとの意を知ったが、公は元功により裘を委ね陝を分かつ重任を寄せたい、辺境の務めが煩わしいなら涇郡に転じ徳を養い臥治するがよい」と応じた。州に在ること一年余りで官に卒し、享年五十九、諡を簡という。子の無竭が嗣いだ。
- 孝矩の兄の子文郁は『誠節伝』に見える。孝矩の次弟の雅、字は孝方、文武の幹用あり開皇中に左領左右将軍・集沁二州刺史を歴任し順陽郡公に封ぜられた。末弟の褒は最も知られた。
弟褒
- 褒、字は孝整、弓馬に長じ幼くして成人の量があった。十歳で父を失い諸兄に養育され、友悌の性質で兄によく仕えた。諸兄が別居を議した際、褒は泣いて諫めたが聞かれず、家は富み金宝が多かったが褒はこれを受けず身一つで出て州里に称賛された。長じて寛仁大度で書史を渉猟した。周に仕え開府・北平県公・趙州刺史に至った。
- 高祖の丞相就任で韋孝寛に従い尉迥を撃ち功により柱国に超拝され河間郡公邑二千戸に進んだ。開皇二年(582年)安州総管を拝し一年余りで原州総管に徙された。商人が賊に劫われた事件で商人が同宿者を疑って捕らえた際、褒は疑われた者の顔色が冤罪であり弁が正しいことを見抜き釈放した。商人は褒が金を受けて盗賊を放免したと闕下に訴え、高祖は使者を遣わし徹底的に糾問させた。使者に「なぜ金の利で盗人を釈放したのか」と責められると褒はすぐに罪を認め異論を唱えなかった。使者と共に京師に赴き免官された。
- その後盗賊が別の場所で捕らえられ、高祖は褒に「公は朝廷の旧人で位望隆重なのに金を受け盗人を放免したというのは善事ではない、なぜ自らを誣告したのか」と問うた。褒は「臣は一州を委ねられながら盗賊を息ませられなかったのが一の罪、州民が謗られた際に法司に付さず放免したのが二の罪、愚直な誠意に引かれ形跡を顧みず文書の約束によらなかったため物に疑われるに至ったのが三の罪、この三罪をどうして逃れられよう。臣がさらに賂を受けたと言わなければ使者はまた徹底追及するだろう、そうなれば縲絏(縄目)が罪なき者にまで及ぶ、それを重く見て自ら誣いたのだ」と答えた。高祖はこれを嘆じて長者と称した。
- 十四年(594年)行軍総管として辺境を防備し、遼東の役では漢王(楊諒)に従い柳城まで至って還った。仁寿初め、嘉州の夷・獠の寇乱を歩騎二万で討平した。煬帝即位で齊州刺史を拝し、まもなく齊郡太守に改められ吏民に安んじられた。遼東の役の興りで郡官が督事に前後駆り出される中、西曹掾が出発の当番で仮病を使い、褒が詰問すると掾は理屈に詰まり、褒はこれを杖打った。掾は「行在所に行き訴えたいことがある」と大言したため褒は激怒しさらに杖百余を加え、掾は数日で死に、これに坐して免官された。家で卒し享年七十三。