隋書卷四十九 列傳第十四 牛弘

牛弘、字は里仁、安定鶉觚の人、本姓は尞氏(生年不明-610年)。北周から隋にかけて秘書監・礼部尚書・吏部尚書などを歴任した学者官僚。散逸した典籍の収集を上表し、五礼・雅楽・明堂の議論を主導した。寛厚篤実な人柄で隋室の旧臣として終始信任を受けた。

年表(12件)

牛弘――出自と北周での経歴

  • 牛弘、字は里仁、安定鶉觚の人、本姓は尞氏。祖の熾は郡中正、父の允は魏の侍中・工部尚書・臨涇公で牛氏の姓を賜った。弘は襁褓の頃、人相見に「この子は貴くなる、よく養育せよ」と言われ、成長すると容貌に優れ性質は寛裕で学を好み博聞であった。
  • 周に仕え中外府記室・内史上士から出発し、まもなく納言上士に転じ文翰を専掌し名声を得た。威烈将軍・員外散騎侍郎を加えられ起居注を修めた。父の跡を継ぎ臨涇公。宣政元年(578年)内史下大夫に転じ使持節・大将軍・儀同三司に進んだ。

牛弘――献書の路を開く上表

  • 開皇初め散騎常侍・秘書監に遷り、典籍の散逸を憂い献書の路を開くよう上表した。その要旨は次のとおり。
  • 経籍の興りは古く、爻画は庖犠に始まり文字は蒼頡に生じ、聖人はこれで教導を弘め古今に通じさせた。堯・舜も古道を考え古人の象を観た。周官の外史は三皇五帝の書と四方の志を掌った。武王が黄帝・顓頊の道を尋ねると太公は「丹書にある」と答えた。詩書を教えとし礼楽で成功する国家有家の道はここに由来する。
  • 周の徳が衰えると旧経は紊乱したが、孔子が礼を制し詩を刊し春秋を修め易道を弘めた。秦の始皇の焚書・偶語の刑で先王の墳籍は地を掃うように失われた(第一の厄)。
  • 漢の興隆で儒術が敦く尊ばれ蔵書の策・校書の官が置かれ書物が各所から出てきたが、成帝の世でも散逸は多く劉向父子に校讎させた。王莽末の長安の兵乱で宮室図書が焼失した(第二の厄)。
  • 光武帝は経誥を重んじ、鴻儒が集まり肅宗・和帝も書林を訪れ蘭台・石室・鴻都・東観に書が満ちたが、献帝の遷都の混乱で図書は帷囊にされ、西に運ばれたのはわずか七十余乗で、これも西京の大乱で焼き尽くされた(第三の厄)。
  • 魏文帝は漢の後を継いで経典を集め、鄭默が旧文を刪定した。晋も文籍を広げ荀勗が魏内経を定め新簿を著した。だが劉曜・石勒の侵攻で京華が覆滅し朝章国典が失われた(第四の厄)。
  • 永嘉の乱以後、諸国が乱立し憲章礼楽は聞かれなくなった。劉裕が姚秦を平定して得た図籍はわずか四千巻に過ぎず、僭偽の盛んな二秦でもこの程度であった。図書は江左に集まり、宋・王儉の『七志』、梁・阮孝緒の『七録』は総計三万余巻に及んだ。侯景の乱で梁室が破れても文德殿の書史は存し、蕭繹(元帝)が侯景を破って集めた公私の典籍七万余巻を荊州に送ったが、周軍の江陵攻略の際に元帝がこれを外城で焼き、収められたのは十のうち一二に過ぎなかった(第五の厄)。
  • 後魏の洛陽遷都は経籍整備の余裕なく、周は関右に興り戎車が休まず、保定初年の蔵書はわずか八千巻、後に集めても万巻に満たなかった。北斉の山東でも収集した経史四部は重複を含め三万余巻に過ぎなかった。
  • 今の御書単本は一万五千余巻だが部帙に欠けが多く、梁の旧目の半分に過ぎず、陰陽河洛・医方図譜の類はさらに少ない。孔子以後千年で五度の厄を経た書籍の再興は今の聖世にこそふさわしい。陛下の徳は往古に冠絶し、天下は三王を凌ぎ民は両漢に勝るこの時、なお図書に遺逸があるのは惜しい。士民の家にあって秘蔵に無い書があるかもしれず、天威をもって求め微利をもって誘えば異典は必ず集まる。ぜひ天監により献書を促されたい。
  • 高祖はこれを納れ、献書一巻につき縑一匹を賜る詔を下し、一二年で篇籍は次第に整った。弘は奇章郡公邑千五百戸に進んだ。

牛弘――五礼・明堂に関する議

  • 三年(583年)礼部尚書を拝し、勅命により五礼を修撰し百巻にまとめて世に行われた。弘は古制に依り明堂を修立することを求め、以下の議を上げた。
  • 明堂は神霊に通じ天地に感じ教化を出し有徳を崇める場である。『孝経』に「文王を明堂に宗祀し上帝に配す」、『祭義』に「明堂に祀るは諸侯に孝を教える」とあり、黄帝は合宮、堯は五府、舜は総章と呼んだ。周官考工記の夏后氏世室・殷人重屋・周人明堂の規模について鄭玄・馬融・王肅・干寶らの注釈が異なり定説がない。漢の司徒馬宮の説(夏室は殷屋より大きい)と鄭玄の説(周堂は夏室より大きい)も食い違う。鄭玄注に基づけば各室は一丈八尺に過ぎず、宗廟の祫享の礼や天子の宴礼、明堂での五帝への総享の礼を行うには狭すぎるという難点がある。
  • 劉向の別録や馬宮・蔡邕らが見た古文明堂礼などの原典は失われ検証できない。今伝わる「明堂月令」は鄭玄は呂不韋の著、蔡邕・王肅は周公の作というが、束晳は夏時の書とし劉瓛は呂不韋が儒者を集めて記させたとする。実際には虞・夏・殷・周の法が雑じっており、聖王の仁恕の政というべきである。蔡邕の章句によれば、明堂の名は夏の世室・殷の重屋・周の明堂とあり、堂は方百四十四尺(坤の策)、屋は円で楣径二百十六尺(乾の策)、太廟明堂は方六丈、通天屋径九丈など陰陽九六の数理に基づく構造とされる。
  • 建安以後の戦乱で憲章は泯絶し、魏晋は簡素な一殿とする議(裴頠)に留まり、後魏の李沖の設計も三三相重ねて九室としたが簷が基を覆わず不備が多く、洛陽遷都後の再構築も未完に終わった。
  • 弘らは検討の末、明堂は五室であるべき理由(『尚書帝命験』の五府の思想、天に五の理があること)、上円下方であるべき理由(『孝経援神契』『礼記盛德篇』等の記述)、重屋であるべき理由(考工記・礼記明堂位・春秋・周書作洛篇等の記述、漢の宗廟の重屋の実例)、辟雍(周囲を巡る水)を備えるべき理由(『礼記盛德篇』『明堂陰陽録』等、馬宮・王肅は明堂・辟雍・太学を同処とし蔡邕・盧植も同実異名とするが袁準・鄭玄は別とする説もある)を述べ、五室九階・上円下方・四阿重屋・四旁両門を考工記・孝経説に、堂方百四十四尺・屋円楣径二百十六尺・太室方六丈・通天屋径九丈・八闥二十八柱等を周書月令論に、殿垣と水の規模を太山盛德記・覲礼経に依ることを提案した。
  • しかし高祖は時事草創のため未だ着手する余裕なく、この議は結局実行されなかった。

牛弘――雅楽の議

  • 六年(586年)太常卿。九年(589年)雅楽の改定を詔され楽府歌詞と圓丘五帝の凱楽を撰定し、楽事について次の議を上げた。
  • 礼では五声・六律・十二管が旋相為宮(互いに宮となる)とされ、周礼の「黄鐘を奏し大呂を歌う」等もこの義による。蔡邕『明堂月令章句』の説(各月ごとに宮商角徴羽・変宮・変徴が定まる)を引き、揚雄の「声は律に生じ律は辰に生じる」の説に基づき律呂は五行・八風・十二辰・十二月に通じ循環すべきものとした。もし十一月に黄鐘を宮とせず十三月に太簇を宮としなければ陰陽の度を失うとし、劉歆『鍾律書』の「春宮秋律なら百卉必ず彫み、秋宮春律なら万物必ず栄える」等を引いて還相為宮の法によるべきと論じた。
  • 高祖は「旋相為宮を作る必要はない、黄鐘一均だけで良い」と答えた。
  • 弘はさらに六十律の不可を論じた。『続漢書律暦志』に記す元帝時の京房の六十律相生の法(焦延壽から学んだとするが延壽の出典は不明)、後漢の待詔候鐘律殷彤の上言、熹平年間の張光らも準法を復元できなかった経緯を挙げ、京房の法は漢代すでに実行不能であったこと、沈約『宋志』も「六十律は楽に施すことなし」とすること、封禅書の素女の瑟の故事等を引き、「大楽必易、大礼必簡」の意を採るべきと論じた。
  • また『周官』の「大司楽掌成均之法」に関する鄭衆・三礼義宗の注釈を引き、宮によって調を称すること、今行われている黄鐘之宮の楽が実は林鐘を調とし古典に反すること、晋の荀勗の十二笛の制(黄鐘の笛は正声が黄鐘に応じ下徴が林鐘に応じる等)を引き、現行の林鐘の用い方は荀勗の下徴の調であり正声を用いていないため改めるべきと論じた。
  • 高祖はこの議を大いに善しとし、姚察・許善心・何妥・虞世基らと共に新楽を正定するよう詔した(詳細は音律志に見える)。明堂設置の議についても弘に故事を条上させ得失を議させた(詳細は礼志に見える)。高祖は弘を深く敬重した。

牛弘――楊素との逸話と吏部尚書としての識見

  • 楊素は才を恃み朝臣を軽んじたが、弘に対してだけは常に威儀を改め謹んだ。楊素が突厥討伐に赴く前、太常の弘を訪ねて別れを告げた際、弘は中門まで見送っただけで、素が「大将が出征するのに見送りが近すぎないか」と言うと、弘はただ揖して退いた。素は笑って「奇章公(弘)は智は及ぶが愚は及ばないというべき人物だ」と述べたが、弘は気にも留めなかった。
  • 大将軍を授けられ吏部尚書を拝した。高祖は弘に楊素・蘇威・薛道衡・許善心・虞世基・崔子発らと諸儒を招集させ新礼の軽重を議させ、弘の立てた議論は皆に推服された。仁寿二年(602年)独孤皇后崩御の際、三公以下も儀注を定められない中、楊素が「公の旧学は時賢の仰ぐところ、今日の事は公の決するところ」と述べると、弘は辞譲もせずたちまち儀注を整え、いずれも典故があった。素は「衣冠礼楽はすべてここにある、自分の及ぶところではない」と嘆じた。
  • 弘は三年の喪の祥禫に降殺があるのに朞服十一月で練る(喪明けの儀)ことには典拠がないとして高祖に上奏し、これが容れられ朞練の礼が除かれた。これより始まった制度である。
  • 弘は吏部で徳行を先とし文才を後とする人選を務め慎重を期した。停滞を招くこともあったが登用した者は皆称職であった。吏部侍郎高孝基は鑒賞に優れ清慎絶倫だが爽俊が過ぎ軽薄と見られがちだったが、弘だけはその真価を見抜き委任した。隋の選挙はこの時が最も優れていたと評された。

牛弘――煬帝の下での晩年

  • 煬帝が東宮にあった頃、しばしば詩書を弘に贈り弘も答えた。即位後は弘に詩を賜り「晋家の山吏部(山濤)、魏世の盧尚書(盧毓)、先哲に異ならぬ奇才が我を佐ける」等と讃えた。同時に詩を賜られた者の中で弘への賛美が最も優れていた。大業二年(606年)上大将軍に進み、三年(607年)右光禄大夫に改められた。恒岳(恒山)祭祀に従い壇場の珪幣・墠畤の牲牢はすべて弘が定めた。太行山を下った際、煬帝は弘を内帳に招き皇后と同席で飲食を賜るほど親重した。
  • 弘は諸子に「自分は非常の遇を受け恩を深く蒙った、汝らは誠敬をもって自立し恩遇の隆盛に応えよ」と語った。六年(610年)江都行幸に従い、その年十一月、江都郡で六十六歳で卒した。帝は傷惜し賵贈を厚くし、安定に帰葬され、開府儀同三司・光禄大夫・文安侯を贈られ諡を憲という。

牛弘――人柄

  • 弘は当世の栄寵を得ながら車服は倹しく、上に仕えて礼を尽くし下に対しては仁をもって接し、言葉に訥だが行いに敏であった。上が弘に勅を宣べさせようとした際、弘は階下まで来て言葉が出ず退いて謝罪し「すべて忘れました」と述べたが、高祖は「言葉を伝える細かい才は宰臣の任ではない」とかえってその質直を称えた。大業の代にも委任はますます篤かった。弘は寛厚な性質で学を篤く志し、職務が繁雑でも書を手放さなかった。隋室の旧臣で終始信任され悔いを残さなかったのは弘一人であった。
  • 弟の弼は酒を好み酔うと乱れ、あるとき酔って弘の車を牽く牛を射殺した。弘が帰宅すると妻が「叔父様(弼)が牛を射殺しました」と告げたが、弘は驚きもせず「干し肉にせよ」とだけ答えた。妻がさらに「牛を射殺すとは大変な事です」と重ねると、弘は「もう聞いた」と顔色一つ変えず読書を続けたという。その寛和はこのようであった。文集十三巻が世に行われた。
  • 長子の方大も学業があり内史舍人に至った。次子の方裕は凶険な性質で人心が無く、江都行幸に従い裴虔通らと共に弑逆を謀った(司馬德戡伝に見える)。

  • 史臣は評して言う。牛弘は篤く典籍を好み学を優れて仕え、淡雅な風と曠遠な度を持ち、百王の損益を採って一代の典章を成した、漢の叔孫通もこれに及ばない。省闥に綢繆すること三十余年、夷険を通じて渝らず終始際なきものであった。開物成務(新機軸を開くこと)は得意ではなかったが、澄めば清く濁されても濁らず、大雅の君子というべきである。子の方裕は不才で家の基を崩し紀を犯し義に背いて家風を堕とした、惜しむべきことである。