隋書卷四十八 列傳第十三 文思

生涯

  • 楊文紀、字は溫範、若い頃から剛直で器量があった。北周では華山郡公の爵を襲い邑二千七百戸を得た。右侍上士から車騎大將軍・儀同三司・安州總管長史に累進した。齊安において陳の降將李瑗を迎える兵を率いた際、陳將周法尚の軍と遭遇しこれを撃退した。その功で開府に進み、入朝して虞部下大夫となった。
  • 高祖が丞相のとき汾陰縣公に改封された。梁睿に従い王謙を討伐し、その功で上大將軍に進んだ。前後の加増で邑三千戸を得た。資州刺史を拝し、入朝して宗正少卿となったが、事に坐して除名された。数年後、爵位を回復して熊州刺史を拝し、上明郡公に改封された。宗正卿を除授され、給事黄門侍郎を兼ねて禮部尚書の事を判した。仁壽二年、荊州總管に遷り、一年余りで任官のまま没した。享年五十八。諡は恭。

史論

  • 史臣は評する。楊素は若くして侠気にあふれ豪放不羈で、文武の才を兼ね備え英傑な謀略を懐き、志は遠大で功名をもって自ら任じた。高祖が起った時、天下を平定するにあたり腹心として重用され、常に推轂の重責を担った。陳の妖氛を掃って江海に波なく、突厥の驍騎を摧いて匈奴を遠く逃れさせた。禍乱を平定した功では他の功臣も及ばず、その奇策・高文もまた一代の傑物というにふさわしい。
  • しかし楊素はもっぱら智謀と権詐によって自らを立て、仁義の道によらず、時の君主に阿り、喜怒を自分の心のままにした。離宮を営んでは君主を奢侈に陥れ、嫡嗣の廃立を謀っては国家を傾かせた。ついには宗廟が荒廃し朝市が乱れる禍を招いたが、その禍敗の根源を究めれば、実に楊素に由来する。
  • 幸いにも楊素自身は天寿を全うしたが、その子(楊玄感)が禍乱の端緒となり、墓土が乾かぬうちに一門は誅殺され、墳墓は暴かれ宗族は誅滅された。積悪には必ず余殃があるというのは決して空言ではない。「無礼を多く行う者は必ず自らに災いが及ぶ」とはまさにこのことであろう。
  • 楊約は表向き温柔でありながら内心には狡猾な計略を秘め、蛇に足を描き加えるように事を仇なして、ついに国家の根本を傾け、一族の後嗣を絶やすに至った。当然の帰結というべきである。