隋書卷四十七 列傳第十二 韋世康

韋世康、京兆杜陵の人、代々関右の著姓(生年不明-597年)。祖の旭は魏の南幽州刺史、父の夐は「逍遙公」と号された隠者。恬淡好古で得喪に心を動かさず、吏部尚書として人選公平を貫き「廉平」と称された。開皇十七年、荊州総管の任地で67歳で卒した。

年表(10件)

出自と北周での経歴

  • 韋世康、京兆杜陵の人、代々関右の著姓。祖の旭は魏の南幽州刺史、父の夐は隠居して仕えず魏・周二代十度の徴召にも応じず「逍遙公」と号された。世康は幼くして沈敏で器度あり、十歳で州の主簿に辟され、魏では弱冠で直寝、漢安県公に封ぜられ周文帝の女襄楽公主を娶り儀同三司を授けられた。
  • 周に仕え典祠下大夫から沔・硤二州刺史を歴任、武帝の斉平定に司州総管長史として従い、東夏平定直後の民心を撫安した。民部中大夫、上開府、司会中大夫を歴任。

絳州刺史と止足の志

  • 尉迥の乱に際し高祖の憂いを受け「汾・絳はもと周斉の分界であり乱の兆しが生じやすい、公に守りを委ねる」として絳州刺史に任じられ、境内は清粛であった。
  • 世康は恬淡好古で得喪に心を動かさず、州にあって止足の志を子弟への書に記した。「わが生は先祖の余慶による、若くして纓弁を戴き駆馳して已に四紀(四十八年)に及ぶ、しばしば高位に登り方岳に赴いたが、三惑を除き四知を慎み貪らぬことを宝としたい、老いは未だしも壮年はすでに去った、禄は多きを求めず満ちれば退くべき、年は暮れを待たず疾あれば辞すべき、まして母は高齢で朝夕の孝養に欠くは我が罪である。今世穆・世文はともに戎役にあり、自分と世沖もまた遠任にあり、この情は切なる」と述べたが、諸弟の反対で思いとどまった。

吏部尚書としての治績と晩年

  • 数年の惠政の後、礼部尚書に擢られた。世康は嗜欲少なく貴勢を慕わず、人の善を聞けば我が事のように喜び人の過ちを顕さず名誉を求めなかった。上庸郡公邑二千五百戸に進み、吏部尚書に転じたが母の喪で去職、期を待たず起用されるも固辞して私制を尽くすことを願ったが許されなかった。吏部での人選は公平で請託が行われず「廉平」と称された。
  • 開皇七年(587年)江南攻略の議で方鎮を重んじ襄州刺史となったが事に坐して免ぜられ、安州総管、信州総管を経て十三年(593年)再び吏部尚書。十余年で多くの人材を進拔し朝廷は廉平と称した。休暇に子弟に「功遂げて身退くは古人の常道、耳順の年を迎え懸車の志がある」と語ると子の福嗣は「大人の澡身浴德、名立ち官成る、盈満を戒める先哲の教えに従い、二疏(漢代の隠退の典故)の跡を追われるべき」と答えた。
  • 侍宴の際、世康は再拝して「臣に尺寸の功なく位は台鉉に亜ぐ、犬馬の齢已に高く明時に益するところなく朝露に先んじることを恐れる、骸骨を乞い賢能に道を譲りたい」と辞退を求めたが、高祖は「賢を求める心は渇するがごとし、今の願いは深く本意に反する、たとえ筋骨衰えても公には一隅を臥して治めてもらいたい」と述べ荊州総管に出した。当時天下には四大総管(并・揚・益の三州は親王が統べ、荊州のみ世康に委ねられた)があり、世論はこれを美とした。世康は政簡静で百姓に愛され境内訴訟なし。十七年(597年)六十七歳で州に卒し、高祖は痛惜し贈賻厚く、大将軍を贈り諡を文という。

子女

  • 世康は孝友の性質で、諸弟が皆高位にあったのに末弟世約だけ官途に恵まれなかったため、父の田宅をすべて世約に譲るよう子らに勧め、世に義とされた。
  • 長子福子は司隸別駕に至った。次子福嗣は内史舍人に至ったが後に罪で黜けられた。楊玄感の乱で東都に迫った際、衛玄に従い城北で戦い敗れて玄感に捕らえられ檄文を作らされ、不遜な言辞であった。まもなく玄感を離れ東都に戻ったが、帝はこれを許さず高陽で車裂の刑に処した。少子福獎は通事舍人として東都で玄感と戦い戦没した。

弟洸(世穆)

  • 洸、字は世穆、剛毅で器幹があり弓馬に長じた。周に仕え直寝上士から出発、征伐に従い開府に累進、衛国県公邑千二百戸。高祖の丞相就任時、季父孝寛に従い相州で尉迥を撃ち功により柱国、襄陽郡公邑二千戸。突厥の寇辺に対し皇太子の咸陽屯兵に応じ原州道で虜を撃破。江陵総管、母の病で帰還後は安州総管。伐陳の役では行軍総管、陳平定後は江州総管として歩騎二万を率い九江を略定した。
  • 陳の豫章太守徐璒が郡を持して両端を持したため、洸は開府呂昂・長史馮世基を進ませ、璒は偽って降り夜襲したが昂と世基が合撃してこれを大破し璒を捕らえた。高涼の女子洗氏が衆を率いて洸を迎え、嶺南攻略を進めた。高祖は「公の鴻勲大業、名高く望重い、風のように電のように戦い皆が服した、干戈を用いずに兆庶が安んじられればこれこそ公の力」と書を送った。広州に至り陳の渝州都督王猛を説き下し嶺表はすべて平定された。高祖は大いに喜び便宜従事を許した。二十四州を綏集し広州総管を拝したが、一年余りで番禺の夷王仲宣の乱に包囲され、拒戦中に流矢に当たり卒した。上柱国を贈られ綿絹万段を賜り諡を敬という。子の協が嗣いだ。
  • 協、字は欽仁、学を好み雅量あり。著作佐郎から秘書郎に転じ、開皇中に父が広州で功を立てた際、詔書を齎す使者となったが到着前に父は卒した。高祖は父が王事に殉じたことから協に柱国を授け、定・息・秦三州刺史を歴任しいずれも能名あり官に卒した。

洸弟藝(世文)

  • 藝、字は世文、幼くして国子学に学んだ。周武帝時、軍功で上儀同、修武県侯邑八百戸、左旅下大夫。魏郡太守に出た。高祖丞相時代、尉迥の不軌が朝廷に薄々知られ季父孝寛が急ぎ代わりに赴いた際、迥は藝を遣わし孝寛を迎えさせたが、藝は迥に党して孝寛の問いに実を答えず、孝寛は怒って斬ろうとした。藝は懼れて迥の反状を告げ、孝寛は藝を連れて西に遁れ、駅ごとに伝馬を尽く駆り立て「蜀公が来るのでご馳走を用意せよ」と言い残した。迥の追手が着くたびに馬がなく盛饌に遅滞し、孝寛と藝は逃れることができた。
  • 高祖は孝寛の縁で藝の罪を問わず上開府を加え、孝寛に従い尉迥討伐、尉惇を破り相州を平定した功で上大将軍・武威県公邑千戸に改封され、修武県侯の別封を一子に与えた。高祖受禅後は魏興郡公に進み、齊州刺史として清簡な政で士庶に恵まれ、営州総管に遷った。藝は容貌瑰偉で夷狄の参謁の際は必ず儀衛を整え盛装し満榻に独坐、番人は畏懼して仰視できなかった。一方で大いに産業を治め北夷と貿易し家資巨万に及び清論に譏られた。開皇十五年(595年)五十八歳で官に卒し諡を懐という。

藝弟沖(世沖)

  • 沖、字は世沖、名家の子として周で衛公府礼曹参軍から出発、大将軍元定の渡江伐陳に従い陳に捕われたが武帝が幣で贖い還した。帝は再び沖を陳への使者とし馬千匹で開府賀拔華ら五十人及び元定の柩を贖わせた。弁舌に優れ奉使は旨に称い少禦伯下大夫から上儀同に累進。稽胡の寇乱には自ら安集を願い出て汾州刺史となった。
  • 高祖踐祚後、兼散騎常侍・開府・安固県侯。南汾州の胡千余人を長城建設に徴発したが途中で皆逃亡したため高祖が計を問うと沖は「夷狄の性は反覆しやすく牧宰の不適による、道理で綏静すれば労せず定まる」と答え、高祖はこれを容れ叛者の綏懐を命じた。一月余りで皆帰参し長城工事に赴いた。石州刺史として諸胡の歓心を得たが母の喪で去職、南寧州総管に起用され柱国王長述の兵を継進させたが沖は固辞、詔で「西南夷は生梗多く朕はこれを憐れむ、開府の器幹と識略により任せる、喪中でも軍旅の重を優先すべき」と促され赴任した。
  • 南寧に至ると渠帥爨震及び西爨首領が参謁し高祖は大いに喜び褒揚の詔を下した。兄の子伯仁が沖の府にあって人妻を略奪し士卒も暴を働き辺人が失望した事件で、高祖は激怒し蜀王秀に治めさせた。益州長史元岩は方正な性質で沖に対し寛貸せず沖はついに免ぜられた。岩を讒言した弟の太子洗馬世約は皇太子に告げ口したが、高祖は太子に「沽酒が酸っぱくて売れぬのは悪犬のせいという故事がある、世約を用いるな」と述べ世約は除名された。数年後、括州事の検校に令され、東陽の賊帥陶子定・呉州の賊帥羅慧方が婺州永康・烏程諸県を攻囲した乱を撃破。義豐県侯に改封され泉州事を検校、営州総管を拝した。
  • 沖は容貌都雅で寛厚に人心を得、靺鞨・契丹を懐柔しその死力を得た。奚・霫も畏懼し朝貢が続いた。高麗の入寇を撃退した。仁寿中、高祖は豫章王暕の妃に沖の女を納れ、民部尚書に召された。まもなく六十六歳で卒。少子の挺が最も知られた。

從父弟壽(世齡)

  • 壽、字は世齡。父の孝寛は周の上柱国・鄖国公。壽は周において貴公子として早くから令誉あり、右侍上士から千牛備身に遷り、趙王の雍州牧の主簿を務め、少禦伯に遷った。武帝の高氏親征では京兆尹を拝し後事を委ねられた。父の軍功で永安県侯邑八百戸を賜り、高祖の丞相時代には父が尉迥を平定した功で儀同三司・滑国公邑五千戸に進んだ。父の喪で去職後、恆・毛二州刺史として治名あり。開皇十年(590年)病により帰京、四十二歳で家に卒し諡を定という。仁寿中、高祖は晋王昭の妃にその女を納れた。子の保巒が嗣いだ。
  • 壽の弟の霽は太常少卿・安邑県伯に至った。津は内史侍郎・判民部尚書事に至った。
  • 世康の従父弟操、字は元節、剛簡で風概あり。周に仕え上開府・光州刺史に至り、高祖の丞相時代に尉迥平定の功で柱国・平桑郡公に進み、青・荊二州総管を歴任し官に卒し諡を靜という。