父張羨と自身の生涯
- 張煚、字は士鴻、河間鄚の人。父の羨は学を好み、魏で蕩難将軍、武帝の入関に従い銀青光禄大夫に累進。周太祖に従事中郎として引かれ叱羅氏の姓を賜り、司職大夫・雍州治中・雍州刺史・儀同三司を経て虞郷県公に封ぜられ、司成中大夫として国史を典掌。周代の公卿は武将が多い中、羨は文人として重んじられた。老年で致仕したが、高祖はその徳望を敬い、書を送って「舊齒名賢を大切にしたい」と朝に招き、謁見の際は拝を免じ、御榻に昇らせ手を執って同席し宴語し几杖を賜った。龍首への遷都の際は倹約を勧める上表をし、優詔で応えられた。まもなく八十四歳で卒し滄州刺史を贈られ諡を定という。『老子』『荘子』義を撰し『道言』五十二篇と名付けた。
- 煚は父の風を継ぎ学を好み、魏で奉朝請から出発し員外侍郎、周太祖に外兵曹として引かれ、閔帝受禅で前将軍、明帝・武帝の代に膳部大夫・塚宰司録・北平県子邑四百戸、宣帝時に儀同・伯に進んだ。高祖の丞相就任に深く結んで信任され、受禅後は尚書右丞・侯、太府少卿・営新都監丞。父の喪に柴毀骨立するも起用され儀同三司・虞郷県公を襲爵、邑通前千五百戸。太府卿・民部尚書、晋王広の揚州総管時の司馬・銀青光禄大夫。冀州刺史、晋王の長史・検校蔣州事、晋王の立太子後は再び冀州刺史・上開府。良二千石と称され、仁寿四年(604年)七十四歳で官に卒。子の慧寶は絳郡丞に至った。
劉仁恩・郭均・馮世基・厙狄嶔
- 開皇時に劉仁恩という者があった。出自は不明だが倜儻で文武の才幹があり、毛州刺史として治績天下第一と称され刑部尚書に擢られた。行軍総管として楊素の伐陳に従い荊門で陳将呂仲肅を破る計略に功が多く上大将軍を授けられ当時称賛された。馮翊の郭均、上党の馮世基は共に明悟な才略で相次いで兵部尚書となった。代の厙狄嶔は弘厚な人柄で局度があり民部尚書に至った。この四人は当世に名を顕したが事跡は散逸し史書は詳しく伝えていない。
史評
- 史臣は評して言う。趙煚・趙芬の二趙は故事に明るく当世に推されたが、宰相の任に就いても格別の功績は聞かれなかった。人の才器には各々分限があり大小異なるゆえ量を超えるべきでないことがこれで知れる。長孫平が誹謗の罪の赦免を諫めたのは仁人の言というべきで、高祖が喜んで従いその利益は大きかった。元暉は明敏で名を顕し、韋師は清白で名を成し、楊尚希・楊异は宗室の英才で誉望隆重、蘇孝慈・李雄・張煚は内外の実務にあたり皆貞幹と称された。いずれも開皇初年に用いられた当代の逸材である。