隋書卷四十七 列傳第十二 柳機

柳機、字は匡時、河東解の人(生年不明-没年不明、享年56)。父の柳慶は魏の尚書左僕射。周から隋にかけて納言・華州刺史などを歴任した寛簡な人物で、近侍として飲酒を好み細務には親しまなかった。子の柳述は蘭陵公主を娶り高祖の寵臣となった。

年表(7件)

出自と北周での経歴

  • 柳機、字は匡時、河東解の人。父の慶は魏の尚書左僕射。機は容儀に優れ器局があり経史に通じた。十九歳のとき周武帝がまだ魯公であった頃記室として引かれ、帝の嗣位後は宣納上士から少納言・太子宮尹に累進し平斉県公に封ぜられた。斉平定に従い開府、司宗中大夫に転じ、宣帝時に禦正上大夫に遷った。
  • 機は帝の失徳を見て諫めても聞かれず禍を恐れ鄭譯に頼って外任を求め、華州刺史となった。高祖の丞相就任で京師に召還されたが、周の旧臣が皆禅譲を勧める中、機だけは義を色に表し何も陳請しなかった。まもなく衛州刺史。受禅後は建安郡公邑二千四百戸に進み納言に召された。機は寛簡な性質で雅望があったが、近侍として損益するところなく飲酒を好み細務に親しまなかった。数年で華州刺史に再出され毎月の朝見を命じられ、冀州刺史に転じた。のち召し戻され、子の述が蘭陵公主を娶ったことでますます礼遇を受けた。

楊素との逸話と晩年

  • かつて周にあって族人の文城公昂と共に顕要を歴任した。この頃、機・昂はいずれも外職にあり、時に権勢を得ていた楊素が賜宴の席で機に「二柳(機・昂)は摧け孤楊(楊素自身)だけが聳える」と戯れ、座は歓笑したが機は無言であった。まもなく州に戻った。前後の作牧はいずれも寛惠と称された。数年後、病により召還され五十六歳で家に卒し、大将軍・青州刺史を贈られ諡を簡という。子の述が嗣いだ。

子述

  • 柳述、字は業隆、明敏で幹略あり文藝に通じた。父の廕で太子親衛から出発、蘭陵公主を娶ったことで開府儀同三司・内史侍郎を拝し、高祖の婿の中でも特に寵敬を受けた。まもなく判兵部尚書事。父の喪で去職後、給事黄門侍郎事を攝し建安郡公を襲爵。仁寿中、判吏部尚書事。述は職務に理はあるが大体をわきまえず下に暴で、寵に怙み驕豪で人に屈することがなかった。楊素が貴幸を誇っていた頃、朝臣は皆これを憚ったが述は素を陵侮し、しばしば上の前で素の短を面折した。判事が素の意に合わないと素は述に改めさせようとしたが「僕射に言え、尚書は肯じないと」と述べたため素はこれを恨んだ。
  • やがて楊素も疏まれ省務に関われなくなると、述への任寄はさらに重くなり兵部尚書として機密に参画したが、述は自ら「功もないのに過分な地位にある」として抗表し辞退を願い、高祖は攝兵部尚書事に留めた。高祖が仁寿宮で病臥した際、述は楊素・黄門侍郎元岩らと共に侍疾した。皇太子が陳貴人に無礼を働いたことを高祖が知り激怒し、述に房陵王(廃太子勇)を召すよう命じた。述は元岩と共に外で勅書を作ったが楊素がこれを知り皇太子と謀り矯詔で述・岩の二人を捕らえ吏に付した。
  • 煬帝嗣位後、述はついに除名され公主とも離縁させられた。龍川郡に徙され、公主も同行を願ったが帝は許さなかった(この事は『列女伝』に見える)。龍川に数年いた後さらに寧越に徙され、瘴癘に遭い三十九歳で死んだ。

弟旦

  • 旦、字は匡德、騎射に長け書籍にも通じた。周の左侍上士から出発し兵部下大夫に累進。益州総管王謙の反乱に行軍長史として梁睿の討平に従い儀同三司を授けられた。開皇元年(581年)開府を加え新城県男に封ぜられ掌設驃騎に遷った。羅・淅・魯三州刺史を歴任しいずれも能名あり。大業初め龍川太守を拝し、山間に住む住民が互いに攻撃し合う風俗を学校の設立で大いに変えたことを帝に称賛された。四年(608年)太常少卿に召され攝判黄門侍郎事、六十一歳で官に卒。子の燮は河内掾に至った。

旦弟肅

  • 肅、字は匡仁、聡敏で占対に長けた。周の斉王文学から出発、武帝に異才と見出され宣納上士を拝した。高祖の丞相時代、賓曹参軍として引かれ、開皇初め太子洗馬。陳使謝泉の来聘に才学で応対し評判が高かった。太子内舍人、太子僕を歴任したが太子廃黜に連座して除名され庶民となった。
  • 大業中、帝が段達と庶人(廃太子)の罪悪を語った際、達は「柳肅は東宮にあって大いに疎斥されていた」と述べ、その理由を問われて「学士劉臻が章仇太翼を宮中に進めて巫蠱事件を起こそうとした際、肅は殿下(皇太子)に『帝の嫡子として不孝を戒めるべきで、疑いを招くべきでない、劉臻は書生の戯言に過ぎず誤らせるだけだ』と諫めたが庶人は不快がり、後日臻に『なぜ漏らして柳肅に知られ面折されるのか』と言い、以後肅の言は用いられなくなった」と答えた。帝は「肅が理不尽に除名されたのはその罪ではなかった」と述べ礼部侍郎に召し、工部侍郎に転じて親任された。遼東行幸の際は涿郡留守に委ねられた。十一年(615年)六十二歳で卒した。

從弟雄亮

  • 雄亮、字は信誠。父の檜は周の華陽太守で黄眾寶の乱に殺害された。雄亮は十四歳で哀毀甚だしく密かに復讐を志し、黄眾寶が長安に帰順し武帝に厚遇された際、城中で眾寶を手ずから斬り闕下に自首したが帝は特にこれを赦した。梁州総管記室、湖城令を経て内史中大夫に累進し汝陽県子に封ぜられた。司馬消難の江北反乱時、高祖は雄亮を陳への使者として隣好を結ばせた。帰還後、高祖の受禅に伴い尚書考功侍郎、給事黄門侍郎に遷った。尚書省の奏事を多く駁正し公卿に憚られた。太子左庶子を検校し伯に進んだ。秦王俊の隴右鎮守に際し秦州総管府司馬・山南道行台左丞として官に卒し、五十一歳。子の贊。

從子謇之

  • 謇之、字は公正。父の蔡年は周の順州刺史。謇之は身長七尺五寸、儀容偉大で風神爽亮。童児の頃、周の斉王憲に見出され国子学に入り明経で及第、宗師中士から守廟下士に転じた。武帝の太廟親祭で祝文を清雅な声で読み評判となり宣納上士に擢られた。高祖の丞相時代、田曹参軍・典簽事として引かれ、開皇初め通事舍人、内史舍人、兵部・司勲二曹侍郎を歴任。飲酒に強く談謔に優れ、梁・陳の使者への応対を任された。光禄少卿として十余年、奏事の敷奏を担った。
  • 吐谷渾の来降に光化公主を宗女として妻せる際、謇之は散騎常侍を兼ねて公主を西域に送った。突厥啓民可汗の和親要求にも義成公主を送った。前後の奉使で得た馬千余匹などの贈物はすべて宗族に分け家に余財なし。仁寿中、粛州刺史・息州刺史として恵政あり、母の喪で去職。煬帝踐祚後、光禄少卿に復帰。大業初め啓民可汗が定襄・馬邑間に移動を求められた際の使者を務め帰還後奏事が旨に称い黄門侍郎を拝した。
  • 元德太子の薨去後、朝野は齊王が立つと注目し、大業三年(607年)齊王長史に任じられた。帝は儀式を整え吏部尚書牛弘・内史令楊約・左衛大将軍宇文述らを通じて謇之を齊王に付し、牛弘は往年の自身と輔佐の高熲・虞慶則・元旻の故事(先帝が子相を晋王(高祖)の輔佐に付した経緯)を語り、齊王への忠告とした。帝は謇之に「今卿を齊王の輔とする、匡救の理を尽くし朕の望みに副うように、王が善であれば富貴は卿の一門に及ぶが、不善であれば罪も及ぶ」と勅した。だが齊王が寵を恣にし喬令則らに近づいても謇之はその罪失を匡せず、王が罪を得ると謇之も連座して除名された。帝の遼東行幸に燕郡事の検校に召されたが班師の際、供頓不足の罪で嶺南に配戍され、洭口で六十歳で卒した。子の威明。

族弟昂

  • 昂、字は千里。父の敏は高名で礼を好み篤学、治家は官のようであった。周に仕え清顕を歴任し、開皇初め太子太保。昂は器識と幹局に優れ、周武帝時に大内史として文城郡公に封ぜられ開府に至り権勢を振るった。宣帝嗣位で疎遠にされたが本職は離れず、高祖の丞相就任時に深く結び高祖に喜ばれ大宗伯とされた。拝命の日に偏風(半身不随)を患い視事できなくなったが、高祖の受禅後に病が癒え上開府を加えられ潞州刺史を拝した。
  • 昂は天下泰平のこの時勧学行礼すべきと上表し、魏晋以来の戦乱による教化の衰微を憂い、高祖の聖徳による中興を讃え、礼教の推進を求めた。高祖はこれを善しとし詔を下し、魏斉抗衡以来の権詐重視・儒雅軽視の風俗を戒め、京師から州郡に至るまで学を勧め礼を行うよう命じた。これにより天下の州県に博士が置かれ礼が習われるようになった。
  • 昂は州にあって恵政あり、数年で官に卒した。

昂子調

  • 子の調は秘書郎から出発し侍御史に転じた。左僕射楊素が朝堂で調を見て「柳条は体弱く、独り搖れるのに風を要さぬ」と独り言ちたところ、調は板を斂めて色を正し「調に取るべき所がなければ公は侍御史に用いるべきでなかった、取るべき所があるならばこの言は発すべきでない、公は具瞻の地位にある、機の言葉を軽々しく発してはならない」と答え、素はこれを大いに奇とした。煬帝嗣位後、尚書左司郎に累進。当時朝綱が振るわず朝士の多くが贓貨に染まる中、調は清素で常を守り時に称賛されたが、幹用は長所ではなかった。

史評

  • 史臣は評して言う。韋氏は京兆に居して代々人物を輩出した。世康兄弟は余慶が鐘まり、あるいは禮闈(礼部)に入り、あるいは方岳に出て、車馬が陰を成すほど盛んであった、周から隋にかけて勲庸は共に茂り盛んというべきである。建安(世康)の風韻は閒雅で当時に望重かった。述は寵を恃んで人を驕り遂に傾敗を招いた。旦はしばしば恵政あり、肅は常に誠讜を存した。雄亮は名節を自立し忠正と称され、謇之は神情開爽ながら疏放が多かった。文城(昂)は二朝に仕え共に推重され、書を高祖に献じて学校を興した、道を弘める言はまことに利大なるものであった。