王世積
- 王世積、闡熙新渼の人。父の雅は北周の使持節・開府儀同三司。世積は容貌魁岸で腰帯十囲、風神爽拔で傑物の風格があった。北周で軍功により上儀同を拝し長子県公に封ぜられた。高祖が丞相の時、尉遅迥の乱に韋孝寛に従いたびたび功を立て上大将軍を拝した。高祖受禅後、宜陽郡公に爵を進めた。高熲はその才能を美とし深く親しみ、世積はかつて密かに熲に「我らは共に北周の臣子だった、社稷が滅んだ以上どうすればよいのか」と語ったが、熲は固くこれを拒んだ。まもなく蘄州総管を授かった。
- 平陳の役では舟師で蘄水から九江に赴き、陳将紀瑱と蘄口で戦って大破した。晋王広がすでに丹陽を平定していたため世積は書を送って告諭し、千金公権始璋に新蔡を略取させた。陳の江州司馬黄偲が城を捨てて逃げると始璋はその城に入った。世積が到着すると陳の豫章太守徐璒・廬陵太守蕭廉・潯陽太守陸仲容・巴山太守王誦・太原太守馬頲・斉昌太守黄正始・安成太守任瓘ら、および鄱陽・臨川の守将までもがみな世積のもとに降った。功により柱国・荊州総管に進み絹5000段と宝帯を賜り3000戸を食んだ。数年後、桂州の人李光仕が乱を起こすと行軍総管として討平した。上は都官員外郎辛凱卿を遣わして労い、還った後上柱国に進み物2000段を賜った。上はこれを深く重んじた。
- 世積は上の猜疑深い性質から功臣の多くが罪に問われるのを見て、以来酒に溺れ政務の話を避けた。上は酒による病と見て宮中に留め医師に療養させたが、世積は病が治ったと偽って邸に戻ることができた。遼東の役が起こると世積は漢王と共に行軍元帥となったが柳城で疫病に遭い引き返した。涼州総管を拝し騎士700人が送られた。まもなく親信の安定の皇甫孝諧が罪を犯し捕吏に追われ世積のもとに逃げてきたが世積はこれを受け入れず、孝諧に恨みを抱かれた。孝諧は桂州に配され総管令狐熙に仕えたが熙にも礼遇されず困窮し、僥倖を求めて上変し「世積はかつて道人に人相を見させ『公は国主となる相だ』と言われ、妻には『夫人は皇后となる相だ』と言われた、また涼州に赴く際、親しい者が『河西は天下の精兵の地、大事を図ることができる』と語ると、世積は『涼州は土地が広く人が少なく武を用いるべき国ではない』と答えた」と訴えた。これにより世積は召還され取り調べを受けた。有司は「左衛大将軍元旻・右衛大将軍元胄・左僕射高熲がみな世積と交わり名馬の贈与を受けていた」と奏した。世積はついに誅に処せられ、旻・胄らは免官され、孝諧は上大将軍を拝した。