隋書卷四十 列傳第五 元諧

元諧

  • 元諧、河南洛陽の人。家は代々貴盛であった。諧は豪侠な性で気概があり、幼くして高祖と共に国子学に学び深い友情を結んだ。のち軍功により大将軍に累進した。高祖が丞相となると側近に引かれ、諧は「公には党援がない、まるで水の中の一枚の壁のようで危うい、努めるべきだ」と進言した。尉遅迥の乱で小郷に賊が侵攻すると諧を遣わして撃破させた。高祖受禅後、上は諧に「水間の壁はいったいどうなったか」と笑って語り宴を催して大いに楽しんだ。上大将軍に進み楽安郡公(1000戸)に封ぜられ、詔により律令の修訂に参与した。
  • 吐谷渾が涼州を侵した際、詔で諧を行軍元帥に任じ行軍総管の賀婁子幹・郭峻・元浩らと歩騎数万を率いて撃たせた。上は「公は朝廷の期待を受け兵を率いて西下する、本来の目的は境を安んじ民を保つことであり無用の地を貪り荒服の民を害することではない、王者の師は仁義を旨とするべきだ、吐谷渾の賊が境界に至れば徳を示し教えで臨めば従わぬ者などいない」と勅した。賊将の定城王鐘利房が騎3000で河を渡り党項と結ぶと、諧は鄯州から青海を目指しその帰路を遮った。吐谷渾は諧を拒もうと兵を出し豊利山で相対、賊の鉄騎2万との激戦を諧は撃退した。賊は青海に駐屯し太子の可博汗に勁騎5万を率いさせ官軍を急襲させたが、諧はこれを逆撃して破り30余里追撃し捕虜・斬首は万を数え、虜は大いに震撼した。諧は書を送って禍福を諭すと、名王17人・公侯13人がそれぞれ部下を率いて降った。上は大いに喜び詔で「善を褒め功を賞ずるは古来のこと、諧は識用明達で神情警悟、文武の謀略は朝野に聞こえた、威を申べ土を拓き国境で功を成し、その深謀と大節は朕の心に適う、礼を加え代を延ばすべく賞典を隆んじる、柱国とし一子を県公に封ぜよ」とした。諧は甯州刺史を拝し威惠があったが、剛愎で人を排斥しがちであり周囲の受けが良くなかった。かつて上に「私は一心に主に仕え、曲げて人の意を取ることはしません」と語ると、上は「その言葉を最後まで貫くように」と答えた。のち公事により免ぜられた。
  • 当時上柱国王誼も功がありながら用いられず、諧としばしば往来していた。胡僧が諧と誼の謀反を告げ、上が調べさせたが逆状はなく、上は慰諭して釈した。まもなく誼が誅殺されると諧は次第に疎まれるようになったが、龍潜の旧誼から朝請には預かり恩礼を失わなかった。上が百官を大宴した際、諧は「陛下の威徳は遠くまで及んでおります、突厥の可汗を候正に、陳叔宝を令史に任じてはいかがでしょう」と進言したが、上は「朕が陳を平らげたのは罪を伐ち民を弔うためであり、天下に威を誇るためではない、公の奏上は朕の心にはそぐわない、突厥は山川を知らずどうして警候の任に堪えようか、叔宝は昏酔しておりどうして使役に堪えようか」と答え、諧は黙って退いた。
  • 数年後、ある者が諧と従弟の上開府滂・臨沢侯田鸞・上儀同祁緒らの謀反を告発した。上が調べさせると、有司は「諧は祁緒に党項の兵を統率させ巴蜀を断つよう謀り、当時政務を執っていた広平王雄・左僕射高熲の二人を讒言によって排除しようとし『左執法星の動きはすでに4年に及ぶ、状を一度奏上すれば高熲は必ず死ぬ』『太白が月を犯し光芒が相照らすのは大臣を殺す兆し、楊雄がこれに当たるだろう』と語った、諧はかつて滂と共に上に謁見した際『私こそが主人で、殿上にいる者は賊だ』と私語し、滂に望気させると滂は『あちらの雲は蹲狗・走鹿の如く、我らのように福徳を持つ雲には及ばない』と答えた」と奏した。上は大いに怒り、諧・滂・鸞・緒はみな誅殺され家は籍没された。