虞慶則
- 虞慶則、京兆櫟陽の人。もとの姓は魚。その先祖は赫連氏に仕え、それより霊武に家を構え代々北辺の豪傑であった。父の祥は北周の霊武太守。慶則は幼くして雄毅で倜儻な性であり、身長8尺、胆気に富み鮮卑語に通じ、重鎧を身に着け両側に弓箙を帯び左右に馳射し、本州の豪侠にも敬憚された。初めは弋猟を事としていたが、中頃節を折って読書に励み常に傅介子・班超のような人物を慕った。北周で中外府行参軍から起家し外兵参軍事に転じ沁源県公を襲爵した。宣政元年、儀同大将軍を授かり并州総管長史を除せられた。翌年、開府を授かった。稽胡がしばしば反乱を起こす中、越王盛・内史下大夫高熲がこれを討平した際、熲は盛と謀り文武の幹略に優れた者を鎮遏に当たらせるべきとして慶則を推挙し、石州総管を拝した。威惠著しく境内は清粛し、稽胡で義に慕い帰順する者が8000戸に及んだ。
- 開皇元年、大将軍に進み内史監・吏部尚書・京兆尹に遷り彭城郡公に封ぜられ新都営建の総監を務めた。開皇2年冬、突厥の侵入に対し元帥として討伐したが部署に失があり士卒の多くが寒凍に遭い指を落とす者が千余人に及んだ。偏将の達奚長儒が騎兵2000で別道から敵を邀えようとして虜に囲まれ苦戦したが、慶則は陣を保ったまま救援しなかった。このため長儒は孤軍で戦い十のうち八九が死んだが、上は慶則を咎めなかった。まもなく尚書右僕射に遷った。
- のち突厥の主攝図が内附しようとした際、重臣一人を使者として求めてきたため上は慶則を突厥に遣わした。攝図は強勢を恃み対等の礼を取ろうとしたが慶則は過去の経緯を挙げて責め、攝図は服さなかったものの副使の長孫晟がさらに説き、攝図とその弟の葉護はついに詔を拝受し臣を称して朝貢し永く藩属となることを願った。使いに立つ際、高祖は慶則に「私は突厥を存立させたいと思っている、彼らが馬を贈っても三頭か五頭だけ受け取れ」と勅していたが、攝図は慶則に馬千匹を贈りさらに娘を娶らせた。上は慶則の勲功が高いことからこれを問わず、上柱国・魯国公(任城県千戸)を授け、彭城公の封は次子の義に回された。
- 高祖平陳後、晋王邸に幸して群臣に酒宴を賜った際、高熲らが觴を捧げて寿を祝うと上は「高熲が江南を平定し虞慶則が突厥を降した、まことに大功と言うべきだ」と語り、楊素が「みな至尊の威徳の及ぶところです」と応じると、慶則は「楊素がかつて武牢・硤石に出兵した際も至尊の威徳がなければ勝てなかった」と言い返し、両者は互いに功を張り合った。御史がこれを弾劾しようとすると上は「今日は功を計って楽しむ日、弾劾には及ばない」と制した。群臣の宴射の際、慶則は「臣は酒食を賜り存分に楽しみたいのですが、御史が側にいては酔って弾劾されるのが恐ろしい」と述べると上は御史に酒を賜って退けた。慶則は觴を捧げて寿を祝い大いに楽しんだ。上は諸公に「この酒を飲めば私と諸公の子孫が今日のごとく末永く富貴を守れるように」と語った。開皇9年、右衛大将軍に転じ、まもなく右武候大将軍に改められた。
- 開皇17年、嶺南の李賢が州に拠って反乱を起こし、高祖が討伐を議した際、諸将は再三の出征を渋ったが、上は慶則に「宰相の位にあり上公の爵を持ちながら、国に賊があっても出征する気配がないのはなぜか」と問い、慶則は恐懼して拝謝し出征を命じられた。桂州道行軍総管として、妻の弟趙什柱を随府長史とした。什柱はかねて慶則の愛妾と密通しており、事の露見を恐れて「慶則はこの遠征を望んでいない」と言いふらし、これが上の耳に届いた。かねて出征する朝臣には宴を催し礼賜を送っていた上であったが、慶則の南征の辞去に際しては表情に不快を示し、慶則はこれ以来不満を抱いた。李賢平定後、潭州臨桂鎮に至り山川の形勢を眺めた慶則は「まことに険固な地で、糧が足り守る人材を得れば攻め落とせない」と語った。什柱はこれを機に急ぎ京師に赴いて奏事し上の顔色を伺うと、什柱は慶則の謀反を告げた。上が調べさせると慶則は誅に処せられた。什柱は柱国を拝した。
- 慶則の子の孝仁は幼くして豪侠で気概があり、儀同を拝し晋王親信を領した。父の事に連座して除名された。煬帝即位後、藩邸の旧誼により候衛長史を拝し金穀監を兼領し禁苑を監した。巧思に富み帝の意にかなうことが多かった。大業9年、遼東遠征に際し都水丞を授かり運輸の監督使となり功があった。しかし奢侈な性で駱駝に水を負わせ魚を養って自らに供した。大業11年、孝仁が謀反を企てていると告発され誅殺された。弟の澄道は東宮通事舎人であったが連座して除名された。