開皇九年の雅楽整備と牛弘の上奏(歴代楽制沿革)
- 開皇九年、陳を平定して宋斉旧来の音楽(清商楽)を接収し、太常に清商署を置いてこれを管掌させ、陳の太楽令蔡子元・於普明らを旧職に復させた。これを機に牛弘が上奏し、周代六代の楽から漢魏晋宋斉に至る楽舞沿襲の沿革を詳述した。秦始皇帝は周の舞を《五行》と改め、漢高帝は《韶舞》を《文始》と改め周と同じでないことを示し、さらに自らの功を表す《武徳》を新作した。高帝廟では《武徳》《文始》《五行》の舞が奏され、また《昭容》《禮容》が作られ、《昭容》は《武徳》すなわち古の《韶》に、《禮容》は《文始》すなわち秦の《五行》を正したものとされた。文帝はさらに《四時》舞を作り、孝景帝は先功を追述し《武德舞》を採って《昭德舞》を作り太宗廟に薦め、孝宣帝は《昭德舞》を《盛德舞》に改め武帝廟に薦めた。このように代々因襲しつつ改作しても皆《韶》を宗としたとされ、後漢明帝の代には東平献王が《文德舞》を採り《大武》舞として光武帝廟に薦めた。
- 続けて魏晋南北朝の楽制沿革を述べる。後漢末の戦乱で楽章が失われたが、魏武帝が荊州で杜夔を得て軍謀祭酒とし雅楽を創らせた(散騎侍郎鄧静・楽師尹胡・舞師馮粛が協力し、古楽を復興したのは杜夔に始まる)。文帝黄初に《昭容》を《昭業樂》、《武德》舞を《武頌舞》、《文始》舞を《大韶舞》、《五行》舞を《大武舞》と改称。明帝初に公卿が太祖武皇帝の楽を《武始》舞、高祖文皇帝の楽を《咸熙》舞と定め、さらに《章斌》舞を新たに制定し天地宗廟の祭祀・臨朝大饗に用いた。
- 晋武帝泰始二年、傅玄らに行礼・上寿・食挙の歌詩を作らせ、張華は「漢魏以来、詩章の辞は変わっても興廃は時に随い、韻逗曲折はすべて旧に系り、みだりに改めていない」と上表した。泰始九年、荀勗が典楽となり郭夏・宋識に《正德》《大豫》舞を作らせ、魏の《昭武》舞を《宣武舞》、羽籥舞を《宜文舞》と改称。江左の初め、典章は乱れていたが賀循が太常卿となり登歌の楽を創始し、大寧末に阮孚らが増補、咸和年間に鄴陥落後南下した楽人を再び集め、太元年間に前秦苻堅(苻永固)を破り楽工楊蜀らを獲得したことで金石の楽がようやく備わった。その懸架・音調は江左のものと同じであった。
- 慕容垂が長子で慕容永を破り前秦(苻氏)の旧楽をことごとく得たが、垂の子は北魏に敗れ、鐘律を掌る李仏らは太楽の伎人を率いて慕容徳の下(鄴)に走った。徳は広固に遷都し、子の超が嗣いだが、その母は先に姚興に捕らわれており、超は太楽伎百二十人を興に贈り母を贖った。宋武帝の関中入りでこれらはすべて南に接収され、永初元年に《正德舞》を《前舞》、《大武舞》を《後舞》と改称。文帝元嘉九年に太楽令鐘宗之が金石を調律し直し、十四年に典書令奚縦が再改定した。さらに《凱容》《宣業》舞が加わり斉代に継承された。蕭子顕『斉書志』は「宋の孝建初、朝議は《凱容舞》を《韶舞》、《宣業舞》を《武德舞》としたが、《韶》に照らせば《宣業》はむしろ古の《大武》であって《武德》ではない」と論じ、『斉書志』には《前舞凱容》歌辞・《後舞凱容》歌辭が載る。梁初もなお《凱容》《宣業》を用い、後に《大壮》《大観》と改称、当時なお《大観》を俗に《前舞》と呼んでおり、楽名は代を追って改まっても声韻曲折は理として常に同じであるはずだとされた。
- 以上を踏まえ牛弘は、「前に荆州を克って梁の雅曲を得、いま蔣州(陳)を平らげて陳の正楽を得た。史伝相承しており古に合すると考えられる。曲体・声次を見るに雅楽整備に用いるべきである。一方、後魏洛陽の曲は『魏史』に太武帝が赫連昌を平らげて得たとするが確証がなく、北周の楽はすべて新造で辺境異民族の声を雑えており、戎音が華を乱すものであるからすべて用いるべきでなく停止を請う」と述べた。
- 高祖は「制礼作楽は聖人の事であり、功が成り化が広く行き渡ってから議すべきで、天下がようやく平定されたばかりの今はまだその時期ではない」と詔した。晋王楊広(後の煬帝)が重ねて上表し、ようやく許可された。
牛弘等による五声六律・旋宮論議
- 牛弘は鄭訳の旧説を承け、古の五声六律に従い旋相為宮(十二律すべてを宮とする方式。雅楽の各宮に一調ずつ、迎気にのみ五調=五音を用い、縵楽には七調を用い祭祀に施用する)とすることを請うたが、高祖は蘇夔(原文「妥」)の言を記憶しており、牛弘の上奏に注記を付して旋宮の楽を許さず、黄鐘一宮のみを用いさせた。
- 牛弘は秘書丞姚察・通直散騎常侍許善心・儀同三司劉臻・通直郎虞世基らと詳議し、次のように述べた。
- 北周は四声(圜鐘を宮・黄鐘を角・太簇を徴・姑洗を羽として天を祀り、函鐘を宮以下で地を祀り、黄鐘を宮以下で宗廟を祀る)で降神していたが、これは『周礼』司楽に依るとはいえ年代が遠く久しく絶えた法であり用いるべきでない。馬融は圜鐘を応鐘とし、賈逵・鄭玄は夾鐘とするなど解釈が分かれ、また鄭玄は商声を用いない理由を柔剛を尊ぶためとし、干宝は商は臣を表すゆえ王者はこれを避けるとするなど諸説一致せず、律管の次第も乖離しており、今この四声を行うことはできない。
- 『東観漢記』馬防伝によれば、後漢建初二年に太子丞鮑鄴が「天子の飲食は四時五味に順うべきで食挙の楽があるが、今の雅楽は黄鐘のみ、食挙楽は太簇のみで月律に応じておらず気類を損ないかねない。十二月均をそれぞれの月気に応じて作れば公卿朝会でも月律を感じ和気が応じよう」と上言し、太常が楽器の製作費百四十六万銭を理由に一度奏を寝めたが、馬防は再度「上天の明時・歳首の嘉月に太簇の律を発し雅頌の音を奏して和気を迎えるべき」と述べ、これが独り施行され十月から始まる迎気の楽となった。また『順帝紀』陽嘉二年冬十月庚午の条には辟雍を太学に隷させ月律に随わせ、十月に応鐘、三月に姑洗を作り、元和以来乱れていた音律を黄鐘に復し楽器を旧典どおり作らせたとある。これらから、漢の宮懸には黄鐘均(郊廟)・食挙太簇均の二均のみがあり旋宮ではなかったことが明らかで、元和から陽嘉二年までおよそ五十年用いられただけで停止された。黄帝が鳳の声を聴いて律呂を制した故事、『尚書』の「六律五声を聞かんと欲す」、『周礼』の分楽而祭は、聖人の制作として天地陰陽の和・自然の理に合うものであり、これを「音戻り調わず」と評した説は甚だしい誣言であるとした。
- 一方、当代(梁陳)の雅曲はすべて宮声のみを用いる。『礼記』の「五声十二律、還相為宮」、盧植・鄭玄・皇侃の注釈(十二月ごとに黄鐘・大呂・太簇と宮を移し十二管・五声で六十声を成す)、『楽稽耀嘉』(東方春はその声角なるも夾鐘に宮するというように、他の律を宮として用いる例)、『動声儀』の「宮唱而商和」、『周礼』の「黄鐘を奏し大呂を歌う」に対する鄭玄の「均は調なり」との注、崔霊恩の「六楽十二調も商角徴羽のみを論ずるのではない」との説を検討し、商角徴羽を別調として用いる法はなく雅楽はすべて宮調によるべきと結論した。荀勗が三調(正声)の均首を論じたのも同旨で、雅楽は宮調に尽きるとの証であり、徴羽角は謡俗の音に過ぎない。西涼・亀茲などの雑伎は曲数が多く諸調に分属させてよいが、雅楽は数が少なく宮を本として十二均を歴するべきで、他調に分配すればかえって雑乱を招くと結論した。
- 高祖はこの奏をすべて採用し、隋代の雅楽は黄鐘一宮のみを用い、郊廟饗宴には一調、迎気には五調を用いることとなった。しかし旧工が次第に没するにつれ他の声律は伝わらなくなり、蕤賓の宮を作れる者があっても享祀の場で気づく者すらいなかった。
皇后房内の楽
- 牛弘は皇后房内の楽を修めるにあたり、毛萇・侯苞・孫毓らの故事はいずれも鐘声を用いるとするが、王粛は不可とし、陳統も「婦人には外事無く陰教は柔を尚ぶゆえ鐘を用いるべきでない」と述べたため、牛弘らは王粛・陳統説を採った。高祖は即位前(潜龍の時)音楽を好み、琵琶を弾じて《地厚》《天高》の二曲を自ら作り夫婦の義を託していたため、これを房内曲に採用し、婦人に登歌・上寿の際に用いさせ、宮内の女性に習わせた。
鐘磬懸架法の制定
- 北周の故事では鐘磬の懸架を七正七倍とし計十四とした。これは変宮・変徴を加えた七声に正・倍を配したもので、長孫紹遠は『国語』伶州鳩の「武王伐殷、歳在鶉火」(鶉火から駟まで七位)の故事や『尚書大伝』の「七始」(黄鐘・林鐘・太簇・南呂・姑洗・応鐘・蕤賓)を根拠とした。牛弘らはこれを一均についての説にすぎないとし、宮商角徴羽を正、変宮変徴を和として加倍し十四とする梁武帝の濁倍説(三七二十一で一架、繁会だが古に合わず)や、後魏公孫崇の正倍併懸の説もいずれも非とした。
- 牛弘らは『周礼』小胥職の「懸鐘磬、半之為堵、全之為肆」、鄭玄注(鐘磬を編懸し二八十六で一虡)、『楽緯』(宮は君、商は臣、ともに尊く各一副を置き十四に十六を加えて懸ける)、および漢成帝時に犍為の水中で得た石磬十六枚の故事を根拠に、懸架ごとに懸八用七(十六を懸けて七を用いる)を定め、北周に近い懸七の法は採らなかった。
宮懸の陳列法
- 『儀礼』『尚書大伝』を参用し、宮懸陳列の法を定めた。北方は北向きで応鐘を起点に磬・黄鐘・鐘・大呂の順に東へ並べ、建鼓一を東に配す(東鼓)。東方は西向きで太簇を起点に磬・夾鐘・鐘・姑洗の順に南へ、建鼓一を南に(東鼓)。南方は北向きで中呂を起点に鐘・蕤賓・磬・林鐘の順に西へ、建鼓一を西に(西鼓)。西方は東向きで夷則を起点に鐘・南呂・磬・無射の順に北へ、建鼓一を北に(西鼓)。大射では北面を撤して鉦鼓を加える。祭天には雷鼓・雷鞀、祭地には霊鼓・霊鞀、宗廟には路鼓・路鞀をそれぞれ二基ずつ懸内に設けた。
- さらに『儀礼』により宮懸四面に鎛鐘十二虡を各辰位に配し、甲丙庚壬の位には鐘一虡、乙丁辛癸の位には磬一虡を配し、計二十虡とした(宗廟・殿庭・郊丘・社もすべて同じ)。四隅に建鼓を立て二十四気を象り、月ごとに均を移し四方同時に演奏する形は毛伝『詩』の「四懸皆同」に基づく。鎛鐘は『儀礼』では拍節にのみ用い曲を成す意はなく、大射で二鎛を乱撃するのも成曲の理がないとされたが、北周にならい十二鎛を相生の順に打ち鳴らし声韻を調和させた。
- 楽人の配置:鎛鐘・建鼓各一人、鐘磬簨虡各一人、歌二人、執節一人、琴瑟箏築各一人、鐘虡ごとに竽笙簫笛塤篪各一人、懸内に柷(東)・敔(西)各一人、二舞は各八佾。楽人は平巾幘に絳褠衣を着した。楽器は『周官』を基本とし梁代の制も参照して善きものを採用、簨虡には金の五博山を飾り崇牙・羽旒蘇を樹てた。漆色は天地の神には硃漆、宗廟・殿庭には五色漆画とした(晋宋の故事では箱ごとに柷敔を備え同時に打ち鳴らしたが、隋では用いなかった)。
郊廟の楽の配当と諸楽名の制定
- 『周官』大司楽の「黄鐘を奏し大呂を歌い《雲門》を舞い天神を祀る。太簇を奏し応鐘を歌い《咸池》を舞い地祇を祭る。姑洗を奏し南呂を歌い《大韶》を舞い四望を祀る。蕤賓を奏し函鐘を歌い《大夏》を舞い山川を祭る。夷則を奏し小呂を歌い《大護》を舞い先妣を享る。無射を奏し夾鐘を歌い《大武》を舞い先祖を享る」という周制(六代の楽を十二調に配し一代の楽に二調を用いる)を踏まえつつ、隋には四望・先妣の祭がなく祭法が古と異なるため、祭祀の神祗位次に応じて改めて配当した。黄鐘を奏し大呂を歌い圜丘を祀る(黄鐘は六気を宣べるゆえ最も尊い耀魄天神に用いる)。太簇を奏し応鐘を歌い方沢を祭る(太簇は陽を賛け滞りを出すゆえ昆侖厚載の重きに用いる)。姑洗を奏し南呂を歌い五郊・神州を祀る(姑洗は百物を滌潔するゆえ天地に次ぐ位に用いる)。蕤賓を奏し函鐘を歌い宗廟を祭る(蕤賓は神人を安静にするゆえ祖宗の本に用いる)。夷則を奏し小呂を歌い社稷・先農を祭る(夷則は九穀を詠歌するゆえ秋成を貴ぶ祭に用いる)。無射を奏し夾鐘を歌い巡狩方岳を祭る(無射は人に軌物を示すゆえ観風望秩の祭に用いる)。いずれも文武二舞を用いた。圜丘の降神は六変、方沢は八変、宗廟禘祫の降神は九変とし、いずれも《昭夏》を奏し、その他の祭祀は一変とした。
- 『周礼』の王の出御に《王夏》、尸の出御に《肆夏》、叔孫通法の迎神《嘉至》に倣い、隋では事に応じて次のように名付けた。皇帝の出入には《皇夏》、群官の出入には《肆夏》、食挙・上寿には《需夏》、迎送神には《昭夏》、薦献郊廟には《誠夏》、宴饗殿上には登歌を奏し、文武二舞と合わせ八曲とした。古の宮商角徴羽の五引は梁代に三朝元会で用いられていたが、隋ではこれを「五音」と改め、声はすべて宮商に依り差越させず、迎気の五郊降神にのみ用いた(『月令』の「孟春其音角」の意)。以上を合わせ十三曲、さらに房中で奏する《天高》《地厚》の二曲を加え計十五曲とした。
登歌法
- 『礼記』郊特牲の「歌者在上、匏竹在下」、『大戴礼』の「清廟の歌は磬一つを懸け拊搏を尚ぶ」、漢代の登歌が絲竹で人声を乱さなかった故事、『尚書』の「戛擊鳴球、搏拊琴瑟以詠、祖考來格」の意を検討し、梁武帝が登歌を祖宗の功業を頌するものとし元日には用いないとした説(三朝の大慶で君臣が涕泣するのは道理が通らない)を退け、嘉慶の場に用いることとした。北周の登歌は鐘磬琴瑟を備え階上に笙管を設ける形で、隋もこれを踏襲し、『儀礼』の荷瑟升歌・笙入・間歌合楽(燕飲の礼)の意に合わせた。
- 登歌は十四人:鐘(東)・磬(西)各一人、琴瑟箏築各一人、歌者三人、執節七人はいずれも階上に座す。笙竽簫笛塤篪各一人は階下に立つ。いずれも進賢冠・絳公服を着した。祀神・宴会いずれにも通用し、大祀臨軒には階壇上に配し、冊拝王公には宮懸を設けるが登歌は用いず、釈奠には登歌のみを用い懸は設けなかった。
殿庭月調の制
- 古の人君の食には当月の律調を用い、五常の性を損なわず四体を調暢し時気の和を得させた。鮑鄴の上言(天子の飲食は四時に順い食挙楽を用い天地を順け神明を養う)の意を踏まえ、殿庭月調の義とした。祭祀はすでに楽を分けて配したので、臨軒朝会では当月の律を用い、正月は太簇の均、十二月に至るまで大呂の均とするなど月ごとに懸を変え、君臣の情性を感じさせ陰陽の序に協わせることとした。
文武二舞の制
- 文舞は六十四人、黒介幘・進賢冠・絳紗連裳・内単・皁の褾領襈裾・革帯・烏皮履を着し、十六人ずつ鸑(鸞)・O(旌の類)・旄・羽(左手に籥を執る)を執り、纛を執る二人が前を引いた(舞人数外、衣冠は舞人と同じ)。武舞六十四人は武弁・硃褠衣・革帯・烏皮履で、左に硃幹、右に大戚を執り「硃幹玉戚」の文に依った。旌を執る二人が前を導き、鞀二人・鐸二人が続き、金錞二基(四人で輿し二人が打つ)、鐃を執る二人、相を執る二人(左)、雅を執る二人(右、各工一人)が続いた(旌以下は舞人数外、衣冠は舞人と同じ。『周官』の「金錞和鼓・金鐲節鼓・金鐃止鼓・金鐸通鼓」の制に依る)。
- 『楽記』の意に依り、象徳擬功のため初めは総幹して山のごとく立ち(君道の難きを思う意)、発揚蹈厲し(威にして残ならざる意)、舞の終わりに皆坐す(四海の安き意)構成とし、武舞は六成(一成受命、二成定山東、三成平蜀道、四成北狄通、五成江南拓、六成復綴して太平を闡く)とした。高祖は「功徳を象るまでには及ばず、事のみを象れば足る」と述べたが、結局この構成のまま用いられた。近代の舞の出入にはいずれも階歩と称し《肆夏》を奏す法があり、これに依った(『周官』の「楽の出入に鐘鼓を奏す」の意)。魏晋の故事にあった《矛俞》《弩俞》・硃儒導引は、漢高祖が漢中より帰った際の巴渝の兵が仗を執って舞ったことに由来する非正典として廃止し、『尚書』の「干羽」、『礼』の「羽籥干戚」の文に依り文舞には羽籥、武舞には干戚のみを執らせた。
開皇十四年 楽定の奏と歌辞三十首の制定
- 開皇十四年三月、楽制が定まった。秘書監・奇章県公牛弘、秘書丞・北絳郡公姚察、通直散騎常侍・虞部侍郎許善心、兼内史舎人虞世基、儀同三司・東宮学士饒陽伯劉臻らが上奏し、蕢桴土鼓以来の楽の由来、秦の焚書による楽書散逸と漢の興起以降の整備、魏晋の継承、永嘉の乱による中原崩壊と江南への遷移で内地との音楽的隔絶がおよそ三百年に及んだ経緯を述べ、「南征により梁・陳の楽人と晋宋の旗章を得、前代に服さなかったものを今すべて得た。詳定雅楽の詔を奉じ知音を博く訪ね是非を研校し取捨を定め、一代の正楽として太常に具えた」と報告した。歌辞三十首が撰され、詔によりすべて施行、それまで行われていたものはすべて停止された。民間の音楽で旧体を失ったものも禁約し、本来の姿を保たせた。
高祖期の清廟歌辞と煬帝の改定要求
- これに先立ち、高祖は内史侍郎李元操・直内史省盧思道らに清廟歌辞十二曲を作らせ、斉の楽人曹妙達に太楽で教習させて北周の歌に代えていた(迎神七言は《元基曲》、献奠登歌六言は《傾杯曲》、送神礼畢五言は《行天曲》に象る)。牛弘らはその声律のみを鐘律に合わせ改め、辞は勅定済みとしてそのまま用いた。
- 仁寿元年、皇太子であった煬帝が太廟饗祀に従い、清廟歌辞が「文多く浮麗で功徳を述べ宣揚するに足りない」として改定を上言した。詔により吏部尚書・奇章公牛弘、開府儀同三司・領太子洗馬柳顧言、秘書丞・摂太常少卿許善心、内史舎人虞世基、礼部侍郎蔡徴らが故実を詳究し新たに雅楽歌辞を制作した。
- 圜丘祭祀の式次第が定められた。皇帝が入り版位に定まると《昭夏》の楽で降神、升壇に《皇夏》、玉帛を受け登歌に《昭夏》、南陛に降り罍洗し升壇するとき《皇夏》、俎入に《昭夏》、初献に《諴夏》、既に献ずると文舞、飲福酒に《需夏》、爵を坫に反し本位に還るとき《皇夏》、武舞出御に《肆夏》、送神に《昭夏》、燎位に就き大次に還るときいずれも《皇夏》を奏することとされた。
開皇~仁寿の郊廟・元会歌辞
- 圜丘の各段(降神《昭夏》、皇帝升壇《皇夏》、登歌、初献《諴夏》、文舞、飲福酒《需夏》、武舞、送神《昭夏》、燎位・大次還御《皇夏》)にはそれぞれ専用の歌辞が作られ、いずれも皇天への崇敬・皇帝の徳と国家の永祚への祈願を主題とした四言詩形式の頌歌であった。
- 五郊歌辞五首(青帝は角音・震宮・木徳・春、赤帝は徴音・炎徳・夏、黄帝は宮音・坤位・季夏、白帝は商音・秋・粛殺、黒帝は羽音・冬・閉蔵)は、迎送神・登歌をいずれも圜丘と共通とし、各帝の徳・時令にちなむ内容を歌った。
- 感帝(《諴夏》。迎送神・登歌は圜丘と共通。禘祖の礼、春正月の郊祀、火徳の隆盛を歌う)、雩祭(《諴夏》。同じく圜丘と共通。夏の祈雨、公田私田の潤いと人殷俗富を歌う)、蜡祭(《諴夏》。同じく圜丘と共通。四方の八蜡酬功・収蔵の終わりと年成物阜を歌う)が定められた。
- 朝日・夕月の歌辞二首(迎送神・登歌は圜丘と共通)は、それぞれ日輪・月輪の運行と礼の完成を歌った。
- 方丘歌辞四首(迎神《昭夏》・奠玉帛登歌・皇地祇《諴夏》・送神《昭夏》のみ圜丘と異なり、他は同じ)は、地の徳・報功の礼を歌った。神州(《諴夏》。迎送神・登歌は方丘と共通)は四海の内・神州の物産と泰折の饗を歌った。
- 社稷歌辞四首(春祈社・春祈稷・秋報社・秋報稷、いずれも《諴夏》、迎送神・登歌は方丘と共通)は農事の祈報を、先農(《諴夏》。迎送神は方丘と共通)は農耕の始まりを、先聖先師(《諴夏》)は経国立訓・学問の伝承(三墳・五典・東膠西序など)を歌った。
- 太廟歌辞は迎神・登歌・俎入(郊丘・社・廟共通)・飲福酒(郊丘・社・廟共通)に加え、皇高祖太原府君・皇曾祖康王・皇祖献王・皇考太祖武元皇帝の各神室ごとの献辞、送神辞からなり、いずれも隋の帝系各代の徳業を讃えた。
- 元会(正月朝賀)では、皇帝出入《皇夏》(郊丘・社・廟共通)、皇太子出入《肆夏》、食挙歌辞八首(燔黍設教から皇道四達に至るまで、飲食の礼と天下太平の徳化を歌う連作)、上寿歌辞、宴群臣登歌辞、文舞歌辞、武舞歌辞、大射登歌辞が定められた。
- 《凱楽》歌辞三首(述帝徳・述諸軍用命・述天下太平)は、それぞれ高祖の徳、南征に従軍した将士の功、天下太平の実現を頌した。
- 皇后房内歌辞は后妃の徳と六宮の教化を歌った。
大業元年 高廟楽改定の議(未完に終わる)
- 大業元年、煬帝は高廟の楽を修めるよう詔し、漢代の諸廟が別所であったのが光武帝以後に共堂の制が立てられた経緯、魏文帝が太祖のみを別宮に祀った先例を挙げ、「高祖文皇帝の功業は造物に等しく生霊を済うもので、享薦・楽舞も別にすべきだが、月祭時饗ではなお諸祖と共庭であるのに舞功のみ一室に留まるのは礼意に反し人情に合わない」として詳議を命じた。有司が奏上する前に、煬帝は礼楽の事一切を秘書監柳顧言・少府副監何稠・著作郎諸葛穎・秘書郎袁慶隆らに委ね、開皇の楽器を増やし楽員を大いに増員、郊廟の楽懸を新たに製することとしたが、顧言らが相次いで没したため改作は難しくなり議は結局中止された。郊廟歌辞も旧制のまま用いられ、新造されたのは《高祖廟歌》九首のみであった(今は亡失)。秘書省学士に殿前楽工歌十四首を定めさせ、大業年間を通じて用いられた。
- 煬帝は鐘律歌管に通じる者を博く訪ねさせ、曹士立・裴文通・唐羅漢・常宝金らが集められたが、彼らは操弄には通じても雅楽と鄭声の区別に暗く、結局太常に委ねて刪定させた。百四曲(宮調五曲=黄鐘、応調一曲=大呂、商調二十五曲=太簇、角調十四曲=姑洗、変徴調十三曲=蕤賓、徴調八曲=林鐘、羽調二十五曲=南呂、変宮調十三曲=応鐘)の修定が議されたが、詩を本とし古調を参照する方針であったものの、軍事に追われ刊正に至らず、この礼楽整備は結局成功しなかった。
大業年間の楽工増補と房内楽・宮懸の拡充
- 漢から梁陳に至るまで楽工の総数は代を超えて大きくは変わらなかったが、北周が北斉を併せ、隋が陳を併せてそれぞれの楽工を得て多くを編戸とした。大業六年、煬帝は魏・斉・周・陳の楽人の子弟を大規模に括り出し、悉く太常に配属し関中に坊を置いて集住させ、その数は前代を大きく上回った。柳顧言らはさらに仙都宮の四時祭享には太廟の楽をそのまま用い、功徳を歌う辞のみ別に制作するとし、七廟同院では楽は旧式に依ることとした。饗宴殿庭の宮懸楽器・簨虡の陳列も新造され、四隅に建鼓二・案三をそれぞれ加え、十二鎛(鎛ごとに鐘磬各二架、辰位に応じ調律)を設け計三十六架とした(音律節奏は雅曲に依るが繁会を旨とし梁武帝に始まる形式で、開皇には廃されていたものを復活させた)。
- 高祖の代には宮懸楽器は一部のみで殿庭饗宴に用い、平陳で得たものを含め二部を宗廟・郊丘に分用していたが、この時にはこれらをすべて楽府に蔵して用いず、新たに三部(五郊二十架・工百四十三人、廟庭二十架・工百五十人、饗宴二十架・工百七人、舞郎各二等計百三十二人)を造った。
- 顧言はさらに房内楽(王后が弦歌諷誦して君子に仕えるための楽)に鐘磬を加える奏議を行い、『礼記』の宴礼饗飲酒礼にも房内楽が用いられること、『磬師職』の「燕楽の鐘磬」に対する鄭玄注(燕楽は房内楽・陰声で金石を備える)、『内宰職』の「正后服位、詔其礼楽之儀」に対する鄭玄注(薦撤の礼は楽と相応ずべき)を根拠に、房内の楽は弦歌のみでなく必ず鐘磬を備えるべきとし、歌鐘・歌磬各二虡を設け土革絲竹をこれに副え、升歌・下管を合わせ房内の楽と総称し、女奴に習わせ朝燕に用いることを請い、許された。内宮の懸は二十虡とされ、鎛鐘十二はすべて大磬で代え、建鼓を去り、他の飾りは殿庭と同じとした。
皇太子の軒懸
- 皇太子の軒懸は南面を去り、辰・丑・申の位に鎛鐘三と建鼓三を設け、編鐘三虡・編磬三虡を合わせて九虡とした。登歌は殿庭より二人減じ、簨虡は金の三博山とし、漆を施す楽器は硃漆とした。二舞は六佾とした。
雅楽楽器二十種
- 隋の雅楽・鼓吹はおおむね開皇の旧制に依った。雅楽は合わせて二十器からなる。
- 金の属二種:鎛鐘(律呂の音にそれぞれ応じ一鐘一簨虡、黄帝が伶倫に命じ鋳させた十二鐘に由来)、編鐘(小鐘。律呂に応じ大小順に上下各八、計十六鐘を一簨虡に懸ける)。
- 石の属一種:磬(玉または石製、編鐘同様に懸ける)。
- 絲の属四種:琴(神農が五弦を制し周文王が二弦を加え七弦とした)、瑟(二十七弦、伏犠の作)、築(十二弦)、箏(十三弦、秦声、蒙恬の作と伝える)。
- 竹の属三種:簫(十六管、長二尺、舜の作)、篪(長一尺四寸・八孔、蘇公の作)、笛(十二孔、漢武帝時に丘仲が作。京房は七孔で七声に応じるものを備えた。黄鐘の笛は長二尺八寸四分四厘余)。
- 匏の属二種:笙・竽(ともに女媧の作。笙は十九管で匏内に簧を施し吹く。竽は大型で三十六管)。
- 土の属一種:塤(六孔、暴辛公の作)。
- 革の属五種:建鼓(夏后氏が四足を加え足鼓、殷人が柱を貫き楹鼓、周人が懸けて懸鼓、近代は植えて貫く建鼓と呼び殷の作かとされる。上に鷺を棲ませる由来は諸説あり不詳。『詩』の「振振鷺、鷺於飛。鼓咽咽、酔言帰」を引き、周道の衰えを悲しんだ古の君子が鼓に鷺を飾り遺風を留めたとする説もある)、靈鼓・靈鞀(八面)、雷鼓・雷鞀(六面)、路鼓・路鞀(四面)。鼓は桴で打ち、鞀は柄を貫いて手で揺らす。ほかに節鼓があるが作者不詳。
- 木の属二種:柷(桶形、方二尺八寸、中の椎柄を左右に動かし打って楽を節す)、敔(伏獣形、背に二十七の鉏鋙があり、竹の尺を横に擦って楽を止める)。
- 簨虡(鐘磬を懸ける架。横木を簨、縦木を虡といい、簨は鱗属を、虡は臝・羽属を飾りとする。簨の上に木板=業を加え、殷人は崇牙を刻んで懸を掛け、周人は繒に画き璧を戴せ五采の羽を垂らして簨虡の角に樹てた。近代はさらに簨上に金博山を加え流蘇を垂らし采羽と合わせ、五代を通じて同じ形式が用いられた)。
開皇の七部楽と四舞存続の奏
- 開皇初年、令を定めて七部楽を置いた。一に国伎、二に清商伎、三に高麗伎、四に天竺伎、五に安国伎、六に亀茲伎、七に文康伎。ほかに疏勒・扶南・康国・百済・突厥・新羅・倭国等の伎も雑用された。
- のち牛弘は鞞・鐸・巾・払の四舞を新伎と併せ残すことを請い、「漢魏以来これらは宴饗に用いられてきた。鞞舞は漢の巴渝舞で、章帝が『関東有賢女』の辞を作らせ魏明帝は『明明魏皇帝』に代えた。鐸舞は傅玄が魏に代えて『振鐸鳴金』の辞を作り成公綏の賦にも『鞞鐸舞庭、八音並陳』とある。払舞は沈約『宋志』に呉舞で呉人が晋への帰化を思う意とされ、辞に『白符鳩』とある。巾舞は公莫舞で、伏滔によれば項荘が舞に事寄せて高祖を剣で狙い項伯が長袖でこれを遮った故事に由来し、魏晋で舞として伝わった。これらは正楽ではないが前代からの旧声であり、梁武帝も沈約への返書で『鞞鐸巾払は古の遺風』と述べている。楊泓によれば元来二佾八人の舞であったが桓玄の即位後八佾に改められ以後改まらず、斉の王僧虔も既にこの事を論じている。平陳で得たものも八佾のままであり、これを宮懸内で二舞(文武二舞)の後に続けて奏さないのは大きな損失である。四舞の由来は久しいので、宴会において雑伎と併せ西涼楽の前に奏することを請う」と述べた。高祖は「声音節奏と舞は旧に依るが、舞人は鞞・払等を捉る必要はない」とした。
大業の九部楽の制定
- 大業年間、煬帝は清楽・西涼・亀茲・天竺・康国・疏勒・安国・高麗・礼畢の九部を定めた。楽器・工人の衣装がこの時新たにすべて整えられた。
清楽
- 清楽はもと《清商三調》で、漢代以来の旧曲であった。楽器の形制・歌章の古辞は魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)の作とともに史籍に見える。晋の南遷・夷羯の侵入により音楽は各地に分散し、前秦苻堅が張氏(前涼)を平らげた際に涼州で再発見され、宋武帝の関中平定で南朝に伝わったがその後内地には存在せず、陳平定後に再び得られた。高祖はこれを聴き「これぞ華夏の正声である。昔、永嘉の乱により江外に流れたが、我は天の明命を受け今再びこれと会同した。時が移っても古の趣は残っている。これを本として少し損益を加え、哀怨の調を去り、新定の律呂で楽器を新造せよ」と述べた。歌曲に《陽伴》、舞曲に《明君》《並契》があり、楽器は鐘・磬・琴・瑟・撃琴・琵琶・箜篌・築・箏・節鼓・笙・笛・簫・篪・塤の十五種で一部を成し、工二十五人。
西涼
- 西涼楽は苻氏の末に呂光・沮渠蒙遜らが涼州に拠り、亀茲の声を変えて創り秦漢伎と号したことに始まる。北魏太武帝が河西を平定して得、《西涼楽》と称し、魏周の頃には《国伎》と呼ばれた。曲項琵琶・豎頭箜篌の類はいずれも西域由来で華夏本来の楽器ではない。《楊沢新声》《神白馬》の類は胡戎から出た歌で漢魏の遺曲ではなく、楽器・声調も文献の記述と異なる。歌曲に《永世楽》、解曲に《万世豊》、舞曲に《于闐仏曲》があり、楽器は鐘・磬・弾箏・搊箏・臥箜篌・豎箜篌・琵琶・五弦・笙・簫・大篳篥・長笛・小篳篥・横笛・腰鼓・斉鼓・担鼓・銅拔・貝の十九種で一部、工二十七人。
亀茲
- 亀茲楽は呂光が亀茲を滅ぼして得たことに始まり、呂氏滅亡後は分散したが北魏が中原を平定し再び獲得、その後声調はしばしば変化した。隋には《西国亀茲》《斉朝亀茲》《土亀茲》の三部があった。開皇中、この楽は都で大いに盛んになり、曹妙達・王長通・李士衡・郭金楽・安進貴らが弦管の妙手として新声奇変を朝改暮易し、王公の間で技を競い時人がこぞって慕った。高祖はこれを憂い群臣に「公らが好んで新変を奏し正声がないと聞く。これは不祥の大事である。家が国を形作り化は人風を成す。天下だけでなく各家にも風俗があり存亡善悪はこれに繋がる。楽が人を感じさせる力は深く事は和雅を資とする。公らは親賓との宴飲では正声を奏すべきで、声が正しくなければ児女に聞かせられようか」と勅したが結局改まらなかった。
- 煬帝は音律を解さず一切関心を持たなかった。のち艶篇を多く作り辞は極めて淫綺で、楽正白明達に新声を作らせ、《万歳楽》《蔵鉤楽》《七夕相逢楽》《投壺楽》《舞席同心髻》《玉女行觴》《神仙留客》《擲磚続命》《闘鶏子》《闘百草》《泛竜舟》《還旧宮》《長楽花》《十二時》等の曲を創らせ、いずれも掩抑摧蔵で哀音断絶するものであった。煬帝はこれを飽きることなく喜び、幸臣に「多く曲を弾く者は多く書を読む者のようなもので、読書が多ければ書を撰することができ、曲を弾くことが多ければ曲を作ることができる。この理は当然のことだ」と語り、白明達には「斉は片隅にありながら曹妙達は自ら王に封ぜられた。我は今天下を統一し汝を貴くしたいので自ら修め謹むべきだ」と語った。大業六年、高昌が《聖明楽》曲を献じ、知音の者に館所で聴かせ習わせて、高昌の使者が正式に献ずる際に先んじてこれを奏し胡夷を驚かせた。歌曲に《善善摩尼》、解曲に《婆伽児》、舞曲に《小天》、また《疏勒塩》があり、楽器は豎箜篌・琵琶・五弦・笙・笛・簫・篳篥・毛員鼓・都曇鼓・答臘鼓・腰鼓・羯鼓・雞婁鼓・銅拔・貝の十五種で一部、工二十人。
天竺
- 天竺楽は張重華が涼州に拠った際、四訳を重ねて男伎を貢がせたことに始まる。歌曲に《沙石疆》、舞曲に《天曲》があり、楽器は鳳首箜篌・琵琶・五弦・笛・銅鼓・毛員鼓・都曇鼓・銅拔・貝の九種で一部、工十二人。
康国
- 康国楽は北周武帝が北狄(突厥)の女を后とした際に得た西戎の伎に基づく。歌曲に《戢殿農和正》、舞曲に《賀蘭鉢鼻始》《末奚波地》《農恵鉢鼻始》《前抜地恵地》の四曲があり、楽器は笛・正鼓・加鼓・銅拔の四種で一部、工七人。
疏勒・安国・高麗
- いずれも北魏が馮氏(北燕)を平定し西域と通交した際に得た伎楽で、次第にその声を増補し太楽と区別された。
- 疏勒楽:歌曲に《亢利死譲楽》、舞曲に《遠服》、解曲に《塩曲》。楽器は豎箜篌・琵琶・五弦・笛・簫・篳篥・答臘鼓・腰鼓・羯鼓・雞婁鼓の十種で一部、工十二人。
- 安国楽:歌曲に《附薩単時》、舞曲に《末奚》、解曲に《居和祗》。楽器は箜篌・琵琶・五弦・笛・簫・篳篥・双篳篥・正鼓・和鼓・銅拔の十種で一部、工十二人。
- 高麗楽:歌曲に《芝棲》、舞曲に《歌芝棲》。楽器は弾箏・臥箜篌・豎箜篌・琵琶・五弦・笛・笙・簫・小篳篥・桃皮篳篥・腰鼓・斉鼓・担鼓・貝の十四種で一部、工十八人。
礼畢
- 礼畢楽はもと晋の太尉庾亮の家に出る。亮の没後、その伎人が亮を追慕して仮面を作りこれを執って舞い、その容貌を象って諡号で号し《文康楽》と称した。九部楽を奏し終えるごとにこれを陳べたため「礼畢」と名づけられた。行曲に《単交路》、舞曲に《散花》があり、楽器は笛・笙・簫・篪・鈴槃・鞞・腰鼓の七種、三懸で一部、工二十二人。
百戯の流行
- 北斉の武平年間、魚竜爛漫・俳優・侏儒・山車・巨象・抜井・種瓜・殺馬・剥驢等、奇怪異端百余種があり百戯と称された。北周では鄭訳が宣帝に寵愛され北斉の散楽人を京師に集めさせたが、これは秦の角抵に連なるものである。開皇初年にはこれらをすべて放遣した。
- 大業二年、突厥の染幹(啓民可汗)が入朝すると、煬帝はこれを誇示しようと四方の散楽を東都に総集させた。芳華苑積翠池のほとりで宮女とともに観覧し、まず「舎利」という演目が場内で跳躍し水を衢に満たし黿鼉亀鰲・水人虫魚が地を覆う演出を見せ、続いて大鯨魚が霧を噴いて日を翳らせ忽ち黄竜(長さ七八丈)に化して踊り出る《黄竜変》を演じた。また両柱の間十丈に綱を渡し二人の倡女が綱上で舞いすれ違いながら肩を掠めて歌舞を続ける演目、夏育の鼎持ち上げ(車輪・石臼・大甕を掌上で弄ぶ)、二人が竿を戴きその上で舞い忽ち位置を入れ替える演目、神鰲が山を負う幻術、幻人の火吹きなど千変万化、曠古未曾有であり、染幹は大いに驚いた。以後これらはすべて太常で教習されるようになった。
- 毎年正月、万国来朝の際は十五日まで、端門外・建国門内の八里にわたり戯場を連ね、百官が路の両側に棚を建てて昏より旦まで見物し晦日に終えた。伎人は錦繍繒彩を着し、歌舞者の多くは婦人の服を着て環佩を鳴らし花毦を飾り、その数はおよそ三万人に及んだ。当初京兆・河南にこの衣装を作らせたため両京の繒錦が枯渇するほどであった。大業三年、煬帝が榆林に行幸した際、突厥啓民が行宮に朝じたのでこれを再び示した。六年には諸夷が方物を大いに献じ、突厥啓民以下が国主自ら朝賀に来たため天津街で百戯を盛大に催し海内の奇伎をことごとく集めた。器玩は珠翠金銀・錦罽絺繍を尽くし、費用は巨億万に上った。関西は安徳王楊雄、東都は斉王楊暕がこれを統括し、金石匏革の音は数十里の外まで聞こえ、弦管を弾ずる者一万八千人、大いに炬火を列ね光が天地を照らし、百戯の盛んなことは古来比類がなかった。以後これが毎年の常例となった。
鼓吹の制度――廟内鼓吹の停止
- 故事では天子が太廟に事あるときは法駕を備え羽葆を陳ねて次に入り、礼が終わって車に升ると鼓吹が奏された。開皇十七年、詔して「五帝三王はそれぞれ礼楽を異にし事に応じて損益し情に応じて節文を立てた。宗廟祭祀は敬い在すが如く仰ぐもので罔極の感がこの日ことに深い。しかるに礼が終わり路に升ると鼓吹が鳴り宮門に還ると金石が振り響くのは、哀と楽が同日に生じ心事が相違うもので情において安からず理においても未だ允当でない。今後は享廟の日に鼓吹を設けず殿庭に楽懸も設けないこととする。廟内および諸祭祀はなお旧に依る。王公以下も私廟祭祀の日に音楽を作ってはならない」とした。
大業の鼓吹十二案の制
- 大業年間、煬帝は宴饗に鼓吹を設けるにあたり梁に倣い十二案とした。案ごとに錞於・鉦・鐸・軍楽鼓吹等一部を備え、案の下には熊羆貙豹の形の台座を据え百獣の舞に象った。大駕鼓吹はすべて硃漆で彩色し、大駕の鼓吹・小鼓には金鐲を加え、羽葆鼓・鐃鼓・節鼓はいずれも五采の重蓋を施し、羽葆鼓はさらに羽葆で飾った。長鳴・中鳴・大小横吹は五采の衣幡・緋掌に交竜を画き五采の脚を付け、大角の幡も同様とした。大鼓・長鳴・大横吹・節鼓および横吹に続く笛・簫・篳篥・笳・桃皮篳篥等の工人の服は緋地に苣文の袍袴・帽、金鉦・㭎鼓の鉦鼓には八角の紫傘を加えた。小鼓・中鳴・小横吹および横吹に続く笛・簫・篳篥・笳・桃皮篳篥等の工人の服は青地苣文の袍袴・帽、羽葆鼓・鐃および歌・簫・笳の工人は武弁・硃褠衣・革帯、大角の工人は平巾幘・緋衫・白布大口袴とし、鼓吹督帥の服は大角と同じくその下も督帥に準じた。
- 曲数は次のとおりであった。㭎鼓一曲(十二変、金鉦と同じ、夜警に一曲を用い尽くす)に続き大鼓を奏す。大鼓は大駕に十五曲、皇太子に十二曲、王公等に十曲。小鼓は大駕に九曲、皇太子・王公等に三曲。長鳴色角は大駕に百二十具、皇太子に三十六具、王公等に十八具。次鳴色角は大駕に百二十具、皇太子に十二具、王公等に十具。大角は第一曲「起捉馬」・第二曲「被馬」・第三曲「騎馬」・第四曲「行」・第五曲「入陣」・第六曲「収軍」・第七曲「下営」の七曲からなり、それぞれ三通で一曲とし、その辞はいずれも鮮卑語に基づく。鐃鼓は大駕に十二曲、皇太子に六曲、王公等に三曲(楽器は鼓および歌・簫・笳)。大横吹は大駕に二十九曲、皇太子に九曲、王公に七曲(楽器は角・節鼓・笛・簫・篳篥・笳・桃皮篳篥)。小横吹は大駕に十二曲、夜警にはその十二曲すべてを用いる(楽器は角・笛・簫・篳篥・笳・桃皮篳篥)。