隋書卷十六

序説――音律の意義と沿革

  • 天地・人物を治めるには、乾坤の理に則り音律・暦法を整えることが要である。古来、聖王は葦の笛や笙で音を発し、律呂(十二音階の基準管)を定めてきた。『書経』にも「四時と月と日を正し、音律・度・量・衡を統一する」とあり、音律は政治・軍事の吉凶を占う根本ともされた(太史公『律書』引用)。
  • 秦の焚書で音律の学は衰え、漢の張蒼・司馬遷・劉歆・班固らが順に整理した。後漢の蔡邕、晋の司馬紹統がこれを継いだ。後漢末の戦乱で楽工・楽器は失われ、魏の杜夔が音律を定め直し、晋の荀勖が泰始十年に新たな尺度で律呂を改鋳した。荀勖の子・荀藩が事業を継ごうとしたが永嘉の乱で典章は石勒のもとに失われ、東晋南遷後も楽制は整わないまま恭帝・安帝の代に至った。
  • 南朝宋の何承天・銭楽之は京房の六十律を三百六十律にまで拡張し、梁の沈重がその名数を記した。北魏・北周・北斉でも論者があったが、本志は班固『漢書』律暦志に依拠して五代(魏晋南北朝〜隋)の声律・度量衡を編録する。
  • 『漢書』律暦志の言う律の五要素は、備数(数の体系)・和声(音律)・審度(長さ)・嘉量(容積)・衡権(重さ)である。

備数

  • 数の基本は一・十・百・千・万。律の数は建子(黄鐘)から起こり、九辰(酉まで)を経て一万九千六百八十三となり五数が備わる。さらに亥まで十二辰を経ると十七万七千一百四十七となり、これを黄鐘の律積とする。律積を成法(九)で割ると九寸となり、これが黄鐘宮律の長さである。
  • 算木は竹製で幅二分・長さ三寸。正策(三廉、二百十六枚で六觚となる=乾の策)と負策(四廉、百四十四枚で方となる=坤の策)がある。
  • 度・量・衡・暦・率はそれぞれ用途が異なるが、根本の数は共通する。度で長短を測れば毫釐を誤らず、量で多少を量れば圭撮を誤らず、権衡で軽重を平らかにすれば黍絲を誤らず、律呂で声の清濁を協えれば宮商を誤らず、暦数で三光の運行を紀せば晷刻を誤らず、率で万事を統べれば本を失わない。
  • 「率」には九つの分野(九数)がある。方田(田畑の区画)・粟米(交易の換算)・衰分(税の等差配分)・少広(面積・体積の開方)・商功(工事量の計算)・均輸(遠近に応じた輸送費)・盈朒(過不足の調整)・方程(連立方程式)・句股(三平方の定理を用いた測量)。これらを乗除・通分によって統一的に扱う。
  • 円周率については、古の九数では周三径一とされたが疎密があった。劉歆・張衡・劉徽・王蕃・皮延宗らが新率を試みたが折衷を得なかった。宋末、南徐州従事史・祖沖之がさらに精密な法を開いた。円径一億を一丈とすると、円周の盈数は三丈一尺四寸一分五厘九毫二秒七忽、朒数は三丈一尺四寸一分五厘九毫二秒六忽で、正数はその間にある。密率は径百十三対周三百五十五、約率は径七対周二十二とした。また開差冪・開差立の術も設け、正円と併せて論じた。祖沖之の著書『綴術』は精密を極めたが、学官はその深奥を理解できず廃れた。

和声

  • 伝説では黄帝が伶倫に竹を切らせ、長さ三寸九分の管を吹いて黄鐘の宮(含少)とし、次いで十二管を作って鳳鳴を聴き分け十二律とした。上下相生の法は黄鐘を始めとする。『虞書』に「四時・月・日を正し、律・度・量・衡を統一する」とあり、夏の禹は声を律とし身を度とした。『周礼』では楽器は十二律で寸法を定める。
  • 司馬遷『律書』は黄鐘八寸七分の一、太簇七寸七分二、林鐘五寸七分三、応鐘四寸三分二とする。班固・司馬彪『律志』は黄鐘九寸(最も濁)、太簇八寸、林鐘六寸、応鐘四寸七分四厘強(最も清)とする。鄭玄『礼記月令注』、蔡邕『月令章句』、杜夔・荀勖らの説も、尺の長短には差があるが十二律の寸数は同じである。
  • 『漢書』は京房の隔八相生の法を載せる。黄鐘に始まり中呂に終わって十二律が完成するが、中呂が上生して黄鐘に戻ると九寸に満たず「執始」と呼ばれ、以下「去滅」まで下生を重ね、上下相生を繰り返して「南事」に終わり、四十八律を増して六十律とする。これを辰の位に配し、冬至の後に隔九で編する。宋の元嘉年間、太史・銭楽之は京房の南事の余りをさらに引き伸ばし三百律とし、「安運」に終わる(長さ四寸四分余)。合計旧来分と併せて三百六十律とし、一日に一管を当てて宮徴を巡らせた。
  • 何承天は『立法制議』で「上下相生・三分損益は古人の簡易な法にすぎない。暦法が周天三百六十五度四分の一から後世改められたのと同様、京房が六十律に至ったのは誤りである」と論じ、新率を設けて中呂から黄鐘に戻るようにし、十二律を巡らせても音が失われないようにした。承天の黄鐘は九寸、太簇八寸二厘、林鐘六寸一厘、応鐘四寸七分九厘強とした。
  • 梁の初め、晋・宋・斉を踏襲し改制はなかった。のち武帝が『鐘律緯』を著し前代の得失を論じた。要旨は次のとおり。
  • 律呂について京房・馬融・鄭玄・蔡邕は蕤賓まで上生大呂とするが、班固『律暦志』は下生とする。班固の説に従えば夾鐘はわずか三寸七分余となり調子が成立しない。仲春・孟夏の気は舒緩であるはずで、短促な音は理に合わない。
  • 鄭玄は陰陽六位の次第相生を説くが、升る陽があれば降る陽もあるはずで説明がつかない。乾は甲壬から左行し坤は乙癸から右行する、これが陰陽の升降の本義である。
  • 京房の六十律も推算では自ずと差がないはずだが、律呂の生成順序(分焉の上生・遅内の上生盛変・盛変の上生分居)に例外が多く、深い理由があるのか伝承が不十分なのか判然としない。
  • 武帝は詳しく求めさせたが誰も正すことができず、自ら旧器・古の夾鐘玉律を参校して新尺を制作し、「通」と名づけた四つの弦楽器を作った(弦間九尺、臨岳の高さ一寸二分、黄鐘の弦は二百七十絲・長さ九尺で三分損益して十二律の弦の絲数・長さを算出)。また十二の笛を作って通の音を写した。
  • 山謙之『記』に「殿前の三鐘はいずれも周の景王が鋳造した無射である」とあるが、当時の無射の新笛では合わず、夷則の笛でようやく調和した。端門外の鐘の銘も夷則であった。西廂の一鐘(天監中に東へ移された)は今の笛では南呂に合うが、銘刻を検すると本来は太簇であり、笛より二調低い。太楽丞・斯宣達に再調査させたところ、鐘には内外に鑿の跡があり、宋の泰始年間に張永が銅を多く削り取ったため調子が低くなっていたと判明した。宋の武帝が中原平定時に得た三鐘(大・中・小各一)が今の太極殿前の二鐘・端門外の一鐘に当たる。西鐘の銘「清廟撞鐘」は秦にはない周制の証であり、「太簇鐘徴」の銘は林鐘宮に用いるものである。秦漢の年号がないことからも周代の器であることは明らかで、京房の推用にも由来があるらしい。
  • 声を検証して政を改めるべきであり、五音六律は誤って伝わるべきではないが、楽工は音のみ、儒者は文のみを守り、年月を経て両者が通じなくなっている。周・漢の頌歌はそれぞれの功徳を叙べたものであり、後王に濫用してはならない。武帝は詳論を百司に詔して正しい調律を求めさせた。
  • しかし改制のさなかに侯景の乱が起こり、陳でも改作はなかった。
  • 西魏の廃帝元年、周文帝(宇文泰)の摂政下で尚書・蘇綽に音律を正させた。蘇綽は宋尺を用いて管を定めようとしたが未完のまま閔帝の受禅に至り、政は塚宰に委ねられ北斉との戦事もあって実行されなかった。のち太倉の跡から古の玉鬥が発見され、それにより律・衡を造ろうとしたが多くが失われた。
  • 隋の開皇初年、太常・牛弘に律呂を議定させた。学者を広く集めたが結論に至らなかった。江南平定後に陳の律管十二枚を得て牛弘に付し、音律に通じた陳山陽太守・毛爽、太楽令・蔡子元、於普明らに節気の観測と『律譜』の作成を命じた。毛爽は高齢のため白衣のまま高祖に謁見し淮州刺史を授けられたが赴任を辞退し、協律郎・祖孝孫がその法を学んだ。牛弘はこの律管を吹いて音を定め、天下統一後に集まった異代の楽器を参考に鐘律を定め直し、『皇夏』十四曲を新造の楽器で演奏させたところ、高祖は「この音は滔滔として和雅であり、人を舒緩にさせる」と評した。
  • 万物人事は五行によって生じ成り滅する。五音のうち火尺を用いれば火事が重なり、金尺を用いれば兵乱、木尺を用いれば喪、土尺を用いれば乱れ、水尺を用いれば律呂が調和し天下太平になるとされた。魏・北周・北斉は布帛の長さを貪って土尺を用いたが、隋のこの楽では水尺を用いた(江東の尺は土尺より短く水尺より長い。俗に玉製を玉尺、鉄製を鉄尺と呼ぶ)。高祖は水尺律楽の使用を詔し、前代の金石楽器は鋳潰して異論を絶った。
  • 仁壽四年、劉焯が東宮に上啓し張胄玄の暦法とあわせて律呂を論じた。要旨は「音楽は律に基づくが、律は中呂で尽きるとまた黄鐘に戻る計算が精密でなく、漢の京房は六十律、宋の銭楽之は三百六十律とみだりに増やした。度量の基準も定めが粗く、管弦・度量ともに乱れている」というもので、黄鐘管を六十三(実)とし七を寸法として一律ごとに三分ずつ減らす新説を示した(黄鐘九寸、太簇八寸一分四厘、林鐘六寸、応鐘四寸二分八厘七分の四)。しかしその年に高祖が崩じ煬帝の即位で改暦は見送られ、劉焯の書も失われた。大業二年、梁の表律を用いて鐘磬八音の楽器を改め、これは前代に比べ最も古法に合致するとされたが、その制度・文議および毛爽の旧律の資料は江都で失われた。

律管圍容黍

  • 『漢書』は黄鐘の管の周囲を九分、林鐘を六分、太簇を八分とするが、『続漢書』・鄭玄は十二律の管はいずれも径三分・周囲九分とする。北魏の安豊王が班固説に依って林鐘径六分・太簇径八分で管を作ったところ黄鐘の商徴の音に合わず、いずれも径九分とすることで均鐘器と一致した。
  • 開皇九年、陳平定後に牛弘・辛彦之・鄭訳・何妥らが古律度を参照し、各時代に依って黄鐘の管を径三分・長九寸に統一したが、尺の損益で音の高低が生じ、円径の長短で容黍数も異なった。歴代の黄鐘管の容黍数は次のとおり。
  • 晋前尺:八百八粒
  • 梁法尺:八百二十八粒
  • 梁表尺(三種):九百二十五粒/九百一十粒/一千一百二十粒
  • 漢官尺:九百三十九粒
  • 古銀錯題黄鐘籥:一千二百粒
  • 宋氏尺(鉄尺、二種):一千二百粒/一千四十七粒
  • 後魏前尺:一千一百十五粒
  • 後周玉尺:一千二百六十七粒
  • 後魏中尺:一千五百五十五粒
  • 後魏後尺:一千八百十九粒
  • 東魏尺:二千八百六十九粒
  • 万宝常の水尺律母:一千三百二十粒
  • 梁表尺・鉄尺の律の黄鐘の副本は、管の長短・口径は同じでも容黍数に多少があり、これは作者が管の内壁を偏らせて盈虚を生じさせたためである。

侯気

  • 北斉の神武帝の霸府田曹参軍・信都芳は巧思に優れ、律管で気を候い雲色を観測することができた。人と話していても「孟春の気が至った」と即座に告げ、確かめると灰が既に応じていた。また輪扇二十四を地中に埋めて二十四気を測り、気が至るたびに一扇が自ずと動いた。
  • 開皇九年、陳平定後、高祖は毛爽・蔡子元・於普明らに節気を候わせた。三重の密屋内に十二の案を置き、律呂の管を十二辰の位置に配して土に埋め、中に葦の灰を実らせ薄絹で管口を覆う。その月の気が至ると律と符合して灰が舞い上がる仕組みだが、応じる早晩・灰の飛び方には差があった。高祖がこれを牛弘に問うと、牛弘は「灰が半分飛べば和気、全部飛べば猛気、飛ばなければ衰気で、それぞれ政の平・臣の縦・君の暴に対応する」と答えたが、高祖は「同じ年のうちで月ごとに応じ方が違うのはおかしい」と反駁し、牛弘は答えられなかった。そこで毛爽らに法を定めさせ、『律譜』としてまとめさせた。その要旨は次のとおり。
  • 黄帝が伶倫氏に嶰谷の竹を取らせ鳳の声を聴いて十二律を作らせたのが律の始まりで、陽管を律・陰管を呂とし、気で四時を候い数で万物を紀する。有虞氏は律で声を和し、鄒衍がこれを改めて五始を定め、正朔・服色もこれによって分かれた(夏正は人、殷正は地、周正は天を基準とする)。
  • 漢初、張蒼は五行相勝の法から水徳と定めたが、戦国の混乱・秦の焚書のため詳しく究めることができなかった。武帝が協律の官を置き李延年を都尉としたが新声変曲に通じるのみで音律の源には及ばず、服色も定まらなかった。元帝は自ら音律に通じ、京房もその妙を極め、六十律相生の法(上生は三生二、下生は三生四)を焦延寿から学んだと自ら述べている。劉歆がこれを条奏し、班固『漢志』は劉歆に、司馬彪『志』は京房に依った。
  • 後漢では尺度がやや長くなった。魏の杜夔も律呂を作り気を候ったが灰が飛ばなかった。晋の荀勖は古銅管を得て杜夔の制と比べ古法より四分長いことを知り、『周礼』に依って古尺を新造し管を定めたところ声韻が調った。
  • 東晋以降また誤りが生じた。梁の武帝の時にも汲塚の玉律が伝わっていたが、宋の蒼梧王の時に横笛に改造されてしまい、長短厚薄はおおむね残っていた。著者(信都芳の子孫にあたる筆者・祖珽)は算を祖暅に、律を何承天に学び、太常丞として玉管と宋の太史尺を朝廷に上奏し、模して管を作らせたが、その後また灰が飛ばなくなった。侯景の乱の際、著者の兄・喜が太楽でこれを得た。陳の宣帝が荊州で人質になった際に梁元帝が敗れ、喜は北周に没した。上奏しようとしたが陳の武帝が即位し、十二管を六十律に拡張して私的に気を候い、応験を得た。太建年間、喜は吏部尚書となり上奏しようとしたが宣帝の崩御、後主の即位により永嘉内史に左遷され、資料は家に留め置かれて子孫に伝わったが、陳滅亡の際に失われた。
  • 現在太楽に伝わる十二管は、陽下生陰が黄鐘に始まり陰上生陽が中呂に終わり、一年の気がここに尽きる。中呂が上生して執始・去滅を経て南事に終わる六十律の候もここに尽きる。仲冬の月は黄鐘に応じ、黄鐘は冬至を首として陽の始まりであり、天数に応じ長さ九寸、十一月の気に応じて六気を養い九徳を和する。以後は京房の律準に依り宮徴の長短を日ごとに用いる。十二律それぞれが担う範囲を引き伸ばして六十に至るのは、八卦を重ねて六十四卦とするのと同様である。相生とは相変わることで、黄鐘の管が林鐘を下生するように陽が陰を生むから変わる。相摂とは相通じることで、中呂の管が「物応」を摂して母が子を権るようなもの。相変は異なる時にそれぞれ応じ、相通は同じ月に継いで応じる。応じるのに早晩があるのは正律の気ではなく子律が相感じて母律の中に寄って応じるためである。
  • この律は大業末、江都陥落の際に失われた。

律直日

  • 宋の銭楽之は京房の南事の余りからさらに三百律を生んだ。梁の博士・沈重は『律議』で「『易』は三百六十策を一年の日数に当てる、これが律暦の数である。『淮南子』にも『一律が五音を生み、十二律が六十音となり、これを六倍して三百六十音とし一歳の日に当てる。律暦の数は天地の道である』とある」と述べ、『淮南子』の本数に京房の術を用いて三百六十律を得た。各月の本律を一部とし、一部の律数を母、一中気の日数を子として、母をもって子に命じ、その多少に応じて各律が建つ日辰・分数を定める。これを七音に配すると、建日冬至の声は黄鐘が宮、太簇が商、林鐘が徴、南呂が羽、姑洗が角、応鐘が変宮、蕤賓が変徴となり、五音七声がここに調う。以下、日に応じて律が次々に運行し、当日の律が宮となりそれに応じて商徴も定まる。黄鐘から壮進に至る百五十律は三分損一で下生し、依行から億兆に至る二百九律は三分益一で上生する。安運の一律のみ終わりで生じない。数はすべて黄鐘の実十七万七千一百四十七を本とし、九三を法として各律の長さを算出する。三百六十律の名は次のとおり(各律の日数・分数を付す)。
  • 黄鐘:包育・含微・帝徳・広運・下済・克終・執始・握鑒・持枢・黄中通聖・潜升・殷普・景盛・滋萌・光被・咸亨・乃文乃聖・微陽分動・生気雲繁・鬱湮・升引・屯結・開元・質未・僾昧・逋建・玄中・玉燭調風(三十四律、各律は三十四分日の三十一を直す)
  • 大呂:荄動・始賛・大有・坤元・輔時・匡弼・分否・又繁・唯微・棄望・庶幾・執義・秉強・陵陰・侶陽・識沈・緝熙・知道・適時・権変・少出・阿衡・同雲・承明・善述・休光(二十七律、各律は一日と二十七分日の三を直す)
  • 太簇:未知其己義・建亭・毒条風・湊始・時息・達生・匏奏・初角・少陽・柔橈・商音・屈斉・扶弱・承斉・動植・鹹擢・兼山止速・随期龍躍・勾芒調序・青要結萼・延敷刑・晋辨秩・東作讚揚・顕滞・俶落(三十四律)
  • 夾鐘:明庶協侶・陰賛風従・布政万化・開時震徳・乗条芬芳・散朗淑気・風馳佚喜・幹党四隙・種生恣性・逍遙仁威・争南旭旦・晨朝生遂・群分潔新(二十七律)
  • 姑洗:南授懐来・考神方顕・攜角洗陳・変虞擢穎・嘉気始升・卿雲媚嶺・疏道路時・日旅実沈・炎風首節・柔条方結・刑始方斉・物華革荑・茂実登明・壮進下生・安運依行・上生包育・少選道従・硃黻揚庭・含貞(三十四律)
  • 中呂:硃明啓運・景風初緩・羽物斯奮・南中離春・率農有程・南訛敬致・相趣内貞・硃草含輝・屈軼曜疇・巳気清和・物応戒Q・荒落貞軫・天庭祚周(二十七律)
  • 蕤賓:南事・京房終律・謐静則選・布萼満羸・潜動盛変・賓安懐遠・声暨軌同・海水息沴・離躬安壮・崇明遠眺・升中鳳翥・朝陽制時・瑞通鶉火・乂次高焰其煌(二十七律)
  • 林鐘:謙侍崇徳・循道方壮・陰升靡慝・去滅華銷・朋慶雲布・均任仰成・寛中安度・徳均無蹇・礼溢智深・任粛純恪・帰嘉美音・温風候節・蓂華繍嶺・物無否与・景口曜井・日煥重輪・財華(三十四律)
  • 夷則:升商清爽・気精陰徳・白蔵禦叙・鮮刑貞克・金天劉獮・会道帰仁・陰侶去南・陽消柔辛・延乙和庚・靡卉荑晋・分積孔修・九徳鹹藎・僉惟俾乂(二十七律)
  • 南呂:白呂捐秀・敦実素風・勁物酋稔・結躬肥遁・羸中晟陰・抗節威遠・有截帰期・中徳王猷・允塞蓐収・撙轡揺落・未印質随・分満道心・貞堅蓄止・帰蔵夷汗・均義悦使・亡労九有・光賁(三十四律)
  • 無射:思沖懐謙・恭倹休老・恤農銷祥・閉奄降婁・蔵邃日在・旋春閹蔵・明奎鄰斉・軌衆大蓄・嗇斂下済・息肩無辺・期保延年・秋深野色・玄月澄天(二十七律)
  • 応鐘:分焉祖微・拠始功成・乂定静謐・遅内無為・而乂姑射・凝晦動寂・応徴未育・万機万寿・無疆地久・天長修復・遅時方制・無休九野・八荒億兆・安運(二十八律)

審度

  • 度の起源については、『史記』は「夏の禹は身をもって度とし、声をもって律とした」、『礼記』は「丈夫の布手を尺とする」、『周礼』は「璧羨で度を起こす」(鄭司農注:璧の径一尺で度量を起こす)、『易緯通卦験』は「馬尾十本で一分」、『淮南子』は「秋分に禾の穂芒が定まり、律数十二が一粟に、十二粟が一寸に当たる」、『説苑』は「一粟を一分とする」、『孫子算術』は「蚕の吐く糸一本を一忽、十忽で一秒、十秒で一毫、十毫で一厘、十厘で一分とする」と、それぞれ異説がある。
  • 『漢書』律暦志は「度は長短を測るもので、黄鐘の長さに基づく。子穀の秬黍の中程度のもの一粒の広さを一分とし、九十粒で黄鐘の長さとする。一分の十倍が一寸、十倍が一尺、十倍が一丈、十倍が一引となり、五度が定まる」とし、後世これに依って律・度・量・衡を秬黍を基準に定めた。ただし黍の大小・年の豊凶により歴代の量校には差があり、俗伝の訛りで増減も生じた。以下、歴代の尺度十五等とその異同を記す。
  • 一、周尺:『漢志』の王莽時劉歆銅斛尺、後漢建武銅尺、晋泰始十年の荀勖律尺(晋前尺)、祖沖之が伝えた銅尺。荀勖は『周礼』に依り古尺を新造し古器と照合して一致を確認した。汲郡で発掘された魏の襄王塚の玉律・鐘磬とも音が一致した。梁の武帝『鐘律緯』によれば、祖沖之が伝えた銅尺の銘に「晋泰始十年、中書が古器を考え今尺と比べ四分半長い」とあり、比較対象は姑洗玉律・小呂玉律・西京銅望臬・金錯望臬・銅斛・古銭・建武銅尺の七品であった。
  • 二、晋田父玉尺:梁法尺に比して晋前尺一尺七厘。『世説』に田父が野で周時の玉尺を得た逸話があり、荀勖が校べたところ、造った金石糸竹の楽器は一米短かった。梁の主衣に伝わる周尺・玉律八枚のうち残る七枚(夾鐘)を基準に定めた。
  • 三、梁表尺:晋前尺の一尺二分二厘一毫余。蕭吉によれば『司馬法』に由来し、梁が影表に刻んで測影に用いた(祖暅が銅の主影表を算造)。陳滅亡後、大業年間に古に合致するとして鐘律の調律に用いられた。
  • 四、漢官尺:晋前尺の一尺三分七毫。晋の始平で発掘された古銅尺。蕭吉『楽譜』によれば後漢章帝の時、零陵文学史・奚景が泠道県の舜廟下で得た玉律に基づく。傅暢『晋諸公賛』は荀勖の鐘律を陳留の阮咸が声高と批判した逸話を伝える。
  • 五、魏尺:杜夔が調律に用いた尺。晋前尺の一尺四分七厘。魏の陳留王景元四年、劉徽が『九章』に注して王莽の劉歆斛尺は今尺より四分五厘弱いと述べた。
  • 六、晋後尺:晋前尺の一尺六分二厘。江東で用いられた(蕭吉)。
  • 七、後魏前尺:晋前尺の一尺二寸七厘。
  • 八、後魏中尺:晋前尺の一尺二寸一分一厘。
  • 九、後魏後尺(開皇官尺・後周市尺に同じ):晋前尺の一尺二寸八分一厘。後周市尺は玉尺の一尺九分三厘、開皇官尺(鉄尺)は一尺二寸。甄鸞『算術』は周朝市尺を玉尺九分二厘とする。梁の志公道人がこの尺を周朝に持ち込んだとの伝もある。周の太祖・隋の高祖ともにこれを己に当てはめ、開皇初年に官尺として仁寿年間まで用いられ、大業年間も私用された。
  • 十、東後魏尺:晋前尺の一尺五寸八毫。魏の中尉・元延明が半周の広さで累黍して定めた尺で、北斉もこれを用いた。魏収『魏史律暦志』によれば公孫崇・劉芳・元匡の間で分の定め方に争いがあり、太和十九年に高祖(孝文帝)が秬黍の広さで九十黍を黄鐘の長さとする詔を下し銅尺を定めた。
  • 十一、後周玉尺(蔡邕銅籥尺):晋前尺の一尺一寸五分八厘。銀錯の銘のある銅籥(黄鐘の宮、長さ九寸、空囲九分、秬黍一千二百粒を容れ重さ十二銖、二合で一合)が伝わり、祖孝孫はこれを蔡邕の銅籥と伝えた。後周武帝保定年間、盧景宣・長孫紹遠・斛斯徴らが累黍で尺を造ろうとしたが定まらず、倉の跡から得た古玉鬥を基準に律度量衡を造り、天和と改元し百司に頒布、大象年間まで用いられた。
  • 十二、宋氏尺(銭楽之渾天儀尺・後周鉄尺・開皇初の調鐘律尺および平陳後の調鐘律水尺):晋前尺の一尺六分四厘。宋代に用いられ斉・梁・陳に伝わって楽律に用いられた。周の建徳六年、北斉平定後にこの度量を天下に頒布した。宣帝の時、達奚震・牛弘らは「鉄尺は太祖が蘇綽に造らせたもので前周の尺と長短が一致し宋尺とも符合する。上党羊頭山の黍で験したが大小により誤差があり、鉄尺を用いるのが理に適う」と議した。高祖受禅後も牛弘・辛彦之・鄭訳・何妥らの議論は決せず、陳平定後、江東の楽を善しとして「一尺二寸を市尺とする」(祖孝孫の説)とし周の玉尺律を廃し鉄尺律を用いた。
  • 十三、開皇十年、万宝常が造った律呂水尺:晋前尺の一尺一寸八分六厘。太楽庫にあり、黄鐘律は鉄尺の南呂の倍声に当たるとされ「水尺律」と呼ばれた。
  • 十四、雑尺(趙・劉曜の渾天儀土圭尺):梁法尺より四分三厘長く、晋前尺の一尺五分。
  • 十五、梁朝俗間尺:梁法尺より六分三厘、劉曜渾儀尺より二分長く、晋前尺の一尺七分一厘。梁武帝『鐘律緯』によれば宋の武帝が中原平定時に得た渾天儀・土圭は劉曜の光初四年・八年の作であり張衡のものではなく、これに基づく尺は梁法尺(新尺)より四分三厘長く俗間尺より二分短い。

嘉量

  • 『周礼』にいう蠙氏の「量」は、深さ一尺・内方一尺で外周を円くした鬴(実量一鬴)、臀の深さ一寸(一豆)、耳の深さ三寸(一升)、重さ一鈞、声は黄鐘に中る器で、銘に「時に文思し索め、允にその極に臻る。嘉量既に成り、以て四国を観る。永くその後を啓き、茲の器維れ則とす」とある。『春秋左氏伝』に斉の旧四量(豆・区・鬴・鐘、四升で一豆、四倍ずつで鬴に至り六斗四升、十鬴で一鐘六十四斗)とある。
  • 鄭玄は方一尺の積を千寸とするが九章粟米法より二升八十一分升の二十二少ない。祖沖之は算術で積千五百六十二寸半、径一尺四寸一分四毫七秒二忽余で深さ一尺とし、これが古の斛の制であるとした。『九章商功法』では粟一斛は積二千七百寸、米一斛は千六百二十寸、菽荅麻麦一斛は二千四百三十寸とし、精粗に応じて価を等しくする。器の積寸は米斛を正とすれば『漢書』と一致する。
  • 『孫子算術』は「六粟で一圭、十圭で一秒、十秒で一撮、十撮で一勺、十勺で一合」とし、応劭は「四圭で一撮」、孟康は「六十四黍で一圭」とする。『漢書』は量(籥・合・升・斗・斛)は黄鐘の龠に基づき、秬黍千二百粒を容れて井水で概を平らにし、十龠で一合、十合で一升、十升で一斗、十斗で一斛とする。器は銅の方一尺で外周を円くし、上を斛、下を斗、左耳を升、右耳を合・龠とし、重さ二鈞、声は黄鐘に中るとされ、その斛銘には「律嘉量斛、方一尺で外周円、庣旁九厘五毫、冪百六十二寸、深一尺、積一千六百二十寸、容十斗」とある。祖沖之の円率による計算では径一尺四寸三分六厘一毫九秒二忽、庣旁一分九毫余となり、劉歆の庣旁(少一厘四毫余)は数術の不精によるものとした。
  • 魏の陳留王景元四年、劉徽は『九章商功』に注し、当時の大司農斛は径一尺三寸五分五厘・深一尺・積一千四百四十一寸十分の三、王莽の銅斛は今尺で深九寸五分五厘・径一尺三寸六分八厘七毫、換算すると今の斛で九斗七升四合余に当たるとした(魏の斛は大きく尺は長い、王莽の斛は小さく尺は短い)。
  • 梁・陳は古法に依り、北斉は古升五升を一斗とした。後周武帝の保定元年、晋国の倉造営の際に古玉鬥が発見され、保定五年に銅律度を改制、玉量と衡度に照らして銅升を頒布した(銅升の銘:内径七寸一分、深さ二寸八分、重さ七斤八両。玉升の銘も現存)。甄鸞『算術』によれば玉升一升は官斗一升三合四勺に相当(玉升が大きく官斗が小さい)。後周の玉鬥・金錯銅斗・建徳六年の金錯題銅斗はいずれも秬黍で定量され、玉称で量ると一升の重さは六斤十三両であった。
  • 開皇では古の三升を一升とし、大業初年に古の斗制に復した。

衡権

  • 衡は平、権は重を意味し、権を用いて物の軽重を平らかにする。天では璿璣を佐けて七政を斉える働きから「玉衡」と呼ばれる。権には銖・両・斤・鈞・石の単位があり、古くは黍・案・錘・錙・鐶・鉤・鋝・鎰などの称もあったが詳細は伝わらない。
  • 『前志』によれば、権は黄鐘の重さに基づき、一龠に千二百黍を容れて重さ十二銖、その二倍を一両、二十四銖を一両、十六両を一斤、三十斤を一鈞、四鈞を一石とする(五権)。
  • 『趙書』によれば石勒の十八年七月、建徳殿造営の際に得た円石の銘に「律権石、重さ四鈞、律・度・量・衡を統一する。有辛氏の造」とあり、続咸はこれを王莽時代の物と論じた。北魏の景明年間、并州の王顕達が献じた古銅権の銘(八十一字)にも「律権石、重さ四鈞」とあり、続けて王莽の受禅の由緒を記す文言があった。この時の太楽令・公孫崇が『漢志』に依って造った称尺で新称と照合したところ、重さ百二十斤で符合し、崇はこの調律に取り組んだ。孝文帝の時、『漢志』に依って斗尺を作った。
  • 梁・陳は古の称に依り、北斉は古称一斤八両を一斤とし、北周の玉称四両は古称四両半に相当した。開皇では古称三斤を一斤とし、大業年間に古の秤制に復した。