隋書卷十四 音楽中

北斉初期の音楽制度――魏制の踏襲と祖珽の議

  • 北斉神武帝(高歓)の覇業の当初は鄴に遷都したものの、なお人臣の礼をとり続けたため、宮懸などの楽制は魏の旧典に従っていた。文宣帝が禅譲を受けた当初もなお旧章を改めておらず、宮懸は各辰位に十二鎛鐘・四面に編鐘磬各一簨虡(合計二十架)を設け、四隅に建鼓を配し、郊廟・朝会いずれもこれを共用した。
  • のち楽制を改める議が起こると、尚薬典御の祖珽が上書し、後魏以来の楽の沿革を述べた。道武帝の皇始元年、慕容宝を中山で破り晋の楽器を得たがこれを採用せず放棄したこと、天興初め吏部郎鄧彦海が廟楽を制定したが鐘管が不備で《簸邏回歌》を雑えたこと、太武帝が河西平定の際に沮渠蒙遜の伎楽を得て賓嘉の大礼に雑用したこと、この楽の源流は苻堅末年に呂光が西域から得た胡戎楽で秦声を雑えた「秦漢楽」に遡ること、永熙年間に長孫承業・祖珽の先人太常卿祖瑩らが華楽・戎楽を斟酌し繕修して鐘律を大いに整備したことを述べ、これを准則とするよう提言した。祖珽はさらに魏の安豊王延明・信都芳らの著した『楽説』を採り正声を定め、宮懸の器を具え、なお西涼の曲を雑えた。楽名は《広成》とされたが舞には号が立てられず、これがいわゆる「洛陽旧楽」である。

北斉武成帝期の郊廟三朝の楽制

  • 武成帝の代に至り、四郊・宗廟・三朝の楽が確定した。群臣の出入には《肆夏》、牲の出入・薦毛血には《昭夏》を奏した。迎送神および皇帝の初献・五方上帝を礼する際は《高明》の楽・《覆燾》の舞を用いた。皇帝が壇門に入出し、升壇して飲福酒し、燎位に就き、便殿に還る際はいずれも《皇夏》を奏し、太祖(高歓)を配饗する際は《武徳》の楽・《昭烈》の舞を用いた。裸地には登歌を奏した。
  • 四時祭廟・禘祫では、皇六世祖司空・五世祖吏部尚書・高祖秦州刺史・曾祖太尉武貞公・祖文穆皇帝の各神室に《始基》の楽・《恢祚》の舞を、神武皇帝神室には《武徳》楽・《昭烈》舞を、文襄皇帝神室には《文徳》楽・《宣政》舞を、文宣皇帝神室には《文正》楽・《光大》舞を、孝昭皇帝神室には《文明》楽・《休徳》舞を、それぞれ奏した。出入の儀は四郊の礼に同じであった。

大禘圜丘・北郊の歌辞

  • 夕牲・群臣入門には《肆夏》の辞、迎神には《高明楽》の辞(北郊では語句の一部を「方」「陰」等に改めて用いる)を奏した。牲の出入・薦毛血には《昭夏》の辞、進熟・皇帝入門には《皇夏》の辞、皇帝升丘にも《皇夏》の辞を奏した。
  • 皇帝初献・奠爵には《高明楽》の辞と《覆燾》の舞辞を、太祖配饗には《武徳》楽・《昭烈》舞の辞を用いた。皇帝飲福酒・送神・燎・還便殿の各段階にもそれぞれ専用の《皇夏》《高明楽》《昭夏》の辞が定められ、いずれも皇天の霊応と皇帝の孝敬・盛徳を讃える内容であった。祠感帝には圜丘辞を用いた。

五郊迎気・明堂の歌辞

  • 五郊迎気(青・赤・黄・白・黒の五帝を各方位・季節に応じて迎える儀礼)では、それぞれの帝の降神に《高明楽》の辞を奏し、青帝には春・東方・雷電、赤帝には夏・南方の炎精、黄帝には中央・四時の徳、白帝には秋・西方の粛殺、黒帝には冬・北方の閉蔵にちなむ内容が歌われた。
  • 明堂における五帝合祀でも、夕牲・迎神(《高明楽》《覆燾舞》)、太祖配饗(《武徳楽》《昭烈舞》、五方天帝には迎気と同じ《高明》楽・《覆燾》舞)、牲出入・薦血毛(《昭夏》)、進熟・皇帝入門升壇(《皇夏》)、初献(《高明楽》《覆燾舞》)、裸献(《高明楽》《覆燾舞》)、飲福酒(《皇夏》)、送神(《高明楽》《覆燾舞》)、還便殿(《皇夏》)に至る一連の歌辞が備わり、いずれも皇帝の祖考への孝敬と天下太平を讃える内容であった。

享廟(宗廟祭祀)の歌辞

  • 先祀前日の夕牲・群臣入(《肆夏》)、迎神(《高明》登歌)、牲出入(《昭夏》)、薦血毛(《昭夏》)、進熟・皇帝入北門(《皇夏楽》)、太祝裸地(登歌楽)、皇帝升殿(殿上登歌楽、歴代の霸業と孝思を長く述べる)の歌辞が順に定められた。
  • 皇帝が皇祖司空公・皇祖吏部尚書・皇祖秦州使君・太祖太尉武貞公の各神室に献ずる際はいずれも《始基楽》《恢祚舞》の辞、皇祖文穆皇帝神室には《始其(基)楽》《恢祚舞》の辞、高祖神武皇帝神室には《武徳楽》《昭烈舞》の辞、文襄皇帝神室には《文徳楽》《宣政舞》の辞、顕祖文宣皇帝神室には《文正楽》《光大舞》の辞を用い、いずれも各代の功業・徳行を個別に讃える内容であった。皇帝が東壁に還り飲福酒する辞、送神(《高明楽》)、便殿に詣る辞(《皇夏》)で締めくくられた。

元会大饗の歌辞

  • 元会(正月朝賀)の大饗礼では、協律が升陛できないため黄門が殿上で麾を挙げて指揮した。賓入門(四箱で《肆夏》)、皇帝出閣(《皇夏楽》)、皇帝当扆・群臣奉賀(《皇夏》)、皇帝入甯変服(黄鐘・太簇二箱で《皇夏》)、皇帝変服・升御坐(姑洗で《皇夏》)、王公奠璧(《肆夏》)、上寿(黄鐘箱で上寿曲)、皇太子入・酒至御(殿上登歌三首)、食至御前・奉食挙楽(登歌十首、天下混一・礼楽興隆・瑞祥出現・刑措不用・封禅の誉れなどを歌う)と続いた。
  • 文舞・武舞にはそれぞれ将作の階歩辞と本辞があり、文舞は皇天より受けた図璽と華夷帰服・礼楽興隆を、武舞は神武帝以来の歴代の武功と天下平定を讃えた。皇帝入(鐘鼓で《皇夏》)の辞で結ばれた。

北斉の鼓吹二十曲

  • 鼓吹二十曲はすべて漢代の曲名を改め、北斉の功業を叙述する内容とした。第一《朱鷺》改め《水徳謝》(魏から斉への禅譲)、第二《思悲翁》改め《出山東》(神武帝の広阿の戦い・爾朱兆討伐)、第三《艾如張》改め《戦韓陵》(神武帝が四胡を滅ぼし京洛を平定)、第四《上之回》改め《殄関隴》(侯莫陳悦に賀抜岳を誅させ関隴・河外を平定、漠北・秦中の帰附)、第五《擁離》改め《滅山胡》(劉蠡升を討ち、高車・柔然が帰化)、第六《戦城南》改め《立武定》(魏主を擁立し鄴に遷都)、第七《巫山高》改め《戦芒山》(周の十万の軍を斬り、その将が単身逃走)、第八《上陵》改め《擒蕭明》(梁の蕭貞陽侯来寇を文襄帝が太尉清河王高岳に命じ捕獲)、第九《将進酒》改め《破侯景》(文襄帝が清河王高岳に命じ侯景を破り河南を回復)、第十《君馬黄》改め《定汝潁》(清河王高岳が周の大将軍王思政を長葛で捕らえ汝・潁を平定)、第十一《芳樹》改め《克淮南》(清河王高岳が梁の司徒陸法和を捕らえ寿春・合肥・鍾離・淮陰など江北の地を得る)、第十二《有所思》改め《嗣丕基》(文宣帝の大業継承)、第十三《稚子班》改め《聖道洽》(文宣帝の徳治)、第十四《聖人出》改め《受魏禅》(文宣帝が魏から禅譲を受ける)、第十五《上邪》改め《平瀚海》(柔然の入寇を文宣帝が討ち北荒を平定)、第十六《臨高台》改め《服江南》(梁主蕭繹の帰附)、第十七《遠如期》改め《刑罰中》(孝昭帝の公正な訟獄)、第十八《石留行》改め《遠夷至》(西夷諸国の朝貢)、第十九《務成》改め《嘉瑞臻》(河清・龍見などの瑞祥)、第二十《玄雲》改め《成礼楽》(礼楽の完成)。古曲の《黄雀》《釣竿》二曲は略して用いなかった。諸州鎮戍には身分に応じ鼓吹楽(諸王州は赤鼓赤角、皇子はさらに呉鼓・長鳴角、上州刺史は青鼓青角、中州以下・諸鎮戍は黒鼓黒角)が支給され、楽器の衣も鼓の色に応じて揃えられた。

北斉の胡楽流行と後主の亡国

  • 北斉には西涼鼙舞・清楽・亀茲楽などの雑楽があった。笛・琵琶・五弦・歌舞の伎は文襄帝以来愛好され、河清以降さらに盛んになった。後主は特に胡戎楽を耽愛し、繁手淫声・哀怨の新曲が争い作られ、曹妙達・安未弱・安馬駒らの伶人が封王開府されるほど寵遇された。後主自ら曲を作り、楽器を執って《無愁曲》を作曲、音韻窈窕で極めて哀切な曲を胡児・宦官に斉唱させ、聴く者は涙した。行幸の道中でも馬上で奏させ、この耽溺の末に国を滅ぼしたと評される。

北周初期の楽制構想

  • 周の太祖(宇文泰)が魏の武帝(孝武帝)を関中に迎えた当初、楽の声は失われていた。恭帝元年、荊州平定で梁の楽器を大量に接収し有司に管理させた。六官制樹立に際し詔が下され、古の六楽の声歌・舞蹈は既に絶えて詳らかにできないとしつつ、古人の制に依るべきとされた。有司の議定では、五帝・日月星辰の郊祀には黄帝楽(大呂を歌い《雲門》を舞う)、九州・社稷・水旱雩珝には唐堯楽(応鐘・《大咸》)、四望・諸侯饗には虞舜楽(南呂・《大韶》)、四類・辟雍には夏禹楽(函鐘・《大夏》)、山川祭には殷湯楽(小呂・《大護》)、宗廟には周武王楽(夾鐘・《大武》)を用いるとされた。皇帝・賓・牲・蕃国客・功臣の出入、皇后の進羞、宗室会聚、上酒宴楽、諸侯相見にもそれぞれ《皇夏》《肆夏》《昭夏》《納夏》《章夏》《深夏》《族夏》《陔夏》《驁夏》の楽を、皇帝大射には《騶虞》、諸侯には《狸首》、大夫には《采蘋》、士には《采蘩》を歌うと定めたが、文章として著されたのみで実際には施行されなかった。

北周武帝期の六代楽の完成

  • 閔帝の受禅は在位が短く、明帝が即位して魏の楽を改めたもののなお雅正には至らなかった。天和元年、武帝が初めて《山雲舞》を作り六代の楽(黄帝以下六王の楽)を完備させた。南北郊・雩壇・太廟の禘祫・時享・拝社・五郊朝日・神州夕月籍田など各祭祀ごとに、降神・献熟・以下に奏する舞の組み合わせが細かく定められた(例:南郊は《大夏》降神・《大護》献熟、次いで《大武》《正徳》《武徳》《山雲》の舞。北郊は《大護》降神・《大夏》献熟以下同様。雩壇は《大武》降神・《正徳》献熟以下。太廟祫帝は《大武》降神・《山雲》献熟以下。時享太廟は《山雲》降神・《大夏》献熟、次に《武徳》の舞のみ。拝社は《大護》降神・《大武》献熟、次に《正徳》の舞のみ。五郊朝日は《大夏》降神・《大護》献熟。神州・夕月・籍田は《正徳》降神・《大護》献熟)。
  • 建徳二年十月甲辰、六代楽が完成し崇信殿で演奏され群臣がこれを観覧した。宮懸は梁の三十六架に倣った。朝会では皇帝出入に《皇夏》、皇太子出入に《肆夏》、王公出入に《驁夏》、五等諸侯の正日献玉帛に《納夏》、宗族の宴に《族夏》を奏し、大会で至尊が執爵する際は登歌十八曲を、食挙には《深夏》を奏し六代の《大夏》《大護》《大武》《正徳》《武徳》《山雲》の舞を舞った。これにより雅音が正され郊廟楽として確立し、鐘律の創制も概ね適正であった。宣帝が嗣位した後も郊廟の楽はこの制を踏襲し、改めることはなかった。

員丘(圜丘)・方沢の歌辞

  • 員丘祭では、降神に《昭夏》、皇帝将入門・升壇に《皇夏》、俎入・奠玉帛に《昭夏》、皇帝初献・配帝への初献にはいずれも《雲門》の舞辞を、初献の後には登歌を奏した。飲福酒には《皇夏》、撤奠には《雍楽》、望燎位・還便座には《皇夏》を用いた。いずれも天への報恩・皇天の眷顧と国運長久を祈る内容であった。
  • 方沢(地祇祭)でも同様に、降神(《昭夏》)、奠玉(《昭夏》)、初献(登歌、舞辞は員丘に同じ)、望坎位(《皇夏》)の歌辞が備わり、大地の徳と子孫繁栄を讃える内容であった。

祀五帝・宗廟の歌辞

  • 五帝祭では、奠玉帛・初献にそれぞれ《皇夏》の総論的歌辞(威儀の規範・四時代序を讃える)を用いたほか、青帝・赤帝・黄帝・白帝・黒帝それぞれとその配帝に対する個別の《雲門舞》歌辞があり、各帝の方位・季節・五行の徳(青帝は木徳・震宮、赤帝は火徳・炎精、黄帝は土徳・中央、白帝は金行・粛殺、黒帝は水徳・玄壇)にちなむ内容が歌われた。
  • 宗廟の歌辞では、皇帝入廟門(《皇夏》)、降神(《昭夏》)、俎入・皇帝升階(《皇夏》)と続き、皇高祖・皇曾祖徳皇帝・皇祖太祖文皇帝・文宣皇太后・閔皇帝・明皇帝・高祖武皇帝の各神室に献ずる際にそれぞれ個別の《皇夏》歌辞が用意され、各代の功業と徳行(太祖文皇帝室では函谷・河陽での争乱平定、武皇帝室では六軍西征・戎衣一定の天下平定を叙す)が讃えられた。皇帝が東壁に還り飲福酒する辞、還便坐の辞で締めくくられた。

北周の胡楽・百戲・鼓吹の変遷

  • 太祖が魏を輔けていた時期に高昌の伎楽が伝来し、饗宴の礼に用いられた。天和六年、武帝は掖庭の四夷楽を廃止したが、その後皇后を北狄(突厥)から迎えるにあたり得た康国・亀茲などの楽を、高昌の旧楽と併せて大司楽に習わせ、鐘石にも取り入れ『周官』の制に基づき陳列した。
  • 明帝武成二年正月朔旦、紫極殿での群臣会に初めて百戲を用いた。武帝は保定元年にこれを廃止する詔を下したが、宣帝の即位後に雑伎を広く召し百戲を大々的に増修、魚龍漫衍の伎を連日連夜殿前に陳列させ、容姿の良い城市の少年に婦人の服を着せて歌舞させ後庭に入れて宮人と見物するなど、遊興・戲楽が度を超え節度を失った。
  • 武帝は梁の鼓吹熊羆十二案を元正大会の懸間に列し正楽と合奏させた。宣帝の時、前代の鼓吹を改め十五曲を制定した。第一《朱鷺》改め《玄精季》(魏の衰微と太祖の王業開始)、第二《思悲翁》改め《征隴西》(太祖が侯莫陳悦を誅し隴右を平定)、第三《艾如張》改め《迎魏帝》(太祖が武帝〈孝武帝〉を関中に迎え奉る)、第四《上之回》改め《平竇泰》(太祖が竇泰を討ち尽く擒斬)、第五《擁離》改め《復恒農》(太祖が陝城を奪回し関東を震撼させる)、第六《戦城南》改め《克沙苑》(太祖が斉の十万の軍を沙苑で破り、神武帝が単騎で河を渡り逃走)、第七《巫山高》改め《戦河陰》(太祖が神武帝を河上で破り高敖曹・莫多婁貸文を斬る)、第八《上陵》改め《平漢東》(太祖が隨郡・安陸を平定)、第九《将進酒》改め《取巴蜀》(太祖が蜀地を平定)、第十《有所思》改め《抜江陵》(太祖が蕭繹を擒え南土を平定)、第十一《芳樹》改め《受魏禅》(閔帝が魏から受禅)、第十二《上邪》改め《宣重光》(明帝の即位)、第十三《君馬黄》改め《哲皇出》(高祖〈武帝〉の聖徳継承)、第十四《稚子班》改め《平東夏》(高祖が親征し斉を破り斉主を青州で捕らえ山東を平定)、第十五《聖人出》改め《擒明徹》(陳将呉明徹の徐部侵犯を高祖が撃退)。宣帝は朝早くから夜遅くまで常に鼓吹を陳列させ、同州への行幸の際は応門から赤岸まで数十里にわたり鼓楽を鳴らし、祈雨から仲山より還る際も京城の士女に衢巷で奏楽させて出迎えさせるなど、公私を疲弊させ北周滅亡の一因となった。

隋の高祖による楽制の制定

  • 高祖(文帝)は受命後に令を定め、宮懸は四面各二虡(通十二鎛鐘・合計二十虡)とし、虡ごとに一人、建鼓に四人、祝敔に各一人を配した。歌・琴・瑟・簫・築・箏・掐箏・臥箜篌・小琵琶は四面各十人を編磬の下に、笙・竽・長笛・横笛・簫・篳篥・篪・壎は四面各八人を編鐘の下に配し、舞はいずれも八佾とした。宮懸の簨虡には金の五博山を飾り旒蘇・羽を樹てた。漆については天地の神には朱漆、宗廟にはさらに五色の漆画を施し、天神の懸には雷鼓、地祇には霊鼓、宗廟には路鼓を加えた。登歌は鐘一虡・磬一虡に各一人、歌四人(琴瑟を兼ねる)、簫・笙・竽・横笛・篪・壎各一人を配し、漆画・博山・旒蘇・羽飾は宮懸に同じくした。登歌の人は介幘・朱連裳・烏皮履、宮懸及び下管の人は平巾幘・朱連裳、凱楽の人は武弁・朱褠衣・履襪を着した。
  • 文舞は進賢冠・絳紗連裳・帛内単・皁領袖褠・烏皮履を着し、左に籥、右に翟を執った。纛を執る二人が前を引き、舞人数の外に置かれた。武舞は武弁・朱褠衣・烏皮履を着し、三十二人が戈と龍楯を、三十二人が戚と亀(楯)を執り、旍を執る二人が先頭に立ち、鞀・鐸・鐃・錞を各二人、弓矢・殳・戟・矛を各四人が執り、いずれも舞人数の外で列を挟んで引率した。
  • 皇帝の宮懸・登歌は上と同じだが、漆はすべて五色漆画とし懸内に鼓を設けなかった。皇太子の軒懸は南面を去り三鎛鐘を辰・丑・申に設け、三建鼓も同様、登歌は兼歌者を除き二人減じ、簨虡は金三博山、楽器の漆はすべて朱漆とし、それ以外は宮懸に同じくした。
  • 大鼓・小鼓、大駕鼓吹はいずれも朱漆画とし、大鼓には金鐲を加え、凱楽・節鼓は羽葆で飾った。長鳴・中鳴・横吹はいずれも五采の衣幡・緋掌・交龍の画・五采の脚とし、大角の幡も同様とした。大鼓・長鳴の工人は皁地苣文、金鉦・㭎鼓・小鼓・中鳴・呉横吹の工人は青地苣文、凱楽の工人は武弁・朱褠衣に横吹は緋地苣文を着し、いずれも帽・袴褶とした。大角の工人は平巾幘・緋衫・白布大口袴を着し、内宮の鼓楽の服色もこれに準じた。皇太子の鐃・節鼓は朱漆画で羽葆飾り、残りの鼓吹は朱漆のみで大鼓・小鼓に金鐲を加えず、長鳴・中鳴・横吹は五采衣幡・緋掌・蹲獣画・五采脚とし、工人は紫帽・緋袴褶(大鼓・長鳴・横吹)または青帽・青袴褶(金鉦・㭎鼓・小鼓・中鳴)、鐃吹の工人は武弁・朱褠衣、大角の工人は平巾幘・緋衫・白布大口袴とした。
  • 正一品も同様の規格を持ち、鐃・節鼓は朱漆画で羽葆飾り、工人の衣服も皇太子に準じた。三品以上は朱漆の鐃を五采で飾り、騶・哄の工人は武弁・朱褠衣とし、その他は正一品に同じくした。四品は鐃と工人衣服は三品と同じだが、その他の鼓はすべて緑沈とし、金鉦・㭎鼓・大鼓の工人は青帽・青布袴褶とした。

開皇の楽制論争――蘇祗婆の七調説

  • 開皇二年、斉出身の黄門侍郎顔之推が「礼楽の崩壊は久しく、現行の太常雅楽は胡声を用いており不当である、梁の旧事に倣い古典を考究すべき」と上言したが、高祖は「梁楽は亡国の音だ、なぜそれを我に用いさせるのか」と退けた。当時なお周の楽を踏襲しており、工人斉樹提に検校させ声律の改変を試みたがうまく通じなかった。
  • のち柱国・沛公鄭訳が上奏して改正を願い出、高祖は太常卿牛弘・国子祭酒辛彦之・国子博士何妥らに正楽を議定させたが、音律の乱れが久しく議論はまとまらなかった。高祖は「我が受命七年にもなお前代の功徳の楽府を歌っているのか」と怒り、治書侍御史李諤に命じ牛弘らを罪しようとしたが、李諤が「武王が殷を克ち周公が成王を輔けるまでかけて初めて礼楽を制した、事は重大で速成できない」と奏し高祖の怒りはやや解けた。
  • 高祖はさらに知音の士を尚書省に集め音楽を参定させた。鄭訳は、楽府の鐘石律呂には宮・商・角・徴・羽・変宮・変徴の七声の名があるが、そのうち三声が乖離し長年通じなかったこと、先に周の武帝の時代、亀茲人蘇祗婆(突厥皇后に従い入国、胡琵琶の名手)が父より伝えられた七種の調──娑陀力(華言で平声、宮声に当たる)・雞識(長声、商声)・沙識(質直声、角声)・沙侯加濫(応声、変徴声)・沙臘(応和声、徴声)・般贍(五声、羽声)・俟利(斛牛声、変宮声)──を伝え、これにより七声の正しい対応(冥符)が初めて得られたことを述べた。鄭訳はこの七調を琵琶の弦柱の絃飲によって均(旦)に演繹し、黄鐘・太簇・林鐘・南呂・姑洗など五均に加え七律を推し、七調十二律を合わせ八十四調とする理論を立てた。そのうえで太楽の実際の演奏を検すると、林鐘の宮は本来林鐘を宮とすべきところ黄鐘を宮に用い、南呂を商とすべきところ太簇を商に用い、応鐘を角とすべきところ姑洗を角に用いるなど、十一宮七十七音のほとんどが誤って伝わっていることを指摘し、七音のほかに応声を立て八音の楽を作った。鄭訳はこの理を明らかにする書二十余篇を著し、朝廷に示して議を立てた。
  • 邳国公世子蘇夔もまた楽に明るいとされ、鄭訳に「『韓詩外伝』の五音感人説、『月令』の五音所中説、『春秋左氏伝』の『七音六律、以て五声を奉ず』はいずれも五声のみを言い変宮・変徴を言わない。七調の出所は未詳である」と反駁した。鄭訳は『漢書律暦志』の七始(黄鐘=天始、林鐘=地始、太簇=人始で三始、姑洗=春・蕤賓=夏・南呂=秋・応鐘=冬で四時、合わせて七)を挙げ、二変の調を用いなければ冬夏の声が欠け四時が備わらないとして毎宮に七調を立てるべきと答え、衆議はこの説に従った。鄭訳・蘇夔は共に、当時の楽府黄鐘が林鐘を調首とし君臣の義を失っていること、清楽黄鐘宮が小呂を変徴とし相生の理に背いていることを指摘し、雅楽黄鐘宮は黄鐘を調首とし、清楽は小呂を廃して蕤賓を変徴に戻すべきと請い、衆議はこれに従った。
  • 蘇夔はさらに鄭訳と共に累黍法によって律呂を厳密に定めようとし、音律さえ定まれば楽声も定まると考えた。しかし旧学で名高く高祖の信任が篤かった何妥は、自らが鄭訳らに及ばないことを恥じ、その事業を妨げようとした。何妥は十二律旋相為宮の説を非とし、「経文は旋相為宮を説くが、これは理を述べたに過ぎず月ごとの調の使用まで通じるものではない、鄭玄・司馬彪の説に従えば六十律を要するが、鄭訳は黄鐘の正宮のみを取り七始の妙義を得ており、金石の諧韻のみならず簨虡も煩雑にならない」と一部擁護しつつも、七調の説自体は否定し、「近代の縵楽・鼓琴・吹笛の伝では多く三調と言われてきた、三調のみを存すべきである」と主張した。
  • 当時、牛弘が楽事を総知していたが音律に精しくなく、識音の士万宝常(洛陽の旧曲を修め、幼くして音律を学び祖孝徴に師事、上代の調楽・周の璧翣・殷の崇牙・懸八用七の制などに通じていた)も、正声はなお前漢の楽に近く廃すべきでないとした。諸説が対立し各々朋党を立て、是非が紛然と乱れた。ある者は各派に作らせ完成を待って優れたものを採るべきだと言ったが、何妥は自派の楽が完成すれば優劣が明らかになるのを恐れ、高祖に楽を試演させることを願い出た。何妥はまず「黄鐘は人君の徳を象る」と説き、黄鐘の調を奏させたところ、高祖は「滔滔として和雅、甚だ我が心にかなう」と喜んだ。何妥はさらに黄鐘一宮のみを用い他律を借りない案を進言し、高祖は大いに悦んで何妥ら制楽に携わった者に褒賞を与えた。これにより鄭訳らの議論は立ち消えとなった。