隋書卷五 恭帝

出自と生い立ち

  • 恭皇帝、諱は侑、元德太子の子。母は韋妃。聡敏で気度があった。大業三年、陳王に立てられ、後に代王(食邑万戸)に徙る。煬帝の遼東親征に際し京師の留守を委ねられた。十一年、晋陽への行幸に従い太原太守を拝命。まもなく京師を鎮する。義兵(唐公)が長安に入ると煬帝を太上皇に尊び、帝の即位を奉じた。

義寧元年(617年)

  • 十一月壬戌、大興殿で皇帝位に即く。詔して、幼くして憂難に遭い太尉唐公が義兵を糾合し皇室を輔けた功を称え、三譲の末に即位したこと、大業十三年を義寧元年と改め、十一月十六日昧爽以前の大辟罪以下を大赦することを述べる。甲子、唐公を仮黄鉞・使持節・大都督内外諸軍事・尚書令・大丞相とし唐王に進封。丙寅、幼少での即位に軍国機務を丞相府に委ねる詔。己巳、唐王の子建成を唐国世子、世民を京兆尹・改封秦公、元吉を斉公とし各食邑万戸、太原に鎮北府を置く。張掖の康老和が挙兵。
  • 十二月、薛挙が天子を称し扶風を侵すも秦公(世民)が撃破。桂陽の曹武徹が挙兵し通聖と建元。義師が屈突通を閿郷で捕らえ数万を虜にする。張善安が廬江郡を陥す。

義寧二年(618年)

  • 正月、唐王に剣履上殿・入朝不趨・賛拝不名・前後羽葆鼓吹を許す詔。王世充が李密に敗れ孟善誼・王辯・楊威・劉長恭・梁徳・董智通が戦死。独孤武都が河陽郡尉として李密に降る。
  • 三月、宇文化及が江都宮で太上皇(煬帝)を殺害、独孤盛が戦死。斉王暕・趙王杲・燕王倓、宇文協・虞世基・裴蘊・許善心らが皆殺される。化及は秦王浩を帝に立て大丞相を称し朝士は皆その官爵を受けた。麦才・沈光が化及の営を夜襲するも討たれる。唐王に九錫の礼、璽紱・遠遊冠・緑綟綬、諸侯王上位を許す詔。
  • 五月、唐王に十二旒の冕・天子旌旗・金根車・五時副車・旄頭雲罕車・八佾の儛・鍾虡宮懸を許す詔。禅位の詔(大行太上皇の江都での横死を悲しみ、唐王の功徳と九合一匡の勲を述べ、虞夏の禅譲の故事に倣い天命を避けて藩国に帰ることを希望し、庶官群辟に唐朝への出仕を促す旨)。上は表奏を一切上げさせぬよう命じ、この日大唐に位を遜り酅国公とされた。武徳二年(619年)夏五月に崩御、時に年十五。

史論

史臣は言う。恭帝は幼沖にして国家の多難に遭い、一人の失徳で四海が土崩した。群盗が蜂起し豺狼が路を塞ぐ中、南巣・流彘の故事さながら流離して帰らなかった。百六の期に遭い数終の運を身をもって経験し、謳歌の帰する所が変わり笙鍾の響きも変わった以上、堯舜に倣う禅譲の跡を辿らずにいられようか。