隋書卷四 煬帝下
隋の第二代皇帝、煬帝楊広(?-618年)の治世後半。大業八年(612年)以降三度にわたる高麗遠征がいずれも失敗し、楊玄感の乱を皮切りに各地で反乱が相次いで隋は瓦解した。大業十三年(617年)唐公李淵が挙兵して京師に入り、煬帝は江都に留まったまま義寧二年三月、宇文化及らに殺害された(享年50)。
大業八年(612年)――第一次高麗遠征
- 正月、大軍が涿郡に集結。段文振を左候衞大将軍とする。壬午、高麗討伐の詔(版泉・丹浦の故事、甘野・商郊の先例に擬え、高麗が漢魏の討伐後も種落を集め遼獩の境を侵し、契丹と結んで遼西を侵し、青丘・碧海の朝貢を遏絶し使者を拒絶した罪を数え、更に法令苛酷・賦斂煩重・兵戈不息の内政の乱れも述べ、討伐を布告)。左第一軍から右第十二軍までの二十四道の進路を指定(鏤方道・長岑道・海冥道・蓋馬道・建安道・南蘇道・遼東道・玄菟道・扶余道・朝鮮道・沃沮道・楽浪道・黏蟬道・含資道・渾弥道・臨屯道・候城道・提奚道・踏頓道・粛慎道・碣石道・東暆道・帯方道・襄平道)、滄海道軍は舟艫千里で浿江を横断し平壌に迫るとし、王者の師として高元が帰順すれば恩赦する旨を布告。
- 総兵力一百一十三万三千八百(号して二百万)、餽運者はその倍。癸未、第一軍発進、以後四十日かけ全軍が出発し旌旗が千里に亘る。近古未曾有の規模。衞玄を刑部尚書とする。内史令元寿卒去。
- 二月、従軍者の家の困窮への配慮を詔す。観王雄薨去。
- 三月、段文振卒去。上が師を率い遼水橋に臨む。大軍が賊に阻まれ渡れず、麦鉄杖・銭士雄・孟金叉らが戦死。遼水を渡り東岸で大戦し賊を破り遼東を包囲。二羽の大鳥(丈余、白身朱足)が現れ図を描かせ銘頌を立てさせる。
- 五月、楊達卒去。諸将は旨を奉じ機に応ぜず、高麗が城を固守し攻略できず。
- 六月、遼東に幸し諸将を叱責。六合城に留まる。
- 七月、宇文述らが薩水で大敗、辛世雄が戦死。九軍全滅、生還した将帥はわずか二千余騎。班師。
- 九月、東都に至る。文武の職事は勲功でなく才能により授けるべしとする詔(三方未一の乱世に武功が偏重され吏職の弊が生じたことを反省し、以後勲官による文武職事への回授を禁ずる)。
- 冬十月、宇文愷卒去。
- 十一月、宗女華容公主を高昌王に嫁がせる。韓寿卒去。宇文述・于仲文らを敗戦の責で除名、尚書右丞劉士龍を斬り天下に謝す。この年、大旱・疫病で死者多数(山東が特に甚だしい)。江淮南諸郡に密詔し容姿端麗な童女を毎年貢させる。
大業九年(613年)――楊玄感の乱
- 正月、天下の兵を徴し驍果として涿郡に集める。賊帥杜彦冰・王潤らが平原郡を陥し掠奪。折衝・果毅・武勇・雄武等の郎将官を置き驍果を統率させる。大赦。代王侑・衞玄に京師を鎮させる。李渾を右驍衞大将軍とする。平原の李徳逸が「阿舅賊」と称し数万を集め山東を掠め、霊武の白榆妄が「奴賊」と称し牧馬を掠め突厥と連携し隴右を荒らす(范貴の討伐は連年功なし)。
- 二月、済北の韓進洛が数万の盗賊を集める。宇文述らの官爵を復す。再度高麗討伐の兵を徴す。
- 三月、済陰の孟海公が挙兵し数万に及ぶ。丁男十万で大興城を築く。遼東に行幸、越王侗・樊子蓋が東都留守。北海の郭方預(自号盧公)が三万を集め郡城を陥す。
- 夏四月、遼水を渡る。宇文述・楊義臣を平壌へ進ませる。
- 五月、熒惑が南斗に入る。済北の甄宝車が万余を集め城邑を侵す。
- 六月、礼部尚書楊玄感が黎陽で反し東都に迫る。河南贊務裴弘策が敗れる。兵部侍郎斛斯政が高麗に奔る。上が班師、高麗が後軍を犯すも李景が防ぐ。宇文述・屈突通らに玄感討伐を命ずる。
- 秋七月、県府駅の築城を命ずる。餘杭の劉元進が数万で挙兵。
- 八月、宇文述らが閿郷で楊玄感を破り斬る(残党平定)。呉の朱燮・晋陵の管崇が十余万を集め江左を侵す。驍果の家に賦役免除。郡県城を道より五里以上離れた地に遷す詔。盗賊の家産籍没制。陳瑱ら三万が信安郡を陥す。趙元淑が罪により誅される。
- 九月、済陰の呉海流・東海の彭孝才が数万で挙兵。梁慧尚が四万で蒼梧郡を陥す。上谷に至り供費不足で虞荷ら太守を免職。東陽の李三児・向但子が万余で挙兵。
- 閏月、博陵に幸す。八歳の頃の思い出を語り涙する。
- 冬十月、呂明星の乱を費青奴が討つ。博陵を高陽郡と改称し境内の死罪以下を赦し一年の給復。高祖時の故吏を登用。蘇威を開府儀同三司とする。朱燮・管崇が劉元進を天子に推す(吐万緒・魚俱羅の討伐は連年功なし)。斉の孟譲・王薄らが十余万で長白山に拠り諸郡を侵す、清河の張金称、渤海の格謙(燕王を号す)、孫宣雅(斉王を号す)が各十万で山東を苦しめる。郭栄を右候衞大将軍とする。
- 十一月、馮孝慈が清河で張金称に敗れ戦死。
- 十二月、玄感の弟楊積善らを車裂・焼却。扶風の向海明が皇帝を称し白烏と建元、楊義臣が撃破。
大業十年(614年)
- 正月、宗女を信義公主として突厥曷娑那可汗に嫁がせる。
- 二月、伐高麗を百僚に議させるも敢えて言う者なし。前回の遼西出征での漢王諒・高熲の失敗と死没者の弔慰の詔。黄帝・成湯・漢祖・光武の故事に擬え再度の高麗討伐を布告する詔(去歳の遼碣出征の戦果と高元の一旦の降伏、その後の背信を非難)。扶風の唐弼が十万を集め李弘を天子に推し自ら唐王と称す。
- 三月、涿郡に行幸。臨渝宮で黄帝を禡祭し叛軍の者を斬り鼓に釁る。
- 夏四月、彭城の張大彪の乱を董純が討平。北平に至る。
- 五月、郡の孝悌廉潔各十人の推挙を詔す。宋世謨が琅邪郡を陥す。延安の劉迦論が皇王を称し大世と建元。
- 六月、鄭文雅・林寶護らが建安郡を陥し太守楊景祥が戦死。
- 秋七月、懐遠鎮に至る。曹国使来貢。高麗が降を請い斛斯政を送還、上大いに悦ぶ。
- 八月、班師。鄭栄卒去。
- 冬十月、東都に至り京師に還る。
- 十一月、斛斯政を金光門外で支解。南郊を祀る。司馬長安が長平郡を破る。離石の劉苗王が天子を称し反乱(弟六児を永安王)、潘長文の討伐は功なし。王徳仁が数万で林慮山に拠る。
- 十二月、東都に幸し大赦。孟譲十余万を王世充が破りその衆を虜にする。
大業十一年(615年)
- 正月、百僚を大宴。突厥・新羅・靺鞨等多数の国が朝貢。顔宣政の乱を高建毗が破る。蛮夷を集め魚龍曼延の楽を設ける。
- 二月、揚仲緒の乱を李景が破る。人を城居させ田を近くに給する令。上谷の王須拔(漫天王、国号燕)、魏刁児(歴山飛)が各十余万で突厥と連携し北方を荒らす。
- 五月、李渾・李敏を族滅。司馬長安が西河郡を破る。太原に幸し汾陽宮で避暑。
- 秋七月、淮南の張起緒が三万で挙兵。張寿卒去。
- 八月、北塞を巡る。突厥始畢可汗が数十万騎で乗輿を襲おうとするが義成公主の通報で発覚。雁門に馳幸するも突厥に包囲され官軍苦戦。樊子蓋の諫言で突囲を思いとどまる。斉王暕が崞県に後軍を保つ。天下諸郡に募兵を詔す。
- 九月、突厥が囲みを解く。太原・雁門郡の死罪以下を曲赦。
- 冬十月、東都に至る。魏騏驎の乱が魯郡を侵す。盧明月十余万が陳・汝間を侵す。東海の李子通(楚王、明政)が江都を侵す。
- 十一月、王須拔が高陽郡を破る。
- 十二月、流星が明月営に落ち衝車を破壊。樊子蓋に絳郡の敬盤陀・柴保昌討伐を命ずる(連年功なし)。譙郡の朱粲(楚帝、昌達)が数十万で荊襄を侵し漢南諸郡が陥る。
大業十二年(616年)
- 正月、雁門の翟松柏が数万で挙兵。
- 二月、真臘国使来貢。二羽の大鳥が大業殿に飛来。東海の盧公暹が万余で蒼山に拠る。
- 夏四月、顕陽門で火災。魏刁児の部将甄翟児(歴山飛)十万が太原を侵し潘長文が敗死。
- 五月、日蝕。呉郡に石が隕ちる。景華宮で蛍火を求め夜山に放つ。
- 秋七月、樊子蓋卒去。江都宮に行幸、越王侗・段達・元文都・韋津・皇甫無逸・盧楚らに東都留後を委ねる。奉信郎崔民象の諫言を怒り斬る。馮翊の孫華が総管を号し挙兵。高涼の洗珤徹の乱に嶺南溪洞が呼応。汜水にて奉信郎王愛仁の還京の諫言も斬って進む。
- 八月、趙万海数十万が恒山より高陽を侵す。流星が牆の崩れる音を立てる(二度)。
- 九月、杜揚州・沈覔敵の乱を陳稜が破る。枉矢が北斗から南斗へ流れる。荔非世雄が反乱。
- 冬十月、宇文述薨去。
- 十二月、操天成(元興王、始興)が豫章郡を陥す。来護児を開府儀同三司とする。林士弘(皇帝、楚、太平)が九江・廬陵郡を陥す。唐公が西河で甄翟児を破る。
大業十三年(617年)――隋の瓦解
- 正月、杜伏威が歴陽郡を陥す。竇建徳が河間の楽寿で長楽王を称し丁丑と建元。徐円朗が東平郡を破る。劉企成が万余で挙兵。
- 二月、梁師都が郡丞唐世宗を殺し大丞相を称し反す(張世隆の討伐は敗北)。王子英が上谷郡を破る。劉武周が太守王仁恭を殺し定楊可汗を称し突厥と結ぶ。李密・翟譲が興洛倉を陥す(劉長恭・房崱の討伐は敗北)。李密が魏公を称し元年と改元、数十万を擁し河南諸郡が陥る。劉武周が桑乾鎮で王智弁を破り戦死させる。
- 三月、張子路の乱を陳稜が討平。李通徳十万が廬江を侵すも張鎮州が破る。
- 夏四月、薛挙が西秦覇王・秦興と称し隴右諸郡を陥す。孟譲が東都外郭に夜襲し豊都市を焼く。李密が迴洛東倉を陥す。房憲伯が汝陰郡を陥す。裴仁基・趙佗らが李密に投降。
- 五月、唐公が太原で挙兵。突厥数千を唐公が撃破。
- 秋七月、李軌が涼王・安楽と称し河西諸郡を陥す。
- 八月、唐公が霍邑で宋老生を斬る。
- 九月、江都で寡婦を徴し従兵に配す。元宝蔵が黎陽倉を陥す。彗星が営室に現れる。
- 冬十月、楊世洛が挙兵。蕭銑が羅県で反し董景珍がこれを梁王に迎え傍郡を陥す。甄宝車を高毗が破る。
- 十一月、唐公が京師に入る。帝を太上皇と尊び代王侑を帝に立て義寧と改元。上は丹陽に宮を起こし江左への遷幸を図るも、烏鵲が幄帳に巣くい追っても去らず、熒惑が太微を犯し、石が揚子に浮かび入り、日光が流血のように四散するなど凶兆が続き上はこれを甚だ悪んだ。
煬帝の最期
- 義寧二年三月、右屯衞将軍宇文化及、武賁郎将司馬徳戡・元礼、監門直閣裴虔通、将作少監宇文智及、武勇郎将趙行枢、鷹揚郎将孟景、内史舎人元敏、符璽郎李覆・牛方裕、千牛左右李孝本・李孝質、直長許弘仁・薛世良、城門郎唐奉義、医正張愷らが驍果を率い宮闈を犯した。上は温室で崩御、時に年五十。蕭后は宮人に牀簀を撤して棺とし埋葬させた。化及が発った後、右禦衞将軍陳稜が梓宮を成象殿に奉じ呉公台下に葬った(発斂の時、容貌は生けるが如く人々が異とした)。唐が江南平定後、雷塘に改葬した。
煬帝の人物評
- もともと藩王で本来即位すべき次でなかったため矯情飾行し虚名を釣り密かに奪嫡を図った。高祖が独孤皇后を信じ妾媵を忌んだことを知り、太子勇が嬖幸多く失愛した一方、自らの後宮の子を育てず私寵なきを装い皇后に取り入った。大臣・中使に対しても厚礼で応じ婢僕からも仁孝と称された。密かに宮掖に入り献后と謀り、楊素らの構扇により廃立が成った。高祖崩御後の諒闇のうちに淫を極め、陵墓が完成するとすぐ巡遊を始め、秦皇漢武を慕って宮室を盛んに造営し、諸蕃に使者を送り不恭な者は兵で撃った。玉門・柳城の外に屯田を興し、富室に武馬を課し、価は十余万に及び富強な家の十のうち九が凍餒した。行幸先を人に知られぬよう好み、道中の贅を求めて郡県官の献食競争を招き、姦吏の侵漁で内外が虚しくなった。軍国多事の中で政事を厭い冤屈が放置され、臣下を猜忌して高熲・賀若弼・張衡・李金才ら功臣を無実の罪で誅殺した。政刑が乱れ賄賂が横行し人々は道路で目配せするのみとなった。六軍が休まず百役が繁興し人が飢えて相食み邑落が墟となっても顧みなかった。定住せぬ巡幸のたびに数年分の賦を先取りし、後宮との淫楽に耽り媼を招き醜言を交わし少年を宮人と穢すことを娯楽とした。盗賊が蜂起し官を屠り城を陥しても近臣は実数を隠し、正直に報告する者は詰責され、出師は敗亡を重ねた。戦士は力を尽くしても賞されず、罪なき百姓が屠戮され、天下が土崩しても捕らえられるまで悟らなかった。
史論
史臣は言う。煬帝は若くして令聞があり南は呉会を平らげ北は匈奴を退け兄弟の中で独り功績を著したが、矯情飾貌して姦を肆にし、献后の寵愛と文帝の考えの変化により儲貳の座に登った。地は三代より広く威は八紘を振るい単于・越裳が款服したが、富強を恃み無厭の欲を逞しくし、殷周の制度を狭しとし秦漢の規模を尚び、才を恃み己を矜り、内は険躁を懐き外は凝簡を示し、冠服を盛んにして姦を飾り諫官を除いて過を掩った。淫荒法令が滋章となり、骨肉を鋤誅し忠良を屠り、賞せられる者は功を見ず戮せられる者は罪を知らなかった。驕怒の兵をしばしば動かし土木の功を休めず、朔方に頻出し三たび遼左に駕し、旌旗万里、徴税百端、猾吏の侵漁で人が命に堪えなかった。急令暴条・厳刑峻法で臨んだため海内が騒然とし、玄感の乱・雁門の囲みが起こると天子は中土を棄て揚越に赴き、姦宄が乗じ関梁が閉ざされ皇輿は還らなかった。師旅と飢饉が重なり流離転死する者が十のうち八九に及び、大は州郡に跨り帝王を称し小は千百で群れをなし攻城剽邑した。四方から上奏が続いても鼠竊狗盗と侮り、上下相蒙じ乱を思わず、蜉蝣の羽を振るい長夜の楽に耽った。土崩魚爛して天下すべてが仇讎となり、望夷の故事さながらに万乗の尊が一夫の手に死んだ。子弟は共に誅夷され骸骨は掩われず社稷が顛覆し本枝が絶えた。書契以来これほど甚だしい喪身滅国はない。「天作孽、猶可違、自作孽、不可逭」(書経)、「吉凶由人、祅不妄作」、「兵猶火也、不戢将自焚」の言葉どおり、隋室の存亡はまさにこれを証している。