隋書卷六 礼儀一

礼制の淵源

  • 唐虞の時代、天を祭るのを天礼、地を祭るのを地礼、宗廟を祭るのを人礼といい、伯夷がこれを掌った。殷は夏を継ぎ損益を加えたが、殷の紂王の無道で礼の規範が失われた。周公は乱を救い、吉礼(鬼神を敬う)・凶礼(邦国を哀しむ)・賓礼(賓客に親しむ)・軍礼(不虔を誅する)・嘉礼(婚姻を合わせる)の五礼を弘めた。成王・康王の代には刑罰を用いずに済んだ。
  • 犬戎の乱以降、周が衰えると礼楽も微弱となり、孔子は蜡祭で「禹・湯・文・武・成王・周公は皆礼を謹んだ」と嘆じ礼楽の興隆を図ったが用いられなかった。婚姻の礼が廃れれば淫僻の罪が増え、郷飲酒の礼が廃れれば争闘の獄が繁くなり、喪祭の礼が廃れれば骨肉の恩が薄くなり、朝聘の礼が廃れれば侵陵の兆しが起こる、という道理が説かれる。
  • 秦は戦勝の威で九国を併呑し儀礼を尽く咸陽に集めたが、君を尊び臣を抑える部分だけを採用し、他は詩書とともに焼かれた。漢高祖は叔孫通の建言で朝儀を起こしたが、文武の古法を踏襲する余裕はなかった。武帝は典制を興したが方術を愛し祭祀が乱れた。後漢の光武帝・明帝で明堂・冠冕・霊台の制が時宜を得て民に悦ばれたが、その後も礼は時代とともに変転した。
  • 梁の武帝は羣儒に大典を裁定させた(吉礼は明山賓、凶礼は厳植之、軍礼は陸璉、賓礼は賀瑒、嘉礼は司馬褧が担当、沈約・周捨・徐勉・何佟之らも参与)。陳の武帝は梁の旧制に多くを準じ、江徳藻・沈洙・沈文阿・劉師知らに随時取捨させた。北斉は陽休之・元修伯・王晞・熊安生、北周は蘇綽・盧辯・宇文㢸が礼儀に通じていた。隋の高祖は牛弘・辛彦之らに梁・北斉の儀注を採らせ五礼を定めさせた。

郊祀の学説と梁・陳の制度

  • 天を祭る礼の解釈には鄭学(一年に天を九祭・地を二祭とし、圜丘・方沢は三年に一度合わせて行うとする説)と王学(昊天のみで五精の帝を認めず、一年に南郊で二祭とし、五時迎気は人帝の祭祀で天の祭祀ではないとする説)の二流があり、梁・陳から隋に至るまで議者はいずれかの師説に従ったため郊丘の制はしばしば変更された。
  • 梁の南郊は国都の南に高さ二丈七尺・上径十一丈・下径十八丈の円壇、外に再重の壝と四門を設け、北郊と隔年で正月上辛に特牛一頭で天皇上帝を祀り皇考太祖文帝を配した(蒼璧の制幣、五方上帝・五官の神・太一・天一・日月・五星・二十八宿・太微・軒轅・文昌・北斗・三台・老人・風伯・司空・雷電・雨師が従祀)。北郊は方壇(上方十丈・下方十二丈・高一丈)で后地の神を徳后配で祀り、五官の神・先農・五岳・四海・四瀆等が従祀。
  • 天監年間、何佟之・明山賓・朱异らが冬至の祭天と啓蟄の祈穀を分ける議論、祼礼の要否、祭器の焼埋、皇天座・后地座の呼称、南北郊の香の違い、二儀の祀日の統一、四望の座の省略、一献か三献か、五祀の位置、風師雨師と箕畢星の関係、俎の材質、坎位の設置と省略などを次々議定し、天監十七年には南郊で五帝祀を除き十二辰座を加えるなど頻繁に改訂された。
  • 陳は永定元年、武帝受禅の後に南郊を修め(円壇高二丈二尺五寸)、皇考徳皇帝を配し、翌年正月には十二辰座を除き五帝位を加えるなど梁の旧制に準じた。文帝天嘉中には南郊を高祖配、北郊を徳皇帝配に改めた。許亨の奏(五祀は北郊にとどめ圜丘で重複させない、箕畢星と風師雨師は別ものとし郊での星位祭祀は除く、一献でなく三献を用いる)が容れられた。廃帝光大中には昭后を北郊に配し、宣帝は南北二郊が卑小として拡張を議し、太建十一年、王元規が漢・梁の壇制を考証し南郊壇上径十二丈・高二丈七尺、北郊壇上方十丈・高一丈二尺への増修を上奏し詔許された。後主の代には典礼への関心が薄れ改作なく陳は滅んだ。

北斉・北周の郊祀

  • 北斉は圜丘・方沢を三年に一度祭る禘祀とした。圜丘は国の南郊、下広輪二百七十尺・上広輪四十六尺・高四十五尺の三成の壇で、正月上辛に蒼璧束帛で昊天上帝を祀り高祖神武皇帝を配し、五精の帝・日月五星・北斗二十八宿・司中司命司人司禄・風師雨師・霊星等が従祀(蒼牲九)。方沢は国の北郊にあり、夏至に黄琮束帛で崑崙皇地祇を禘し武明皇后を配し、神州の神・社稷・岱岳以下多数の山川(会稽・衡・恒・太行・河・江・淮・済等列挙は原文参照)が従祀(牲十二)。南北郊は歳一祀で正月上辛、南郊は所感帝霊威仰を高祖神武皇帝配で、北郊は神州神を武明皇后配で祀った。
  • 北周は周制に多く依り、圜丘は三成(高一丈二尺、深二丈、上径六丈、十二階)、方丘も同様の規模で国都の南北の郊に置かれた。圜丘では始祖炎帝神農氏を昊天上帝に配し、南郊では始祖献侯莫那を所感帝霊威仰に配し、北郊方丘では神農を后地の祇に配した。用牲の色は方位ごとに定められた。

隋の郊祀制度

  • 高祖受命後、辛彦之に祀典を議定させ、国の南太陽門外道東二里に四成(各高八尺一寸、下成広二十丈より四成広五丈まで逓減)の圜丘を築き、冬至に昊天上帝を祀り太祖武元皇帝を配した(五方上帝・日月五星・内官四十二座・次官百三十六座・外官百十一座・衆星三百六十座が従祀。上帝・配帝に蒼犢二、五帝・日月に方色犢各一、五星以下に羊豕各九)。方丘は宮城の北十四里に二成(下成方十丈・上成方五丈)を築き、夏至に皇地祇を太祖配で祀り神州・迎州・冀州・戎州・拾州・柱州・営州・咸州・陽州の九州及び山海川林等が従祀した。南郊は太陽門外道西一里・高七尺・広四丈の壇で孟春上辛に所感帝赤熛怒を太祖武元皇帝配で祀り(四圭有邸、騂犢二)、北郊は孟冬に神州の神を太祖配で祀った。
  • 大祀(昊天上帝・五方上帝・日月・皇地祇・神州社稷・宗廟)は散斎四日・致斎三日、中祀(星辰・五祀・四望)は散斎云々、小祀(司中司命風師雨師・諸星諸山川)と区分し、大祀の牲は滌に九旬、中祀三旬、小祀一旬養う。犠牲は打擲を禁じ死ねば埋める定めであった。
  • 高祖は受禅後、民心を得るため符瑞をしばしば喧伝させ、仁寿元年冬至の南郊祭では封禅の礼に準じ、昊天上帝への長大な祝文(受命の経緯、開皇以来の瑞祥として一角獣・松に変じた楊樹・石魚・玉亀・宮中の石が玉に変じた話・黄銀・碧玉・野鵝・神鹿・騶虞・玄狐玄豹・白兔白狼・赤雀蒼烏・嘉禾連理等、無数の祥瑞)が奏された。大業元年、煬帝は孟春の感帝祀・孟冬の神州祀の配を高祖文帝に改めた。大業十年冬至の圜丘祭では大風の中、帝自ら上帝を献じ三公が五帝に分献した。

明堂

  • 明堂の祭祀対象・室数(九室か五室か)・服制(大裘か袞服か)・献酌の回数・供物の質文などは歴代議論が絶えなかった。梁では天監七年に大裘への改服、儀曹郎朱异の議で祭器を瓦樽・純漆に改め一献のみとし五帝の順序を青帝から始めるなど整備が進んだが、明堂の「室」の有無自体が武帝と朱异の間で結論を見ず、太常丞虞㬭の周礼九尺の筵説により大業十二年ようやく宋の太極殿を壊しその材で明堂十二間(中央六間に五帝と配帝を安置)を建てた。
  • 陳の明堂は殿屋十二間で北斉制に依り六座を安置、配帝は各帝ごとに異なった。北斉は考工記の五室説、北周は三輔黄図の九室説を採ったがいずれも建立には至らなかった。
  • 隋の高祖は開皇十三年に明堂の議定を詔し、牛弘・辛彦之らが議定、宇文愷が月令に基づく重檐複廟・五房四達の木様を献じ規兆を安業里に定めたが議論が続き沙汰やみとなった。大業中に宇文愷が再び明堂の議・様を献じたが霍山での採木のみで築造には至らなかった。隋代を通じ五方上帝の祭祀は明堂に代えて雩壇上で季秋に行われ、太祖武元皇帝を人帝の側に配し牲は犢十二であった。