漢書卷九十八 元后傳第六十八 孝元王皇后(王莽の姑)
孝元王皇后(政君、王莽の姑)。魏郡元城の人。元帝の皇后となり成帝を生み、成帝即位後は皇太后として弟王鳳ら五侯の専権を許し、王氏興隆の起点となった。哀帝期に一時逼塞したが、平帝期に甥王莽を大司馬に起用し、王莽簒奪の足がかりを作った。晩年、伝国璽の引き渡しを拒み莽を罵倒したが最終的には渡し、王莽の簒位後も漢の旧習を守り続けた。
出自と生い立ち
- 孝元王皇后は王莽の姑にあたる。王莽は自らを黄帝の後裔と称し、その系譜は黄帝―舜(媯水に因み媯姓)―周の陳の胡公満―十三世の孫敬仲(斉に奔り田氏となる)―田和(斉王)―秦に滅ぼされた王建―項羽により済北王に封ぜられた王安(漢の代に国を失い「王家」を称し王氏の祖となる)と続く。
- 王安の孫王遂(伯紀)の子が王賀(翁孺)。武帝の繡衣御史として魏郡の盗賊堅盧らを追捕した際、他の御史が千人単位を誅殺する中、王賀は捕縛した者を助命した。「千人を活かせば子孫に封あり、我が活かした者は万余人、後世必ず興らん」と語ったという。免官後、魏郡元城委粟里に移り三老となり、土地の長老が「春秋の沙麓崩壊から645年後に聖女が斉の田氏より興る」との予言を伝えたと記される。
- 王賀の子王禁(稚君)は法律を学び廷尉史となり、本始三年に娘政君(後の元后)を生んだ。王禁は四女八男をもうけ、鳳・崇・政君のみが同母(李氏所生)であった。政君は身重の母が月が懐に入る夢を見て生まれ、婉順で婦人の徳を備えたが、縁談が二度とも相手の死で流れたため、父が占わせると「大貴、言うべからず」との卦が出た。五鳳年間、18歳で掖庭に入り家人子となった。
元帝の皇后となるまで
- 皇太子(後の元帝)の寵愛した司馬良娣が「他の娣妾に呪詛され死ぬ」と言い残して病死し、太子は悲しみのあまり他の娣妾を遠ざけるようになった。宣帝の意向で皇后が後宮の家人子の中から侍らせる女性を選ぶことになり、政君もその一人に選ばれた。太子は5人の中に格別の意はなかったが、皇后に問われ「この中の一人でよい」と答えた際、たまたま太子の近くに座り緋色の縁取りの衣を着ていた政君が選ばれ、太子の寵を受け身ごもった。他の娣妾は7、8年侍っても子がなかったのに対し、政君は一度の幸で懐妊し、甘露三年に成帝を生んだ。宣帝はこの孫を「驁」と名づけ寵愛した。
- 宣帝崩御後、太子が即位(元帝)、政君は倢伃となり、3日後に皇后に立てられた。父王禁は陽平侯に封ぜられた。しかし元帝の寵は薄く、傅昭儀の生んだ定陶共王が寵愛され、元帝はしばしば太子(成帝)を廃し共王を立てようとしたが、侍中史丹の擁護もあり廃立を免れた(詳細は史丹伝)。
王鳳の専権と元后の摂政
- 元帝崩御後、成帝が即位、皇太后(政君)の弟王鳳が大司馬大将軍となり、これより王氏の興隆が始まった。太后の同母弟王崇も安成侯に、庶弟の譚らも関内侯に封ぜられた。同年夏、黄霧が終日空を覆う異変があり、諫大夫楊興らは「陰盛んにして陽を侵す気、外戚が功なくして侯となったことへの天の戒め」と論じた。王鳳は恐れて辞職を願い出たが、成帝は「咎は朕の身にある」として慰留した。
- その後、太后の弟譚・商・立・根・逢時が同日に五侯(平阿侯・成都侯・紅陽侯・曲陽侯・高平侯)に封ぜられた。王氏一族は朝廷の要職を占め、五侯は競って奢侈を極め、後庭の姫妾は各数十人、僮奴は千百を数え、大邸宅・土山・楼閣を築いた。当時の民謡は「五侯初めて起こり、曲陽最も怒(さかん)なり」と諷刺したという。王鳳は輔政11年に及んだ。
京兆尹王章の諫言と誅殺
- 定陶共王の入朝が長引く中、日食があり、王鳳はこれを共王が京師に留まることへの天の戒めとして帰国を進言、成帝はやむなくこれに従った。京兆尹王章はこれに異を唱え、封事(密奏)で「日食の咎は大臣の専権にある」と述べ、王鳳の不忠(王商の失脚、張美人を私する疑惑、羌胡ですら初子を殺して血統を正すという故事を持ち出した不敬な発言など)を列挙し、王鳳の罷免と馮野王の登用を進言した。成帝は当初これに動かされたが、太后の従弟王音がこの密議を漏らし王鳳の知るところとなり、王鳳は病と称して辞職を申し出る長文の上疏を奏上、太后も涙して食を断った。結局、王章は逆に「羌胡を引き匈奴に准え不敬の言を為した」として大逆罪に問われ獄死、妻子は合浦に流された。以後、公卿は皆王鳳を恐れるようになった。
五侯の専横とその後の継承
- 王鳳の死後(陽朔三年)、御史大夫王音が大司馬車騎将軍を継いだ。成都侯商は帝城を勝手に穿って灃水を引き入れ、曲陽侯根は僭上の邸宅を構えるなど、五侯の驕奢がついに成帝の逆鱗に触れ、一時は自ら黥劓(入れ墨・鼻削ぎの刑)を望むほどの騒動となったが、太后への配慮から処罰は見送られた。以後、王音・王商・王根・王莽(新都侯)が順次大司馬の位を継いだ。
- 王莽の父曼は早世していたため五侯の恩恵に浴せず、太后がこれを憐れみ甥の莽を格別に重んじた。莽は謙虚に振る舞い名声を得、王根の推薦で大司馬に任じられたが、成帝崩御・哀帝即位に伴い一旦辞職して私邸に退いた。
哀帝期の逼塞と平帝期の復権
- 哀帝の外家(傅氏・丁氏)が権勢を握ると、王氏は一時逼塞したが、哀帝崩御後、太皇太后(元后)は直ちに王莽を大司馬に起用し、中山王(平帝)を迎え立てた。莽は太后を欺き輔政の功を誇示し、群臣に奏させて自らを安漢公とし、次いで娘を平帝の皇后に立て、宰衡の号を得た。莽は太后の歓心を買うため、四季に応じた巡幸・養蚕の儀・秋の狩猟見物などを企画し、行く先々で恩恵を施し「権力を娯楽で買う」策を用いた。
- 平帝崩御後、莽は宣帝の玄孫で当時2歳の劉嬰を孺子として擁立し、自ら摂皇帝と称して周公の故事になぞらえた。太后はこれを快く思わなかったが制止できなかった。宗室の劉崇・翟義らが挙兵して莽討伐を図った際、太后は「人心は遠からず、莽もこれを見て必ず自ら危ぶむだろう」と述べたと伝わる。
伝国璽をめぐる対立
- 王莽が符命を奉じてついに「真皇帝」を自称するに至り、漢の伝国璽(始皇帝以来伝わる玉璽)の引き渡しを太后に求めたが、太后は頑として拒んだ。莽は安陽侯王舜(太后が信頼する甥)を遣り説得させたところ、太后は激怒し「お前たち一族は漢の恩恵で富貴を極めながら、孤児(孺子嬰)を託されるや国を奪う、犬豚もその残りを食わぬほどの恥知らずだ、この璽は不祥の亡国の印だ、私はこの璽とともに死ぬまで渡さぬ」と涙ながらに罵倒したが、王舜が返答に窮し悲しむ姿を見て、ついに璽を投げつけるように地に叩きつけ「私はもうすぐ死ぬ、お前たちの一族はいずれ滅ぼされるだろう」と言い放って渡した。
- 王莽は喜び、太后のために未央宮漸台で酒宴を催した。さらに莽は太后の尊号を漢の旧称から改めようとし、疎属の王諫が上書で「太皇太后は天命により漢が廃されたことに従い尊号を改めるべき」と諂ったところ、太后も一旦は「その通りだ」と応じたが、莽は逆にこれを「悖徳の臣」として王諫を誅殺した。その後、符命(銅璧の文言)により太后は「新室文母」と改称された。
- 莽はさらに漢の元帝廟を「高宗」として文母(太后)を配食させようとしたが、太后崩御を待たず廟を壊し文母のための新廟(長寿宮)を建てた。太后がこれを見て「これは漢家の宗廟だ、私に何の関わりがあってこれを壊すのか、たとえ鬼神が無知だとしても、私は帝の妃妾にすぎぬ身でどうして帝廟を辱めて自分の食事を供えさせてよいものか」と驚き泣いたと記される。太后は側近に「この人(莽)は神を侮ること甚だしい、いつまで天佑を得られようか」と漏らしたという。
- 王莽は漢の服制・正朔(暦)も改めたが、太后は自らの側近には旧来通り黒貂を着させ、漢の正朔・臘日には独り側近と酒を酌み交わし旧習を守った。太后は建国五年(王莽の新朝)、84歳で崩御、渭陵に合葬された。王莽は揚雄に誄(追悼文)を作らせ、沙麓の予言と結びつけて「太陰の精、沙麓の霊、漢に配して元を生ず」と讃えた。
王莽誅滅と紅陽侯家の末路
- 元后崩御の10年後、漢の兵が王莽を誅した。紅陽侯王立は先に国に帰り劉氏一族と誼を通じていたため、その子王丹は王莽期に中山太守となり、光武帝(世祖)の挙兵に降って将軍となり戦死、その子王泓は武桓侯に封ぜられた。
史論
- 司徒掾班彪曰く。三代以来、春秋に記された王公国君でその世を失った者は女寵によらぬ例が稀である。漢の興隆以来、后妃の家たる呂・霍・上官氏はいずれも国家をほとんど危うくした。そして王莽の興隆は孝元后に由来する。元后は漢四世にわたり天下の母として60余年に及ぶ栄華を享受し、一族の弟たちは代々国柄を握り、五将十侯を経てついに新(王莽の王朝)を成すに至った。すでに天下の位号は王莽に移っていたにもかかわらず、元后は最後まで一つの璽を手放すまいとした――これは婦人の仁というべきものであろう。哀しいことである。