孝元王皇后(成帝母)
- 王氏一族から十侯・五大司馬を輩出した外戚史上最盛の一族(詳細は別伝=元后伝に記す)。
孝成許皇后
- 大司馬車騎将軍平恩侯許嘉の娘。元帝の意向で皇太子(成帝)妃となり、即位後皇后となった。聡慧で史書(文字)に優れ寵愛を受けたが、皇子に恵まれず、後宮費用の削減を命じられた際、皇后は長文の上疏で家計の困窮と待遇の不公平を訴えた(要旨:質素倹約は承知するが、詔の運用があまりに厳格で湯沐邑からの支出さえ制約されるのは理不尽である、との内容)。成帝はこれに対し災異(日食・洪水等の凶兆)を引きつつ「後宮の驕りが咎の根」と戒める長文の詔で応じた。その後、大将軍王鳳の権勢増大とともに許后の寵は衰え、皇后の姉らの媚道(呪詛)事件で廃され昭台宮に幽閉、9年後には妹の不倫事件に連座して自殺を命じられた(在位14年)。
孝成班倢伃
- 成帝の寵を得て倢伃となったが、「聖賢の君には賢臣が侍り、亡国の主にこそ嬖女が侍る」と述べて成帝の同輦の誘いを固辞した逸話で知られる(太后はこれを「昔の樊姫のよう」と称賛)。趙飛燕姉妹の台頭とともに寵を失い、趙飛燕の讒言により媚道の疑いをかけられたが「死生は命、富貴は天によるもの。正しく生きても福を得ぬのに邪を為して何を望むのか」と毅然と答え無実を示した。以後、東宮(太后)に仕える道を選び、自らの半生を悼む長い賦を作った(要旨:寵愛を得た栄光と、それが仮初めのものであったことへの悲哀、太后に仕えて生涯を終える覚悟を綴ったもの)。成帝崩御後は陵墓を守り、その地に葬られた。
孝成趙皇后(趙飛燕)と趙昭儀
- 元は長安の宮人、陽阿主家で歌舞を学び「飛燕」と号した。微行中の成帝の目に留まり寵を受け、妹とともに倢伃となった。許皇后廃位後、太后の反対を押し切って皇后に立てられた(父臨は成陽侯)。後に妹が昭儀として寵を独占し、昭陽舎は黄金・美玉で飾られた豪奢を極めた。姉妹はついに子を得なかった。
- 成帝崩御の背景には、趙昭儀による後宮の妊娠妨害・嬰児殺害の疑惑があった(許美人・曹宮らが産んだ皇子を趙昭儀の指示で殺害させた経緯が、掖庭獄丞籍武の証言として詳細に記録される)。哀帝即位後、この件が司隷解光により摘発され、趙昭儀は自殺、趙皇后(太后)は連座を免れたが、後に王莽により孝成皇后に格下げされ、廃されて自殺した(在位16年)。
孝元傅昭儀(哀帝祖母)
- 元帝の倢伃で、才略に富み下々にも配慮の厚い人物として知られた。定陶恭王(哀帝の父)と平都公主を生んだ。恭王が薨じた後、孫(哀帝)を養育し、哀帝即位後は尊称を重ね「皇太太后」(永信宮)まで昇った。成帝母・馮太后(中山孝王母)との確執も深く、後者を讒言で自殺に追い込んだとされる。元寿元年崩御、渭陵に合葬された。
定陶丁姫(哀帝母)
- 定陶恭王の妃、哀帝の生母。丁氏一族も一時大司馬・列侯を輩出したが、哀帝崩御後、王莽の専権により丁氏・傅氏は次々と官爵を剥奪され、丁姫・傅太后の墓も暴かれ格下げの上に改葬されるという凄惨な末路をたどった。
孝哀傅皇后
- 定陶太后(傅昭儀)の従弟の娘で、哀帝が定陶王時代からの妃。哀帝即位後皇后となり傅氏一族が繁栄したが、哀帝崩御後、王莽により桂宮に退けられ、さらに孝成趙皇后とともに庶人に落とされ、自殺した。
孝元馮昭儀(平帝祖母)
- 元帝の倢伃。虎圏で熊が檻を出て後宮を驚かせた際、自ら熊の前に立ちはだかり「猛獣は人を得れば止まる、陛下の御前に至るのを恐れて身をもって防いだ」と述べ元帝の敬重を得た逸話で知られる。信都王(後の中山孝王)を生み昭儀となった。哀帝の代、傅昭儀(傅太后)の讒言により中山太后(馮氏)が上を呪詛したとの罪を着せられ、一族百余人が取り調べを受け、馮太后は「熊の前では勇敢だったのに、今はなぜ怯むのか」との皮肉を残して自殺した。
中山衛姫(平帝母)
- 中山孝王の妃、平帝の生母。哀帝崩御後、平帝が擁立されると、王莽は丁氏・傅氏の専横を戒めとして衛氏一族が都に上ることを許さず、衛姫を中山孝王后に留め置いた。莽の長子王宇がこれに反対し衛宝と密かに通謀した罪で、王莽は宇を殺し衛氏一族をことごとく誅滅した。衛姫のみは莽の簒国後に庶人に落とされ、程なく没して孝王の傍らに葬られた。
孝平王皇后
- 安漢公(王莽)の娘。平帝即位後、王莽が権勢を固めるため娘を皇后に立てさせた(詳細は王莽伝)。莽が摂政・簒位すると皇太后、さらに定安公太后に格下げされたが、婉順で節操ある人物として漢室滅亡後も常に病と称して朝会を避け、莽が再婚を勧めても頑として拒んだ。漢軍が王莽を討ち未央宮を焼いた際、「何の面目あって漢家に見えようか」と火中に身を投じて死んだ。
史論
- 賛にいう。易は謙譲と驕盈の結果を説き、天地鬼神から人道に至るまでこの理は変わらない。女寵の興りは微賤より生じて至尊の地位に至り、富貴を窮めながら功なきものが多く、これは道家が古来恐れた禍福の道理である。漢の興りから孝平帝に至るまで、外戚・後宮で寵を得た者は二十余人にのぼるが、その地位と一族を保ち得たのは文帝母薄太后・景帝母竇太后・武帝母王太后・邛成太后(孝宣王皇后)の四人のみであった。史良娣・王悼后・許恭哀后のように、身は不幸にして夭折しながらも家門が旧恩に依り恣に振る舞わなかったために家を全うできた例もある。それ以外の大半は一族が滅ぼされるか流罪となった。ああ、この史実を鑑みれば、変化の理は十分に備わっているというべきである。